笑うウミヘビ 51
「まんまと逃げられたな」、つぶやく口調は人間のそれに戻っている。誰かと問われればトマーシュだ。赤黒く岩のようにひび割れた皮膚こそ元に戻る気配もないが、少なくとも精神だけは人間種の姿を思い出していた。
「不覚でしたな。ペンダントを着けた者がいたから、てっきりヨーエンセンだとばかり」と応じるのはネナド・グリシッチ。フェニクシア公国の公爵で、ウミヘビの手の者へ追撃する役割を請け負っている。馬のように脚の速いトマーシュが合流してくれたおかげで、思いのほか捕虜を得られたものの、その中に大物たる3名の姿はどこにもなかった。
「イヴェルセン、ディラン、ヨーエンセン。誰ひとり捕らえられなければ、これは一大事。はてさて、どうしたものやら」
ネナドは自身が挙げた名前のうち2名が死んだ事実を知らなかったゆえ、少々気をもんでいた。3公爵の他の2名が戦果を得ていたのなら不甲斐ないにもほどがあると。その落胆に気づいたか、
「いや、公爵。捕らえた数十名という数は十分な戦果になるだろう。捕虜からは芋づる式に敵の関係者を引きずり出せるはずだ。ならひとりでも多いほうがいい」
とトマーシュがフォローを入れる。
「とはいえ、そういう情報はここいらの下っ端連中よりも、捕らえたスラヴコ殿からうかがうのが一番良質なものとなりましょう。不届き者を捕らえることが、治安維持にはなるのだけが慰みですな」
「そう落胆する必要はないと思う。そのペンダントだが、ヤネス様が魔王に依頼したことのひとつに、それの奪還があったはずだ。十分な戦果といえる」
「そうだったのですか!」、小難しい顔をしていた中年男性が、少年のような笑顔に変わった。あまりの変容ぶりはトマーシュが少々驚くほど。「元気になってよかった」なんて脊髄反射のような言葉を喉元で押しとどめ、苦笑にも似た笑い顔を返す。
そこでふと感じたことが。
(しかし……彼は私のこの姿が恐ろしくないのか? ホラー映画の化け物役か、ファンタジー映画の敵役にしか見えないと思うが)
事実、最初は公爵と彼の兵たちを警戒させてしまっていた。「味方だ」と理解されるまで、剣の切っ先をむけられる程度には。だが逃走する敵を何人も捕らえるうちに、彼らの目は警戒から尊敬のような色合いに変わっていった気がする。リザードフォークの女性兵士が「あの岩のような素敵なうろこを見た? 人間種に惚れたのははじめてかも」なんて言ってすらいた。聞き間違えでなかったとすれば、だが。
(元の姿に戻りたいとずっと考えているが……実はあまり悩む必要もないのだろうか?)
もちろん故郷たる地球に残したネル――今なお大切な恋人のことを考えると、岩のような肌に思うところはある。彼女と再会することが、今の自分の人生にとって最大の目標といえるから。それでも、それがいつになるか知れたものではない。その間は岩男でいることを甘んじて受け入れなくてはならない。
その仮の自分の姿が「悪い選択肢じゃないかもな」と思えただけでも、今日はいい日と言えるのだろう。もっとも、一番よかったことは傀儡師のくびきから解放されたことに間違いはないが。
「さて、トマーシュ殿」という言葉がかけられて、彼は思考の世界から戻る。「あなたさえよければ、場所を移動して残党狩りを続けたいのですが、いかがでしょう?」
「もちろん協力させていただこう。直接的にしろ間接的にしろ、あなたたちには迷惑をかけた。少しでも贖罪が進むのなら、ぜひそうしたい」
「結構、では行きましょう!」
不死鳥の守護者に連れられて、トマーシュは残党狩りを続けた。
その中で起こった戦いにおいて数名の命を助けた彼の働きは、命拾いした者たちの「あなたは勇者だ!」という賞賛によって報われたのであった。
◆ ① ⚓ ⑪ ◆
知らない場所の門をくぐるのは、いつだってワクワクと緊張が相席しているもの。それが国であっても、街であっても、家であっても。けれど今日にいたっては、いつも心のバスケットにつめているはずのワクワク感が見当たらない。逆腕に持った緊張感だけが、護身用のナイフみたいに輝いているだけだ。
魔女のイーダがそう思ったのは、テクラ教派の冒険者ギルド――通称清流のギルドの入口に立っているからだった。なぜそんな場所にいるかというと、それはちょっとした爪あとを残すため。つまりスラヴコたちに味方したこの冒険者ギルド支部に対して、一言物申す必要があったのだ。
建物の中からはガヤガヤとやかましい音が聞こえる。負傷者が運びこまれているのだろう。怒号にも似た声であるとか、人の駆けまわる足音であるとかが「混乱」という題名の楽曲を奏でていた。
(バルテリがどれくらいの冒険者を殺めたかわからないけれど……)
ここは現在、敵地に違いない。こちらの姿を見た瞬間に敵意をむけてくるかもしれないし、なんとなれば攻撃が飛んでくるのかもしれない。とはいえこの任務から逃げるわけにもいかないのだ。シニッカは疲労困憊で動けないのだし。
「<ᛒ, ᚩᛁᛖ:ᛣᛁᛚᛈᛁ>」、防御魔術を発動させて、開け放しの広い入口から、魔女はギルドの中に入った。1階はよくある酒場。テーブルがいくつもならんでいる広めの空間は、たくさんの人で手狭に感じる。テーブルへ寝かされた負傷者の数も多ければ、それを囲んで治療に当たる人はもっと多い。さながら野戦病院の様相だった。
こちらに注目する人は少ない。みんな自分の仕事に忙しくって、それどころじゃないといった空気。
(ギルド長を探そう)
自身にあたえられた任務はたったひとつ。戦闘の終結を宣言し、相手に認めさせること。「我々は君たちを追撃しない。そのかわりに君たちも我々を攻撃するな」という要求を吞ませるのだ。
歩を進めると、ブーツがゴツゴツと床を鳴らす。地下室があるせいか妙に響く。この喧騒の中ではささいな音だが、それでも数名がこちらへふりむいた。そして粘着シートに着地してしまった羽虫のように、視線をぴたりと固定する。眼球をふるふると震わせているのは、ベタベタの場所から逃げ出そうと羽根をもがいているからなのだろうか。
と、上のほうから目線を感じた。幅広帽のつばごしに。その人は背がとても高い人。
「貴様、まさか魔界の魔女か⁉︎」、オーガ種の戦士のひとりが叫ぶ。体がおおきいから声もおおきい。おかげでギルド内の視線が栓を抜いた風呂の水のように、一点へ集まるのを感じる。もちろん中心にいるのが自分だとイーダは理解している。
だから足を止め、ゆっくりあたりを見まわした。彼女としては周囲の警戒をするため。だが周囲から見れば強者が冒険者たちを品定めしているように映る。数名が床に置いたままだった武器をひろいあげ、また数名が魔術の詠唱のために息を吸いこんだ。
「<ᚩ、我が声を届けよ>」、演説をする時の魔王と同じ言遊魔術。相手に言って聞かせるのだから当然の選択。
(全員に襲いかかられたら嫌だな。気おされないよう、威嚇しながらのほうがよさそう。よし、少しおおげさにやろう)
「私はカールメヤルヴィ王国の魔女、イーダ。ここにきたのは戦うためではない。君らも同様であると助かる」
一節話すと、空間は急に沈黙の空気で満ちた。初動は成功か? と思ったが、仲間の死に頭へ血が上った人もちらほら。武器を構えて飛びかかろうとしている。
気持ちは理解できるけど、今はご遠慮願わなければ。
両手をゆっくり顔の高さに上げて、勢いよく振りおろす。両手に6本の白樺の枝。「こちらも武装しているぞ」という意思表示。
残念ながら一部に伝わらず――「死ねぇっ!」と飛びかかる目の前のオーガ。
「<ᛉ、戦場杭よあれ>」、魔女は即座に応じた。右手の1本が床へ枝をのばし、はね返って敵の眼前へせまる。数本に枝分かれし、子どもの腕ほどの太さになって、鋭利な先端を冒険者へむける。
「っ⁉︎」、彼が止まったのは幸いだった。そうでなかったらまたひとり負傷者が生まれていたところ。このすきに戦意を奪わんと、魔女はわざと低い声で言う。
「血に飢えているなら宝守迷宮へ行け。お前の都合で、ここを新たな戦場にするな」
帽子のつばから片目を出して、背の高い相手をキッとにらんだ。過分な言いぐさだと自分でも思う。が、しばらくはこれを続けなくてはならない。どうか、相手がひるんでくれますように、と願いながら。
幸い他に飛びかかってくる人影はなさそう。そう確認した魔女は、一種のこん棒外交――武力をちらつかせた話し合いを続けることにした。
「――枝嚙み蛇の名のもとに、魔界の王の要求を伝える。『停戦せよ』。そうすれば我々は君らの領域にこれ以上踏みこまない」
周囲をうかがいながらゆっくりと。鼓動を高鳴らせている人たちが聞き逃さないよう。
「ついで、ヤネス王からの伝言もある。彼には君らとの話し合いに応じる準備があるそうだ。君らはそこで、今回の事情を話せるだろう」
武力を誇示することは欠かせないが、かといって相手を追いこんではならない。窮鼠は猫を噛むものだし、袋小路に追いつめられた盗賊は強盗に変わる。だから「今ならまだ引き返せるぞ」と伝えることは、迷宮内に立てた出口をしめす立て看板と同じ。死を覚悟し凍える者へ、湯気の立つ温かいスープを提供するのだ。
これは効果があった様子。比較的冷静さをたもっていた者たちが、次々と腰の武器から手を離したから。
(ひとまずはよし。さて、この段階で他の事項――賠償金なんかに触れるのは言いすぎだな。別の話題にしよう)
取捨選択をすませた魔女は次の段階へ。「この場にギルド支部長はいるか?」
「……いや、いません」、ギルドのやや奥側から返答が聞こえた。治療に当たっていた医者のひとりだ。ギルドの構成員ではありそうだけれど、戦場に出て行くタイプじゃない人に見える。「1、2時間前から姿が見えません。我々は彼の行方も知りません」
「なるほど」、これは好都合。「――では君らと戦う理由などない」と、まずはきっぱり言い切った。この段になって仲間の死へ怒りを燃やしていた者たちも、戦意をくすぶりに変えはじめたのだろう。戦闘の構えを解く者がドミノのように次々と連鎖して、張り詰めた空気がいくぶんかやわらいでいく。
自分もそれにならって振る舞う必要があった。魔女はすかさず手の白樺をしまう。とげの戦場罠は光とともに消え失せ、そのむこう側にいた怒るオーガも2、3歩距離を取ってくれた。
「どういう意味ですか?」なんていう医者の問いは強力な援護射撃になった。質問は彼の望む返答を期待してのことだろう。つまり彼も荒事は望んでおらず、場をおさめるのに協力的なのだ。敵陣の中で味方を見つけた喜びを、魔女は笑顔にしないようぐっと我慢して、交渉ごとを終わらせにかかる。
「つまり首謀者は逃げた。ここにいる者たちがそいつに踊らされたことくらい、私にはわかる。もしも『いや、私は本心で戦いにのぞんだのだ!』と考える者がいるのなら、手を心臓に当てて思い出せ。『魔王が悪だ』と言ったのは、はたして本当に君自身だったのか、と」
それに返事はない。ただ数名がうなずいたり、まだ緊張状態の者の肩を叩いてほぐしたりしているから、言葉は通じたと見ていいはずだ。
停戦要求は受け入れられた。魔女は早々に踵を返す。
床へ規則正しい足音を残し、入口までゆっくり戻る。早く帰りたいし、まだ言わなきゃならないことも残っているけれど、やっぱり必死に我慢して役割を演じ切るのだ。
戸をくぐる直前、魔女の帽子へ陽の光が差したタイミング。彼女は歩みを止め、すっと振りむいた。
「ギルド長を探しておくのもよいだろうな。おそらくヤネス王はそこに報酬を用意するだろうから」
こちらを見る者のいくばくかが、新たな戦意をざわりと立てた。彼らには怒りの矛先も必要だ。それを少々利用させてもらう。
当のギルド長には気の毒な話だけれども。
(よし、これでいいはず)
月並みな自己評価を心に、魔女のイーダはその場を去った。帰りにガラスへ映った自分の顔が「ふぇっ」とゆるんでいるのを見て、「自分の本当の顔は腑抜けてるなぁ」と苦笑しながら。
彼女が帰ったあと、テクラ教派冒険者ギルドの構成員に「bjǫrksormr――白樺の蛇」やら「六本枝のイーダ」やら、「グッリンカムビの魔女」なんていう新たな異名をつけられていたと知らぬまま。




