笑うウミヘビ 50
古城、天守の地上階、いわゆるDungeon。広大な場所とはいえない必要最低限の狭いスペースではあったが、それでもふたりだけだとずいぶん広く、そして物悲しく感じた。薄暗いのもあるし、石の壁が冷たいのもある。なにより物音がほとんど聞こえない。ランプが芯を燃やすチリチリというちいさな音が聞こえるくらいには。
そんな静けさに時々まじるのは、ベッドの上へ横たえられた勇者ディランの死にかけの声。「ぐぁあ……、あぁ。痛い、痛いよ」と、もう何十回も同じ言葉を繰り返していた。
「我慢しろ」、こちらも何十回と応じる声。恋人たるイヴェルセンはベッドに腰かけ、ディランの額へ手を置いていた。魔術で苦痛を取り除くでも、元気づける言葉を吐くでもない。ただ単に最後の瞬間を見おろしているがごとき所作は、他者が見たのなら冷徹と感じるほどでもあった。もっとも、すでに城には彼らふたりだけ。誰かが口をはさむこともない。
「ねぇ、イヴェルセン」、震える唇でディランが語りかける。ヒュドラーの毒によってもたらされた濃緑色のシミは全身に広がっていて、生者を死者にしようと四肢をのばしている最中だった。玉のような脂汗が全身を濡らし、それがつぅっと体をつたうたびに、彼は痛みに体をはねさせる。だから激痛の中、パートナーに懇願するのだ。「そろそろいいでしょ? 殺してくれると、助かるんだけど」
「だめだ。最後まで私のために生きろ」
ぴしゃりと願いをはねのけた。有無を言わさぬ強烈なエゴ。魔王になるという夢が果てた、オヴニルの最後の欲望。そんな形でしか愛を表現できない男は、不器用に笑いながらも、現状に満足していた。
もし歴史家がエミール・ヴィリアム・イヴェルセンを評せば「拙速だった」と書かれるだろう。とくに最後の2日間において、少々生き急いだ感も否めない。目の前にぶら下がった報酬を得るため、ありとあらゆるリソースをつぎこんでしまったから。でも拙速なくして激流は生まれないとも思うのだ。豪雨で発生した鉄砲水は最終到達点など気にしない。周囲のものを巻きこんで、騒々しく荒々しく、大蛇のように身をよじらせるのみだ。
だから満足感があった。その最後を、恋人の横で閉じることについても。
「ひどいやつだね」、とディランに言われた。「知っていただろう?」なんて言葉を返す。もはやこの場を動くまい。背後に立つ死神が鎌を振りやすくするために。
とはいえ、自分の体が誰かの戦果になるのは、ごめんこうむりたいところ。外から喧騒が聞こえてきた。3公爵の私兵がここへ押しよせてきているのだろう。
「なんとも情緒のない連中よ。が、しかたない。ディラン、そろそろ我々の物語へ幕を下ろすぞ」
「やっとその気になったんだね。早くしてくれると嬉しいな。君らしくもない」
恋人の悪態を聞いてから、イヴェルセンは手へ魔力をこめた。生涯最後の魔術になる。そして、そこへ使うルーン文字が、あの魔女にさんざん使われたものであることに皮肉気な現実を感じるのだ。
「――<ᚳ、苛烈なる火葬台よあれ>」
ぼうっ、円状の空間へ真円の炎が立ち上った。自分たちをすっかり囲むように、紅蓮の檻が橙色の鉄格子をのばす。
火勢は旺盛、ごうごうと。もしここが森だったとしたら、木々は残らず灰になるくらいに。
「アンガンチュールが心配だよ」、息子に対する心配のつぶやき。それがディラン最後の言葉になった。
対するオヴニルもそれに応じる。「やつならきっとうまくやる。次の魔王は我らの息子だ」
……それがいつになるかわからないが。
炎は驚くほど燃え盛った。動乱の最後を劇的にするため、そこにあった可燃物の量よりも激しく赤い色を放った。
死の直前、オヴニルはふと思う。火が消え、灰にまみれた森のこと。きっと真っ先に芽吹くのは、成長の速い白樺だろう。
(ふふっ、皮肉にもほどがあるだろうに)
最後の瞬間を覚悟した者へ、一酸化炭素が気をつかう。焼死よりもすみやかな死を、オヴニルと勇者へもたらしたのだ。
やがて、ふたりの男は灰になった。
燃え残りが、どちらの骨かもわからぬほどに。
◆ ① ⚓ ⑪ ◆
ガシャガシャ、バタバタとやかましい音。それが天井が高い廊下にこだまする。ところどころに壁掛けされた人物画たちがそろって難しい顔をしているのは、それが耳障りだったからだろう。けれど音の主たちは、そんなの知ったことじゃない。先頭を足早に歩くヴカン・ミトロヴィッチ――バートラグラッドを治める全身鎧愛好家の公爵にとってはとくに。
忠義――なんとも甘美な言葉だ。それが手の中にあるのなら、ほおずりしてしまいたいくらいには。
先日まで「どっちに味方しようか」と邪念極まっていた忠臣たる彼は、王宮の廊下を早足で抜けると、観音開きのおおきな扉を開けた。早歩きの余韻もあって、それなりの重量があった扉は西部劇の酒場の入口かのごとく、ぐわんぐわんとゆさぶられてしまう。
「スラヴコ殿! 戦は終わりであります!」と言い放ちながら、彼はズカズカと玉座へ進む。衛兵たちのど真ん中へ恐れ知らずに足を踏み入れるものだから、誰もそれを止められず、モーセに相対した海のように左右へ割られてしまうのだ。
そのように迫力のある彼と対面するのは、玉座へうなだれるように座ったスラヴコだった。額には苦悶の溝、ほほには冷や汗。目は真っ赤に充血していて、これ以上になく疲弊している。
「スラヴコ殿。ウミヘビの連中は死にました。勝ったのは魔王であります。そして当然、我らが主人はヤネス2世でありますゆえ――」
ヴカンが言葉を切ったのは、スラヴコが手を上げたから。わかっている、と口にするかわりに、力なく現状を認めたのだ。
「ああ、バートラグラッド公爵。わかっている。サラマンダーの主たる君がきたのだから、結果は火を見るよりあきらかだ」
「心中はお察し申し上げます。さりとて私は忠義をつくす者。どうかご足労願いたい」
軍人らしいしゃべりかたに、軍人らしい無駄のない要求。ヴカンはスラヴコを捕らえ、地下牢へと連れて行った。
騒動の首謀者がいなくなったことで、騒乱は急速に終息へむかっていった。
◆ ① ⚓ ⑪ ◆
3つの古城のひとつ、ウミヘビたちの根城。明日にもなればここが古城から古城跡になることは誰の目に見てもあきらかだ。天守からはじまった火災はどういうわけか可燃物の少ない中庭を苦もなく横切り、厩舎も倉庫もなにもかもを赤くなめていた。
青空を黒煙でだいなしにしながら。
「公爵、偵察兵からの報告です。やはり中には入れません。火勢が強すぎます」
「私たちがここにきてしまったのは人選ミスでしたね。サラマンダーの主たるヴカンを連れてくれば、消火作業だってはかどったでしょうに」
城の周囲には兵たちと、バジリカゼミリャ公爵ニコリーナ・クネジェヴィチがいた。魔王からの要請にしたがい、イヴェルセンとディラン、ヨーエンセンを捕縛しにきたのだ。けれど手の出しようもない。すでに彼らは死んでいるはず。この猛火では満足な形を残すとも思えない。けれどその中に飛びこみ大やけどしてまで、形の残った死体を手に入れたいとも思えなかった。
今すぐ炎へ「石になれ」と視線を送られれば別だったけれど。でもいいのだ。あれは今回、劇的な役割を果たした。
「厩舎にヒッポグリフはいましたか? まさかウミヘビたち3名がそろって逃走なんてしていないでしょうね?」
「ヒッポグリフにはそれほどの人数を乗せられますまい。事実、数名の捕虜から得た情報では、それに乗って逃げたのは商人ヨーエンセンただひとりとのこと。ウミヘビ男とその相方は、おそらくあの煙の中です」
報告を聞いて、はぁっ、とため息がひとつ出た。首謀者たる3人のいずれかでも生きて捕らえられたなら、大戦果に違いなかったのだ。けれど自分たちの役割といったら、消火後に1名の逃亡を残念がることと、2名の死亡を確認することくらい。
推したるフェンリル狼様に、生餌を献上したかったのに。
手出しできぬまま1時間ほど。炎はやがて火に、そしてくすぶりに変わり、焼け焦げた城壁が「ここは廃墟」という看板を掲げだしたころ。
すっかりうなだれる女公爵に対し、「よう、ニコ」と声がかけられた。聞き覚えがある、というより忘れるはずもない声だ。ニコリーナはさっきまで彼のことを考えていたから、心臓を口から射出して灰の上へ転がすほど驚いてしまった。
「ば、バルテリ様! どうされたのですか⁉︎ ありがとうございます! どうしたのですか?」と、まずはひとつ迷い言。気の利いた翻訳がその言葉を手に取ったあと、「ま、これはこれでいいかな」とそのまま左へ流したせいで、驚きと嬉しさと感謝とがぐちゃぐちゃにかき混ぜられた聞くに堪えない言動がフェンリル狼を笑わせた。
「ははっ、どういたしましてだ。なに、こうなるんじゃないかと思ってな。ひとつ加勢しにきたわけさ。とはいえ、ちっと遅すぎたな。死体の確認だけして帰るとしよう」
そう言った狼から、続けて「一緒に行くか?」と思わぬお誘い。是非もなく「ぜひ!」とのたまった女公爵は、そろって熱の残る城内へと足を踏み入れていった。
中は建造物の死骸の上に白い煙が立ちのぼる墓場のような様相。厩舎の馬が焼死体になり、あろうことかうまそうな香りを四方へ放っている。しかし人間の死体は見当たらない。そろってここから逃げ出したのだ。周囲で捕縛した者も多かったが、捕らえきれなかった者もそれなりの数になるだろう。
デートをするにはふさわしくない場所といえた。でも心を弾ませるニコリーナは、心中で自身の妻子に対し「ごめんなさいね。でも推しだけは別格だから」なんて言い訳しながら現状を楽しんでいた。チラチラと推しの横顔を観察しながら。
「これはなかなかの燃えっぷりだぜ。すぐに見つかるといいが……」
バルテリのつぶやきへ、女公爵は名残惜しそうにしながら、残った構造物へ視線を移動させる。天守は木製の構造材を失って、2階部分より上がバラバラに崩壊していた。とはいえ完全に押しつぶされなかったのは僥倖か。本来2階から入らねばならなかった地上階も、崩れた壁から侵入できそう。
「ニコ、この城に地下があるかどうか、知っているか?」
「はい。たしか離れからトリグラウ城へのびる通路があったはずです。もっとも、数年前に維持費の観点から封鎖されたと聞いていますが」
「なら、まずは天守の地上階から調べるとしよう。やつらのことだ。『逃げない』と決めたのなら、暗いところで死を選ぶだろうさ」
迷いなく進む狼は、まだ赤く焼けている壁の石材をむんずとつかみ、はがした。次々にポイポイと放る。そうやって人のとおれるくらいのすきまを作ると、長身を器用にねじこんで中へと侵入した。あちこちけがをしているだろうに、痛がるそぶりも見せないで。「さすがだなぁ、私の推しは」と女公爵が満足げな表情をうかべた矢先、壁のむこうから「Voi ei……」とため息が聞こえた。
「どうされましたか?」、自身もすきまから中に入る。しかし狼以外、誰もいない。そこには散乱する石材と大量の灰以外、なにもないように思えた。
逃げられましたか、と落胆しそうになった時、狼が膝立ちになって、ふぅっと地面へ息を吹いた。そしてそこからなにかを2、3個ひろい上げたのだ。
「見ろよ」と言われるがまま、狼の手に視線を落とす。人の骨が2本。それから、おそろいの指輪が1対。熱でゆがんでしまっているが、煤を指の腹で拭ってみると、外側にはハラルドという王の名、そして内側にはそれぞれの名前が書いてあった。
これはイヴェルセンとディランの物だ。
「ここにある灰はふたりの死骸? それとも指輪を残して逃げたのでしょうか?」
「かもしれないが、直感ではここで死んだと思うぜ。魔王様から聞くところによると、ディランはヒュドラーの毒に侵され、助かる余地がなさそうだ。相方のイヴェルセンは意外と情熱的なやつだったらしい。死が決定した恋人との思い出を残して、ここを去ったりしないだろう」
予想しながら、狼は他の遺留品を探していた。彼が灰を払うたび、装飾具であるとか魔法具らしき物品とかが灰色の中でキラリと光る。その輝きぶりといったら、死者のかたわらにある物にしては無邪気なほど。おかげでそれらが「ぷはぁ!」とか「やっと息が吸える!」とか、安堵しているようにすら見えた。
なんにしても回収すべきだ。ニコリーナは指輪ふたつを狼へ返し、かわりにいくつかの装飾具を受け取った。ヤネス2世に戦果を証明するためでもあるし、将来、今日の戦いを思い出さんと暖炉の前でながめるためでもある。
(ずいぶんと重みのあること……)
素材に金が使われているというのはわかるが、それにしたって重たく感じた。けれど考えてみれば納得だ。昨晩から行われていたのはまぎれもない戦いであり、ゆえに命を奪われてしまった者もいたのだから。そこには当然、自分の部下もふくまれる。
これは命の重さなのだ。
推しに会ってたるんでいた自分へ、釘を刺さすような重量だった。「お前は公爵で、ゆえにこれから戦後処理をしなければならないのだぞ?」といった具合に。
「バルテリ様。ともかくこれで戦いは終わりました。ここは我々にまかせ、魔王様と合流なさってください」
「お言葉に甘えよう、バジリコックの主よ。協力に深く感謝する。お前さんが味方でよかった」
感謝の言葉を、「ありがとうございます」と礼儀正しく受け取った。颯爽と去って行く推しの狼へ、「こちらこそ光栄でした」と口の中でつぶやきながら。
ふと周囲を見ると、見なれた部下たちの指示をもとめるような顔。さて、しゃきっと女公爵に戻り、この場を仕切って見せなくては。
「さあ、まずはくまなく探しなさい。生き残りも、死にぞこないも、生き残れなかった者も、死に体も、全部」
ニコリーナの命令によって、またひとつ、事態は終息していった。




