笑うウミヘビ 49
ドクの治療中に聞こえてきた足音は、聞き覚えのあるもの。蛇の湖のせせらぎのように、安心感すら覚えてしまう。
音が十分に近づいたあと、魔女は振り返りながら言った。「バルテリ、お帰り」
「よう、こっちも終わったか」、応じた彼の姿を見て、魔女は多少なりともギョッとしてしまう。青い毛並みのフェンリルが、返り血で真っ赤に染まっていたから。ところどころに巻いた包帯と一緒に、色合いはフランスの三色国旗。
そう思ったのはシニッカも同じだった様子。「ご苦労様。人を殺めたあとのあなたが『自由・平等・博愛』と同じ色をしているだなんて、おもしろい発見があったわ」
「魔王様よ、トリコロールのことを言ってんのか? 地球の……フランスの国旗だったか。ま、いいぜ。たしかあそこの国歌は、ずいぶん物騒だって話をしてくれたよな?」
「『敵の血で田畑を潤せ』ね。血まみれのあなたにぴったり」
また軽妙で黒い会話がはじまる。「でもスポーツの試合の時にも流れるのよね、あの曲」とシニッカが言えば、バルテリは「いいじゃねぇか。これだけ苦労したなら、どんな場面であろうと語りたくなるってもんだ」と応じる。そんな会話を聞いていたから、魔女も言動を黒くしてしまった。
「でもさ、『自由』はともかく、バルテリの戦いは『平等』でも『博愛』でもなかったと予想するけど?」
「ははっ! そのとおりだ。あれは後処理が大変だろうぜ。白い臓物と赤い血液を床にまいて、生き残りの連中の顔色を青ざめさせてやったからな」
「魔女の意見に同意する」、次の途中参加者はサカリだ。ドクから渡されたポーションをクイッと飲み干した彼は、あき瓶をポイッと放りながら同意の理由を理論的につぶやいた。「放蕩権を行使し続ける、国防大臣らしいともいえる。そこの狼が汚れを洗ったら、残るは『自由』の青だけだろうからな」
「ははは!」とそろって笑う声。殺し合いの直後というのに、そろってジョークが口を突く。不謹慎と言えば不謹慎。けれどいいのだ。
我々は魔界の者だから。
戦闘後の独特な空気感を、イーダはしっかり楽しんでいた。重めの夕食を食べ、最後においしいコーヒーを飲むように。敵を取り逃がしているから本当はそんなことしている場合じゃないけれど、食後の一杯をゆっくり楽しまないなんて、自分たちらしくないとすら思うのだ。
魔界の天使がみんなの場所へ給仕のように行ったりきたりした後、そろそろ宴もたけなわとなった。これが晩餐の場なら、主催は当然魔王様。彼女は締めの言葉を欠かさない。
パンっとひとつ手を鳴らし、みんなの注目を集めて言った。
「ともかくみんな、見事だったわ。地の利がない場所においても、私たちはうまくやれた。今後どこで戦いが起ころうと、私たちは勝つでしょうね」
ヴィヘリャ・コカーリに対する信頼と自負心。嬉しくもあるけれど、やっぱり魔女は少々照れくさい。そこでからかいがてら、合いの手を入れてみることに。「そこが地球のアパラチア山脈でも?」
「アメリカ合衆国に勝つ算段がついたのならね。あなたが『いいニュース』を思いつくと願っているわ。ともかく――」
突然の横槍にも、魔王様は満足そう。それはきっと自分の仲間たちが、充足たる結果を残したからに違いないのだ。
「そんなふうに私が異世界を旅するのなら、きっとあなたたちを連れて行くでしょう。もし異世界へ旅立つ者へアドバイスをするのなら、あなたたちのような人材を集めてから行くように言うでしょう。万が一、私たちが死んだら、一緒にヴァルホッルへ攻め入りましょう。きっとオージンの首を取るだけでなく、九つの世界を牛耳ることすらできるでしょうから。――感謝するわ、みんな」
手厚いねぎらい。4大魔獣も、魔女も天使も、少し離れたところにいる夢魔も、そろってそれを受け取った。忘れてはならないのは、彼女がこの世の魔王ということ。普段一緒にいるから忘れがちだが、世界各国の中で、彼女ほどの有名人はほとんどいないのだ。
価値ある感謝を受け取って、おのおの自己肯定感を増していた時。居心地の悪そうなアム・レスティング以上に蚊帳の外にいた男が、むくりと起き上がり、驚いて言った。
「今、君は地球へ旅立つようなことを言っていたか?」、声の主はトマーシュだ。恐ろし気な赤黒い体に似合わぬほど、目を丸くしている。
むしろ驚いたのはまわりの者たちだったのだが、魔王はすぐさま応答してみせた。「ええ、言ったわね。けれどたとえ話よ? まだ意識が混濁しているかしら?」
「そ、そうか。それは……すまなかった」、とまどいと、ちょっとの落胆。そういう感情が表情に見て取れる。
(これは……ちゃんとお話を聞いてあげたほうがいいかも)
「ねえ、トマーシュさん。私はイーダ・ハルコ」と魔女はすかさず声をかけた。「あなたと同じく、地球出身なんだ。元日本人。あなたはどこからきたの?」
「そうだったのか! あ、いや、おおきな声を出してすまない。私はスロベニアからきた。そこで……たぶんトラックに殺され、今ここにいるんだ」
寝起きでまわりにくい口をなんとか動かしながら、彼は話を聞いてほしくてしかたなさそうに魔女を見る。放っておけなくて、イーダはシニッカに「お話をしても?」とおうかがいを立てた。答えはもちろん「Yes」。ならばじっくり話を聞くのだ。
「トマーシュさん。話せるところだけでいいから、少しお話を聞きたいよ。あなたがどういう経緯でここにいるのか」
「今の私にとって、それはありがたいことだ。言葉に甘えさせてもらおう。私は――」
妙なタイミングで唐突にはじまってしまったトマーシュの独白。とはいえヴィヘリャ・コカーリには大切な情報源だったから、おのおの邪魔をすることなく彼にしゃべらせることとなった。
内容は彼の死から、ウミヘビの連中へ操られることになった経緯まで。異世界転生をはたしたあと、恋人に会いたいという心のすきを巧妙に衝かれ、人ならざる者に堕ちることとなった、その成り行きだ。言葉を詰まらせることもいくばくか。魔女はウミヘビに対する怒りやトマーシュに対する同情とともにその話を聞いた。
しかし、彼の情報はよく整理されていた。こういう場合、心をかき乱されてうまくしゃべれない人が圧倒的大多数だろう。なのにわかりやすい――吐露や独白といったものではなく、説明という利き手へ配慮した語り口だったのは意外だった。イーダはその理由を、きっと怪物になってからも「もし救われて自身にあったできごとを人に話す時には、こうゆうふうに話そう」と思い描いていたのではないかと推察していた。
自分だったら、そうやって人間性をたもつだろうと思ったから。
ともかく彼の話の中で、いろいろなことを知れた。
たとえば彼の転生時期。魔女がちらりと予想したとおり、6月2日、つまり勇者イヴォと野球の試合をしていた日だ。ここにいる全員が魔界から出ていたから、勇者の認識阻害の影響をモロに食らってしまう結果になった。
まだ天界にいた彼が、地上へおりる前に自分の固有パークを有効化した理由についても納得できた。どうしても恋人と連絡を取りたかったのだそうだ。ストリーミングなんていう手段を知ったら、そのプラットフォーム経由で地球にアクセスできないかと考えるのは当然のこと。結果はうまくいかなくて、彼は落胆することになってしまったけれど。
そして地上におり立ったあと、ウミヘビの連中の罠にかかってしまった。彼は幾度となく煮え湯を飲まされてしまったという。
「――望まぬ剣を振らされるのほど、辛いできごとはなかった。自身の死より心にきた。だってそうだろう? 死んだ者も殺した者も、その場にいない者の都合で踊らされていたのだから」
途中で一番苦しそうな表情をしたトマーシュへ、イーダは「あなたは被害者だよ」とはっきり伝えた。自責の念に駆られる気持ちはわかる。けれどそれに精神を押しつぶされてしまうなんて、あんまりな結末だ。だから彼が少しでも楽になるよう、ちゃんとかばってあげたかった。
もっとも魔女は、自分自身がそれを伝えるまでもないことをすぐに知る。サカリが口を開いたのだ。
「君が人体操作魔術に必死で抵抗していたことを、私はよく知っている。君が何度攻撃の手を止めようとしていたかも、そうすることによって傀儡師のディランからどれほどの苦痛をあたえられていたかもだ」
「…………」
「裏切られ、体を奪われ、望まぬ殺しをさせられた状態でも、君は君をあきらめなかった。スースラングスハイムの連中に対し、自分のすべてを明け渡してなるものか、とな。君は私と剣を交えながら、同時に私とならんでウミヘビへ剣をむけていたのだと思う。賞賛すべきだし、尊敬に値する。ゆえに私は君の味方をしよう。世界の誰が、なんと言おうと」
「ありがとう、サカリ。本当に……ありがとう」
目には涙。すぐそれはほほをつたって、血よりずっと薄くなった赤色のしずくを床へと落とす。操られていた期間がどれくらいか知れないけれど、そんなもの24時間だって多すぎるくらいなのだ。だから彼の嗚咽が負の感情を洗い流してくれることを魔女は願った。恐怖とか悔しさとかを涙の川の水流でもって海へと流し、安心とか安寧とかだけが彼の手元に残るようにと。
負の感情――塩辛い涙は、海に棲む蛇たちが責任を持って飲みこむべきだ。
彼の精神状態が落ち着くまで、自分もふくめた魔界の人たちは黙っていた。いつもどおり、ひとこともしゃべらないで。人が立ち直るには時間が必要で、その時周囲の者はその人のそばにいてあげるだけでいい。決してそこを離れず、一緒に受け止めるため。
トマーシュが話せる状態まで回復したころには、ドクの治療もほとんど終わった。オンニとアムも近くにきている。次の行動を話し合うためだ。
けれどその前に、アムのことについて心象を整頓する機会が必要だった。「アム・レスティングさんだね。私はイーダ。協力してくれてありがとう」
「ううん、いいの」と寂し気な表情。戦いの中、彼女が叫んだ「グリーシャとレインのかたきだ!」というのが、すべてをあらわしているのだろう。「こちらこそ機会をあたえてくれてありがとう」なんて、顔をふせたままつぶやいている。会話する元気はなさそうだ。
かわりにオンニが事情を話す。「アムさんは僕の誘いに乗ってくれたんスよ。ひとりでも多くの戦力が必要でしたかラ、地下牢へ勧誘に行ったんでス。もちろんヤネス2世には許可を得まシた。いわゆる超法規的措置っスね」
「なるほどな。じゃ、アム。お前さんはヤネス王に協力することで、罪を軽減されるってわけか。けれどそれで足りるのか? 国王侮辱罪とか犯罪のほう助とか、そもそも国家反逆の罪を犯していることとか。お前さんの上に乗っている罪ってのはギロチンの刃が3度落ちるくらいに重いもんだと思うが?」
バルテリの言葉は手厳しいものの、実際にそのとおりといえる。とくに絶対王政が敷かれたこのトリグラヴィア王国において、王の言葉は国家憲法を記した分厚い書類束よりも重い。その王を貶めたのだから、いくら法律が許そうと、王が許さねば死罪になるのは自明の理だ。
でもイーダはヤネス2世のひととなりをいまだに勘違いしていた。オンニがその理由を教えてくれる。
「ま、それこそヤネス王次第っスよ。アム・レスティングは夢魔でスし」
一瞬空気が固まった。夢魔ですし、という言葉の意味するところが信じられなくて。
「おいおい、夢魔に篭絡される王なんているか? マジか? それが許されるなら、トリグラヴィア王国ってのはステレオタイプな独裁イメージそのまんまじゃねぇかよ」
「王政が暴力的という国家イメージは、ヤネス自身の情報操作によって生まれたものっスよね? つまり嘘っス。『嘘に真実を1割混ぜると信ぴょう性が増す』という常套手段にのっとって行動しているんじゃないっスかね?」
なんとあきれたお話だ。たしかにアムさんの容姿は魅力的だけれども、国家反逆にかかわった人物の処罰がそれでいいだなんて。そもそも、そんな脅迫じみた手段で側室に入れるのが正しいとは思えない。
「それに彼女がヤネス王に協力したのは、今回ディランを倒したのが最初じゃないんスよ。ヤネス王がスラヴコの演説に割って入ったでショ? あれはアムが協力要請に応じたものだったんス」
「にしたってなぁ……」、浮かない顔のバルテリを横目に、イーダも「大丈夫なのかな?」なんて考えてしまう。そこへ、
「あなた自身はどうなの?」と、聞きにくいことを会話へぶちこむ魔王様。顔を見ると舌が出ているから、別に助けるつもりはない様子。魔界の倫理観の悪い部分が発露しちゃっているなぁなんて、イーダはちょっと嫌な気分に。
が、魔女はそのへんの事情もてんでわかっていなかった。
「……私が選んだ道だから」
(え?)
思わずアムの顔を見る。はにかんでいる、ように見えた。生き残るために嫌々応じたであるとか、強要された場合に生じる悲壮感であるとか、そういったものではなく。
それでもイーダは心配になって、本心を確認してしまう。「本当によかったの? それ以外に生きる選択肢がないのはわかるよ。けれどそんなふうに身を振るなんて」
「私は夢魔だ。国王を篭絡するなんてこと、普通じゃ機会もあたえられない。これはチャンスなんだ」
表情が明るいかと問われれば、無理しているようにも見える。けれど心の底から拒みたいようにも見えなかった。ゆえに魔女はそれ以上質問を重ねない。自分の中で、ひとつ腹落ちしたことがあったから。
きっとアムさんが言った「チャンスなんだ」は本心だろう。ヴァイキングの村でオンニ(あの時はリリャ)が見せた領主に対する篭絡合戦を見ているから、夢魔という種が自分たち普通の人間種とは違った感覚を持っていることくらい想像もつく。
だから彼女の元気がないのは、「なにもこんな形でチャンスがおとずれなくても」という後ろめたさなのだろう。グリゴリーさんとレインさんという仲間を失う代償に、自分だけが得をしていると感じているに違いない。
少なくとも、そう納得しよう。考えている魔女へ、「それにさ」とアムが続けた。「死んじゃった人に対して、死で償うのって悲しいもん。そこで彼らのすべての物語が終わりになっちゃうから。私が死んじゃったら、誰が彼らの名誉を回復してあげられる?」
「わかったよ、アムさん。私は異論がない」、魔女はうなずいた。次いで目線を魔王へ。彼女は肩をすくめ「いいんじゃない?」と一言だけ口にした。
コンセンサスは取れたのだ。その結果に、魔女はひそかに胸をなでおろす。
ずいぶん多くの人が亡くなったと感じていた。これ以上はお腹いっぱい。ただでさえ食べ慣れていないのに、さらに死に対する負の感情を飲みこみ続ければ、血反吐を吐いて苦しみかねない。
(前に進もう。まだ完全に終わっているわけじゃないもんね)
魔女の決意が伝わったのか、全員がうなずいたのを見た魔王は、すぐに次の指示を飛ばした。「もう少しだけ休んだら、ヤネスと合流しましょう。スラヴコの捕縛、それとペンダントの回収。動けない者は魔法の絨毯をとおってカールメヤルヴィへ退避なさい」
ヴィヘリャ・コカーリは仕事の締めに入る。戦後処理という仕事がはじまろうとしているのだ。生きている者に対しては未来を保証してやる必要があるし、罰を受ける者には冷たい牢獄を用意する必要もある。
もちろんその裏で、死にゆく者たちもいた。
スースラングスハイムのふたり、イヴェルセンと勇者ディランだ。




