笑うウミヘビ 48
「……イヴェルセン様」と声を発したのは、ウミヘビの商人ヨーエンセンだ。古城へ戻ったふたりの男に、それ以外の声をかけられなかった。
(ああ、彼らは負けたのだ。これで私も、お終いなのだ……)
絶句と絶望。顔面は水銀の白粉でも塗ったかのように蒼白となり、眼球はベラドンナでも摂取したかのように拡大し、震えていた。
そんな彼へ、オヴニル・イヴェルセンは苦笑とともにねぎらいの言葉をかける。「ヨーエンセン、つきあわせたな。貴様の忠義は見上げたものだったが、しかし貴様は運に見放された。失った賭け金はおおきかろう。許す、私へ悪態をついてもいい」
「……いいえ」、顔色が真っ青なまま、それでも商人は拒絶した。目的のために手段を選ばない――つまり不名誉だろうが、手を汚そうが、金銭さえ手に入ればかまわない彼ではあったが、ここで主人へ悪口を連ねるなど断固として拒否したい気分だったのだ。
動悸がひどかったから、彼が次の言葉を吐くまでたっぷり時間が必要だった。その間にイヴェルセンはディランを天守の部屋へ連れて行き、そこにあった質素なベッドへていねいに寝かせてやっていた。ヨーエンセンはそれについてまわり、ディランの苦痛の声が少々やわらいだタイミングで、ようやく主人へと返答する。
「イヴェルセン様、私は欲深い男です。1枚の金貨を得るために、ひとりの命が失われようとかまわないほど。しかしそうやって手に入れた宝箱の中身は、残念ながらあなたがたの血しか入っていませんでした」
「そのとおりだ。私たちの血液など金にならん。首ならヤネスへ売りようもあろうが、少なくとも私に味方した貴様が取りあつかうべき商品ではないな。もう私とディランは、金にならん」
「はい。ゆえに箱の底へこびりついた金の残滓――悪人としてわずかばかりの矜持だけは手放したくないと思う次第です」
自分でも意外な言葉。それはオヴニルにとっても同じだったのだろう。彼はめずらしく「ふふっ」と頬をゆるめた。
「徹頭徹尾、見事な男だ。私がニヴルヘイムでファーヴニルに出会ったのなら、蛇の臥床の番人は貴様にあたえるよう言っておく」
恐縮です、ぼそりとつぶやく。それ以外に言うことが思いつかなかったのだ。今のヨーエンセンには、自分の感情がよくわからない。賭けに負けた悔しさとか、自身の死に対する恐怖とか、泥炭地の地面を両手いっぱいにすくったのような、にっちもさっちもいかない心持ち。よく探せば褐色炭くらいまざっていそうだけれども、それが現状になんの役に立つだろう?
その炭は火を着けて自殺すらできる量ですらないのだ。ゆえに彼はそれ以上言葉を発せなかった。
そんな彼へ正気を取り戻させたのは、他ならぬ主人の最後の命令。
「ヨーエンセンよ、国へ帰れ。いつぞやのヒッポグリフは貴様が回収していたろう。貴様ひとりだけなら、あれを使ってスースラングスハイムへ帰還できる」
「な、なにをおっしゃいます⁉︎ そうやって戻ったところで、私に未来などありましょうか⁉︎」
「ある。まあ聞け」、横たわるディランの額をなでながら、オヴニルは商人へ指示を伝えた。「我が王エルフレズ10世は、私が失敗した時に逃げ帰った者を処罰するほど狭量ではない。有能な人物というものは、失敗から失敗へ渡り歩く者だと知っているからだ。そしてありがたいことに、彼は私の子――アンガンチュールを愛してくれている。ヨーエンセンよ、貴様が後見人となれ」
「そ、そんなことが許されますか? スースラングスハイム王国は、今回のことで矢面に立たされましょう。その時に罪を着せる人間が必要になるではないですか! そんな者になるのはごめんです!」
「ふふ、冷静さが失われているな。そういう事態に対し、我が国がどれほどの替え玉を用意していると思っているのだ。ロッケ・イェンス・ヨーエンセンは死ぬだろう。しかし貴様がその人物である必要などない。そうだろう?」
商人は反論を言いよどんでしまう。「そんなにうまくいくか」という意見を、理性をつかさどる脳が声高に叫んでいた。けれどもそれ以上に彼の感情をつかさどる心臓は、「それがうまくいったのなら、私は最高の詐欺師になれる!」などと心音高く鼓動してしまっているのだ。
おかげで顔色へ血の気が戻ってきた。四肢へ力も入ってくる。呼吸だけが荒いままのは、新たな商機を見つけたからか。
「ああ、その顔だヨーエンセン。私もディランも、貴様のその表情に一目置いていた。貴様の最大の武器は、弁舌でも商才でもない。そのどこまでも商売が好きな精神と、折れぬ意志なのだ」
だから貴様は一番大切なものを失っていない、と言葉が続くことはなかったけれど、言われずとも商人は理解した。そしてその先にある、もっと心躍るだろう仕事の予感も。
冥府に列なす死者たちの中から、さっとすくい上げられた気持ちになった。背中へずっしり重みを提供していた絶望という名の背嚢に対し、ウミヘビから「そんなもの捨ててしまえ」と言われたような気分なのだ。自分の身に起こったポジティブな変化を信じられなくて、でもすぐに駆け出したくて、彼は心で勇み足。そわそわして血行もよくなったか、顔色もすっかり元どおりに。
こらえきれず、口にする。「つまり私に『キングメーカーになれ』と?」
「ははっ! さすが察しがよいな、ヨーエンセンよ! 我が子をスースラングスハイムの王なり、カールメヤルヴィの魔王なりにしてみせよ! 私はヘラと一緒に、冥府からそのさまを見て笑うとしよう」
イヴェルセンとは、最後まで性悪な男だった。こんなに実現困難で、あくどくて、なのにワクワクする仕事を残すだなんて。
一方のヨーエンセンも同じ家に住む者だ。だからニヤッと口角を上る。そうやって作られた顔つきは、優秀な商人そのもの。「ええ、イヴェルセン様。ご依頼は承りました。本件に対し、なにか情報がありましたらお聞かせください」
「まず貴様が持つヤネスのペンダントだが、これは逃走時のおとりに使えるだろう。魔王シニッカはその物品を奪還するように言われている」
「うまく使わせていただきましょう」
「それから今後、魔界の動向を探るさいに最重要となる人物をあげる。白樺の魔女、六本枝を持つイーダ・ハルコなる女だ。やつは自分のことすらよくわかっていないにもかかわらず、この世の歩きかたをよく知っている。目的の達成能力が異様に高いのだ。もしおおきな舞台に立ったなら、それこそ世界を変えかねないほどに。決して表立って敵対するな。しかし決して目を離すな。魔王シニッカの最大の功績は、やつをカールメヤルヴィにいさせたことだ」
「心して」、深々と礼をした。商談の最後にするような、つまり別れを予感させるような。なぜなら、これで会話は終わりだと思ったのだ。今、オヴニルは長い台詞を吐いた。せっかちな彼のことだ。今のが最後の通達事項だろう。
「行け」というのが、ヨーエンセンが聞いたエミール・ヴィリアム・イヴェルセンの最後の言葉となった。ゆえに商人は折り目正しく踵を返し、振り返らないでその場を去った。
長く世話になった主人へ、彼なりの感謝もある。それでも視線を送らなかったのは、もうすでに次の仕事へ両目をしかとむけていたから。
状況は最悪なれど、最高に楽しい。
スースラングスハイムおかかえの商人、笑うウミヘビたるヨーエンセンは行動を開始した。
今日は彼の人生にとって最大の挫折を味わった日。同時に、今後の人生において最高の門出になった日でもあった。
◆ ① ⚓ ⑪ ◆
敵が目の前から消えて3分後、魔女は緊張の糸を切らせないでいた。オヴニルがいつ舞い戻るか知れたものではない。表むきは敗北を認めるような口ぶりだったけれど、それが信頼に足るものだとは1パーセントも思えなかった。だからずっと臨戦態勢のまま、注意深くあたりを観察していたのだ。悪いことに親友たるアイノも(飽きっぽい性格の彼女としては異例なことに)同様の警戒態勢を敷いていたから、オヴニルが本当に戻らないことへ誰も気づくことはなかった。
地球で同時刻に湯を注がれたカップ麺が、食べごろ時間の機会損失を訴え出したころ。ようやくこの工房にもある種の弛緩した空気がおとずれる。こういうまじめで緊張した時間において、魔王や潜水艦以上に空気を読まない者が欲望のまま行動したからだ。
その人は男の夢がつまった体で姿勢よくテクテク歩き、勇者ディランの腕をひろい上げ、仕事終わりの一杯を目の前にした酒飲みのような顔で言った。
「ああ、これはひさしぶりのごちそうですね! 私の腕は彼に差し上げたと思っていましたが、存外交換しただけだったのかもしれません」
「あらあら、ヘルミ。そうだとしたら、あなたはヨーエンセン以上の詐欺師ね。あなたがあいつに渡した腕は、毒がまわって食べられたものではないでしょう? なんにしても独り占めはよくないわ。保存袋に入れて、イーダへ渡しなさい」
へなり、イーダの肩から力が抜けてしまう。気の抜けた会話に緊張の糸をズタズタにされたのもあるし、ようやく戦いが終わったことを実感したのもあった。ついでにとなりで潜水艦が「ステーキがいいよ!」と勝利の晩餐へ注文をつけてきたため、魔女は「ふぇっ」とひとつため息まじりで鳴く。
「ともかく勝った、んだよね?」、そうでなかったらどうしようなんて思いながら、彼女は魔王へおうかがいを。シニッカは机へ体をあずけながら、「あいつが動く死体として復活しなければね」と応じた。
戦闘終了の合意は取れた。で、戦いが終わったのなら、真っ先にすべきは応急手当。けがの具合が一番少ない魔女ですら、魔腺疲労やら打撲やらで今すぐ倒れたい気分なのだ。
「僕のやりがいのある時間が到来したね。さて、誰からにしようかな」、さっそくドクははりきって、医療道具を両手に取った。でもそれがさっき使った両手持ちの大ばさみだったから、シャキン、シャキンと鳴る音に対し、魔王が「おやめなさい」と苦情を告げた。
それを笑いながら、魔女も適当な机の上へと座る。机へ腰かけると、頭や肩からズズッとおりてきたのは鉛のような疲労感。自分の体重へ疲労感が足されたせいで、次に立ち上がる時苦労しそう。しかも比較的軽傷な自分の順番は最後になりそうだ。みんな本当にボロボロだから。
サカリはドクによって別の机の上にうつされた。見た目には大けがに思えないけれど、半身を吹き飛ばされたからか、立ち上がれないほど疲労している様子だ。でもトマーシュを勇者に戻すという、おおきな仕事をやってのけた。彼の足元には、その戦果たるトマーシュさんの姿も。赤黒い皮膚に血液が付着していて痛々しい。意識を取り戻している感じでもなかったけれど、寝顔からは安寧がただよっていた。
ヘルミは……前述のとおり元気だ。もっとも彼女が万全な体調に戻るには時間がかかりそうではある。片腕がないし、体のあちこちに青あざとか出血とかが見て取れる。今回いろいろな場所で勇者と戦ってくれた彼女は、もしかしたら少々貧乏くじを引いたのかも。そうやって被害担当を買って出てくれたと思うと、感謝しかない。
リリャはオンニ(男性型のほう)の姿に戻り、ちょっと離れたところにいた。今さっき水路に落ちたばかりだから、机の上で服を乾かしている。となりにはアム・レスティングさん。居心地が悪そうにしているけれど、どういう経緯で協力してくれたか後で聞いてみたいところ。もちろん、彼女の心境が落ち着いてから。
視線を自分の周囲へ戻す。となりにいるアイノも元気だ。地面へばったり倒れていた時には心配でたまらなかったが、こう見てみるとけがの具合もそれほど悪くなさそう。去年のヨウルに不発だった死んだふりも、今回はうまくいった。
さて、肝心の魔王様はというと、これは少々危うい状態。机の上に丸くなっているし、顔色だって青白い。けれどイーダはあらためてシニッカのことを「すごいな」と思った。
暗殺対象になりながらも敵の矢面へ立ち続け、ヴィヘリャ・コカーリを率い、そしてトリグラヴィアの民まで鼓舞してみせた。争いの種は常に彼女の周辺で発生していたように思う。今回の戦いが物語として紡がれたのなら、彼女の役割はトリックスターだ。北欧神話における、ロキと同じ役割なのだ。
シニッカが『女ロキ』なんて異名を持つのもうなずける。
ドクが治療してまわる最中、いったん休んで人間観察にいそしんでいたイーダは、しばらくしてから聞き覚えのある足音が工房へ入ってくるのに気づいた。
規則正しく鳴る靴音。それは響きが堂々としている人のもの。
青い毛並みのフェンリルが、仕事を終えてやってきた。




