笑うウミヘビ 47
イヴェルセンにとって最悪なことは、自身の息子が死ぬことだ。次に悪いことがあるのなら、それは自身の死ではない。
恋人の死だ。
おそらく、今それが確定した。あれは毒を浴びたディランの叫び声だ。
「があああっ!」、だから彼も大声を出した。魔女と鍔迫り合いをしている場合ではない。一刻も早くディランの元へ戻り、彼の容態を確認せねばならない。
腕へ乱暴に魔力を流しこむ。水流でたとえるなら、ダムの水門を開けるのではなく、ダムへ大量の土砂崩れをぶちこむようにして。フレイルの柄と鎖を整然と突進していた氷たちは、自身のあまりの量にたいまつの目の前で渋滞をおこし、空中へ行き場を求めていった。そこで円盤状の蒸気に触れ、次々と粉々に砕けてしまう。
これでは埒が明かない。
冷たい破片が輝く中においても、イヴェルセンの感情は加熱されていく。今すぐにこの魔女を吹き飛ばしたい。自分がどうなろうが、相手が死ななかろうが、なんだろうが。
魔腺いっぱいに魔素を流し、魔力のかたまりを撃ち出した。
「<ᛚ、川よあれ>!」
水のルーンが激流を呼ぶ。白樺の魔女を目がけて突っ走る。不意打ち気味の水流を使って、彼女を遠くへ追いやるのだ。
ディランの元へむかう時間をかせぐために。――しかし、
「<ᚪ、船よあれ>!」、魔女は即座に応じてみせた。ルーンが意味するのはオークの樹。つまりロングシップの素材にも使われる、頑丈なもの。
水流の魔術に対して船の魔術。魔女が左手に持つ蛇が2本、彼女の腕へ板状にはりつく。そして強風を受けた木の葉がひらりと風をかわすかのように、直径1メートルはあろうかという大量の水の表面を、らせん状にぐるりとまわって回避した。ちいさな船で波濤を乗り越えるかのごとく。
バシャバシャ落ちる水の中、すたり、彼女は着地した。曲芸師だとでもいうのか、体の芯はぶれていない。両目はしっかりオヴニルを見すえ、「手番は私だ」と言っているのが伝わってくる。
イヴェルセンの魔腺は過熱していた。乱暴に大量の魔力を使ったせいだ。だがここで引いては負けが確実。せめて引き分けにするための手段はひとつ。再度自身を鞭打つしかない。
「<ᛁ>!」、ルーンを押印行使。吐き出した水を固めるために。けれど同時に魔女の口から、「<ᛋ>!」と太陽の名前が飛んだ。
この緊迫した状況において、不覚にもイヴェルセンは相手に感心してしまった。氷のルーンに対抗するなら、今までさんざん使われてきた、たいまつのルーン「ᚳ」を使う物だと思っていた。むしろそれが狙いだったのだ。そうすれば蒸気が発生し、視界を奪えると思ったのだから。
けれど相手はひどく冷静に、太陽のルーンで水から熱を奪った。おかげで氷は発生し損ね、魔女を遠ざけるという目的も果たせていない。
その上――彼は魔女の戦いのたくみさを、次の瞬間に思い知ることとなるのだ。
「<ᛚ、大河よあれ>!」
彼女の左手に残った1本の蛇鞭へ、輝く魔力がさぁっと走る。今さっきイヴェルセン自身が発生させた大量の水が、そろってその鞭へと終結した。
(くそっ!)
まさかこちらの攻撃を利用するとは思わなんだ。魔女のまわりを龍のような水流がらせんを描く。その極太の鞭を、彼女は猛獣使いのようにくるりくるりと操っている。
イヴェルセンが「くる!」と思った瞬間、「てやぁっ!」、魔女は気合とともに打ち据えた。広域を襲う水のかたまりだ。回避などできようはずもない。
「<ᛁ、盾よあれ>」と氷の盾を張る。致命傷になりかねない頭部と胴体だけを守り、あわよくば衝撃に乗って一気に後退する腹積もりで。すぐおおきな衝撃が体を襲う。――いや、襲うだろうと思っていた。
たしかに大量の水は、ある程度の衝撃をイヴェルセンへともたらした。けれど体のどの部分に当たる水流も、致命傷はおろか大した傷を残さないほどの強さしかない。ただの水の塊なだけで、魔術的な強化もなければ毒をしこんでいる様子もない。
狙いは別にあったのだ。
水中へ没したイヴェルセンの目に、ゆらりと動く黒い影が映る。そいつは魔女より少々小柄な少女で、長い黒髪を持っていて……。
つまり、死んだふりをしていた潜水艦だった。
(このために水を⁉︎)
ダークグレーのコートがエイのヒレのようにはためいて、なにやら文字や記号が浮かぶ。英字、数字、時々漢字。
それに混じって見えるのは、ニヤリと笑うノコギリエイ。
(くそっ!)
毒づいた瞬間、するどい痛み。
声は出ない。けれどなにをされたかはわかる。
体の数か所へ突き刺さったのは、水の中とは思えないほど速度の乗ったダガーだった。水中の少女の髪色と同じく、漆黒に塗られた鋭利な牙だ。しかも潜水艦は追撃する気満々。水がすっかり地面に落ちた時には、両手に持った短刀をイヴェルセンの脚へと突き入れてきた。
「なめるなっ!」、一喝。それを蹴飛ばす。でもやはり痛みが走る。なんとか数歩後退した時、膝の上のあたりに2本、黒い短剣が突き刺さっていた。やつは刃を立ててガードした。蹴りを完全に読まれたのだ。
これはまずい。逃げ切れるものではない。だがそうしなければ、必ずここで殺されるだろう。
使いたくはないが、緊急手段だ。「<ᚢ>!」、あえてアングロ・サクソンルーンを行使。雄牛のルーンの対象は、あろうことか自身の胸元。後悔するほど強い重力加速度が体をすっ飛ばし、ようやく彼は魔女と潜水艦の間合いから脱出することに成功した。
魔女を見る。彼女は息を切らせながら、「私がひとりで戦うとでも?」とどこかで聞いたセリフを吐いた。ああ、なんとも憎たらしい。魔界らしく、やっかいなやつだ。
一方のこちらはといえば、体は傷だらけだし、魔腺ももう長くはもたない。継戦能力は失われて、勝負あったといっていい。
万事休す。とはいえ大切な者はすぐ近く。
「ディラン! それはヒュドラーの毒か⁉︎」
これも彼らしからぬするどい声だ。万が一、毒がヒュドラーのものでなかったらいいなどと楽観的なことを考えるたちでもないから、恋人の死に対し、自然と力が入ってしまった。
「ああ……そうだ」、返答はか細い。肩越しに視線をやると、体中のあちこちを濃緑に変色させ、もはや救う手立てのない男がなんとかゆらりと立っていた。「たぶん、僕は死ぬよ、イヴェルセン」
「そうか。私たちは負けたな」と潔く応じる。イヴェルセンは自他ともに認めるせっかちだ。だから自分でも「ふっ」と苦笑した。勝負の終わりでも――しかも自分たちの敗北の前でも――同じようにふるまう自分が滑稽に思えたから。
もはや貫きとおすしかない。視線の先には戦闘可能な魔女と潜水艦が立っている。背後――ディランのむこう側には、復讐に燃える夢魔もいる様子。ここで立ちつくしていては、自分たちの死体をヤネスへの手土産にされかねない。
負けたのだから、死にかたくらい、自分で決める。
膝から2本のダガーを抜いた。敗北を演出するためか、血がおおげさに飛び出してきて、足元へビチャビチャと耳障りな音を奏でた。
彼はそれを傷む右足でグリグリと地面へねりこんでやる。そして死へ疾走する恋人の手をつかみ、逃走を完了させることにした。
「――<ᚱ>」
足元で光るのは、魔女が刻んだ騎乗のルーン。そこへ自身の血をささげたのだから、これはもう自分のルーンだ。
戻る先は古城。ウミヘビの根城である、丘の上の拠点。
オヴニルと勇者が戦場から消えたことで、工房は急に静かになった。




