笑うウミヘビ 46
イヴェルセンが白樺の魔女と交戦を開始したのと同時、勇者ディランも新たな侵入者にむかって歩みを進めていた。水路の出入口付近にある、少々壊れた机の位置。どうやらそこにはベヒーモスが潜んでいる。
巨体が自慢の魔獣が、このようにコソコソしていることへ侮蔑の感情があった。気配は先ほど白昼夢魔術が行われたよりずっと前からしていたのに、いまだ姿をあらわしていない。タイミングを計っていたということであればそのとおりなのだろうけれど、やるのなら白昼夢が失敗した直後というのが正解だったろうに。
たとえば釣り針は適切なタイミングで上げるべきだ。そうでないなら餌だけをかすめ取られてしまう。
「出ておいでよ臆病者」、ディランは蔑みをたっぷりふくませて、机のむこうへ声をかける。自分の後方ではイヴェルセンと魔女が戦う音。大丈夫、彼は負けないだろうから、こちらも馬鹿な釣り人を水辺へ引きずりこんでやろう。そう決意しながら、残った腕へ魔力をまとう。
その彼の前に、「構わないですよ」と机の影からヴィルヘルミーナがあらわれた。こちらも隻腕。残った手に剣を持って、失った側には盾をくくりつけて。
腹立たしく感じた。同じように四肢を失った目の前の女を見ていると、まるで自分のみじめな姿が鏡に映されているようだと思ったのだ。先ほどの失態――魔王に噛みつかれた片腕をみずから切断したこと――が頭をよぎり、ゆえに彼は不機嫌そうに吐き捨てる。「お前と僕じゃ、腕一本の重さも違う。同じ姿をしていることが許せないから、もっと本数を少なくしてやるよ」
「構いませんよ」、別の声。方向は9時。ディランは「なに!?」とそちらをむく。机の影からもうひとつの人影。そいつは天板にすらりと立って、同じように残った片腕へ剣を持つ。
戦乙女がふたりに増えた。虚を衝かれてしまったのは不覚。
こんな単純な仕掛けに対し。
「……お前、夢魔のリリャだな。コケにしやがって。同じ姿をすれば、僕をだませるとでも?」、ついにディランは奥歯を鳴らした。これ以上の侮辱は許容できない。怒りのままに、この女ふたりをバラバラに破壊してやりたい。
いや、なにも我慢することはない。今すぐそうすればいい。
ディランは魔力のやどる腕をかかげた。強く乱暴に魔を放ち、こいつらを展開した氷の刃とバグモザイクで引き裂いてやるのだ。「ほら、最後の言葉を叫べよ」
「お構いなく!」、3人目の声。
6時――真後ろに、またも片腕のない戦乙女。
そいつはすでに突進していた。手に持った斧が鈍色に光る。
(こいつが本物!)
即座に応戦する。「――<ᚼ、徹甲弾よあれ>!」
「――<ᛒ,ᚩᛁᛖ:ᛣᛁᛚᛈᛁ>!」
手が届きそうな至近距離。雹の徹甲弾が緑の盾へ突き刺さった。
鋭利に成形された氷の塊は、分厚い白樺盾の表面へ侵入していった。自身のとがった表面が、盾の魔力でけずれていく。けれど徹甲弾がそれくらいで止まろうはずもない。自身がけずれる以上に早く、魔界最強の防具を消耗させていき、そこへ穴を穿たんとまっすぐ突き進んでいくのだ。
魔力と魔力のぶつかりあいが、強烈な光を生み出した、まばたきよりも早い0.1秒間。たったそれだけの時間で魔法盾の突破を果たした雹は、ヴィルヘルミーナが左腕にくくりつけた物理的な盾へと到達した。そしてそれにもなんなく侵入をはたす。こんなもの、突破するのは目に見えているのだ。「鋼の敵対者たる俺の前に、そんなもの無駄だ」と笑いながら、その弾丸は盾の裏にあいたちいさなすきまを押し広げながら進む。戦乙女の腹へ風穴を開けてやれると、満ち足りた最期を期待しながら。
しかし忘れてはならない大切なことがひとつ。それは相手も人をだますのが得意な魔族だということ。雹は鋼の板をやっと抜けた直後に、次の盾の表面を見る羽目になった。つまり盾は2重だった。「なんだと!」と思うも彼は弾丸。そこへ突進するしかない。
2枚目の鋼を穿つ途中、弾頭へかかる負荷はついに限界をむかえる。バキリ、体が砕けてしまった。勢いこそ死んでいないものの、質量はおおきく分散してしまう。バラバラになった彼が盾へ4か所の穴を開け、同数のあざをベヒーモスの胴体に色づけをする。
そこで、この攻撃は失敗に終わった。
ディランは舌打ちする。目の前でぐらりと体勢を崩した戦乙女は、しかし死からはほど遠い。しかも右側から嫌な予感が。2人目――偽物のひとりであるリリャが、こちらに飛びかかってきている。
周囲に発生したバグモザイクへ、恐れもせずに。
「甘い!」、ディランはそいつを蹴飛ばした。バグモザイクのおかげで、どこからくるか一目瞭然だった。思ったより軽い手ごたえがあって、そいつは水路の壁へとぶち当たる。きっとあのまま水中へ落ちるだろう。
バシャッ、水気のある音。しかし――
おかしい。
まだあの戦乙女もどきは、まだ水面へ落下していない。やつは壁にひっかかり、苦しそうにしているだけだ。それだというのに……。
――なぜ僕の近くで水音がした?
「グリーシャとレインの敵だ」、女の声がした。なぜかゾッとして、ディランは振り返った。
お化けを模した上着を着て、片腕しかなくて、フードのすきまから桃色の髪をたわませる夢魔。こちらを見る目は怒りに燃え、殺意を隠そうともしていない。
ストリーマー、アム・レスティング。地下牢に囚われていたはずの。
そして彼女と自分の間、中空の位置。バグモザイクに引っ掛かっていたのは、見覚えのある物品。
――竜の牙の杯。
ヒュドラーの毒が入っていた物。
「あぁぁぁ!」、工房内へ彼の叫び声が響いた。
肌を焼く、ジュウジュウという音と一緒に。




