笑うウミヘビ 44
赤地に麦穂をつかむ3本の腕、それがトリグラヴィア王国の国旗だ。多くの「3」をかかえるこの国をよく象徴したその意匠。それは青い空になびく時こそ誇り高く見えるもの。落ち着いた色の代名詞たる青に対し、躍動する赤が美しいから。
ここに暮らす人々は、常日頃からその旗を見上げて育った。地方なら領事館に、中央ならトリグラウ城の尖塔にはためく豪奢な国旗を。馬車の轍を避けながら麦穂の束をかつぐ農民たちも、石畳へ足音を残しながら得物をかかえる冒険者たちも。
だから今日もそうだ。人々は空を見上げている。都会の大盛況な市場にいる人々が、田舎では羊の群れをつれた羊飼いが。ダンジョンから出たばかりの冒険者たちが、港でけだるそうに荷揚げをしている港湾労働者たちが、馬へまたがり密輸をしている闇商人たちが。国中の人間が意識をウミヘビたちにかっさわれ、白昼夢へ落ちている2022年の8月10日も、みな一様に空を見ていた。
いつもと違うところがあったとすれば、はためくトリグラヴィアの国旗よりもずっと上に見えるもの。
巨大なシルエットで青空を占有し、大地へ黒い影を落とす化け物。大蛇ヒュドラーの9つの頭。
そいつはあまりに巨大だった。理解の範疇を超えるほどに。高く峰をなす積雲ですら、そのひとつひとつの首を飾るマフラー程度のおおきさしかない。山脈がハツカネズミに思えるほど巨大だから、青空のむこうに色あせて見える。あまりに遠すぎて、そしておおきすぎて、彩度が失われているのだ。
明瞭に見えるよりもずっと生々しくて……。
国中のすべての場所が、そいつによって押しつぶされそうな印象すらある。ひとつの都市とか行政区とかではなく、国家そのもの、もしかしたら大陸全土に覆いかぶさらんとしているように見えた。
だから天が落ちてきたかのような威圧感に、人々は恐怖と虚無感を覚えたのだ。心へ恐怖の太い根を無遠慮に張られ、水分がわりに活力を吸われてしまっていた。
【どうしたってんだ⁉︎ ありゃなんだ⁉︎】【嫌! 嫌よ! こんなこと信じないわ!】【ああ、神よ。いったい我々がなにをしたとおっしゃるのです……】【終わりだ。ヤネス2世は死に、スラヴコ1世はこの国を壊す気なのだ】
絶望という言葉を生物にしたのなら、まさに目の前に広がった光景がそれだった。山脈のようにおおきな頭が9つ、フィヨルドのような口蓋を開け放ち、河川のような緑色の毒をだらだらとたれ流しはじめたから。ゆらりゆらりとゆっくり首を振るたび、太陽の光は容易に遮断されてしまう。そうやって噛みつく瞬間を計っているかのようで、真っ赤な眼光が見た者をカエルに貶める。チロチロ震える舌は、その味を想像しているからか。
おおきな悲鳴を上げて逃げ出す者がいた。赤子をかかえて背をむける者も、腰を抜かして失禁する者もいた。そんな混沌の中にあって、全員が考えることなど決まっている。「ああ神様、助けてください」という懇願なのだ。
あるいは勇者の到来を伏して願った。それがどんな形をしていて、どんな性格を持っているかなんて想像できる者はいない。ただ強大な存在がこの場にあらわれて、神の加護やら人外の力やらで事態を打破してくれないかと淡い希望をいだいていただけだ。ほぼ神への懇願に等しい心象だ。勇者なんてものは「自分たちでは絶対にどうにもならない」というあきらめの境地から生まれた幻想生物なのだから。
と、見上げる視界の下限、トリグラウ城の鐘楼のひとつに、なにか動くものを人々は発見する。色は空よりずっと濃い青。目をこらすと、どうやら人影に見える。不思議なことに、首都から遠く離れた者たちにも、その人物の存在が感じられていた。だからそいつは、国中の視線をひとりじめする。
いくつもの赤い旗がはためく城の上、鐘楼の先端に立っていたのはひとりの少女。大空を支配するヒュドラーへ正面をむけ、ペストマスクをつけた濃紺の長髪を、風になびかせている女の後ろ姿。
「<旗を我が手に>よ、言葉を運び<我が声を届けよ>をもたらせ」
彼女は一節唱えると、その片手にトリグラヴィアの国旗とはまた別の旗を持った。風がそれをバタバタとはためかせる。赤い旗とならんでたなびくのは、緑地に描かれた枝嚙み十字。間違いない、北方はカールメヤルヴィ王国の国旗だ。
つまりこの女は、魔王シニッカに違いなかった。
「枝嚙み蛇の旗の下、この魔王シニッカが通告する」
粘り気のある毒をも洗い流すような、澄んだ声が人々の頭へ直接響いた。それは渇いたのどへ差し出された氷水か、はたまた暗闇に灯されたひとつのたいまつか。オーディエンスたちは、はっと息を呑み、彼女の言葉を耳に刻む。
「トリグラヴィアの民たちよ。麦穂の番人、3つ山の崇拝者、菩提樹を愛する者たちよ。――『絶望するな』。この国にはまだ蛇がいる。あの巨大な毒蛇に立ちむかう、もう3匹の蛇たちが」
風の強い場所でまっすぐに立っているのだから、威風堂々という言葉が彼女以上に似合う者はこの場にいなかった。あるいは「Pomp and Circumstance」。公の場での堂々としたふるまいといえた。
「ひとりは私、魔王シニッカだ。見てのとおり、やつに食われる気などない。ひとりはヤネス2世。お前たちのことを心から愛し、この国を捨てずにウミヘビと戦っている。そして――」
魔王が息継ぎをしたタイミングで、人々はそれが誰か想像をはじめる。魔王と、ヤネス王と……もうひとりは? なんて。
スラヴコは違う。彼は敵だ。当たり前だがスースラングスハイムの連中も違う。
では誰が?
考える頭の中、その者の輪郭があらわになる直前、魔王は最後の名前を呼んだ。
「――グッリンカムビの鐘を手にした、ガンド使いがここにいるのだ。Bjǫrksormr――白樺の蛇たる、ひとりの魔女が」
ふわり、魔王のとなりに、もうひとりの影があらわれる。遅れてこの場に到着した彼女は、魔王と同じくオーディエンスたちに背をむけて、すくっと立った。当然、ヒュドラーのほうをむいているから顔は見えない。けれど光景を見ている人々は、それが誰だかはっきりわかった。
それほど高くない背丈。特徴的な黒いとんがり帽子。
まさしく白樺の魔女その人だ。
人々は期待した。彼女のことをうわさに聞いたことがある者、あるいは配信の中で見たことのある者。多くの者が「あの魔女は思いもよらない手段で敵を倒す」と認識していたから。
事実、彼女は手になにかを持っているようだった。きっとそれはヒュドラーに対する武器かなにかなのだ。だから、彼女がおおきく息を吸いこむように背すじをのばしているのは、悪夢を払うまじないを口から放つ予備動作に違いない。
そして魔女は、期待を裏切らなかった。
「――<ᚳ、目覚めの声よあれ>!」
ジリリリリリリ――!
けたたましい音。本家グッリンカムビが聞いても「やかましいぞ!」と口を突くほどの。脳内で鳴る騒音に、人々は無駄だと知りながらも両耳をふさいだ。
しかしその瞬間、人々は理解してもいた。
ああ、これは悪夢だったのだ。あの魔女はそれから私たちを救ってくれたのだ。
だから悪夢は終わり、またいつもどおりの日常が戻るのだ、と。




