笑うノコギリエイ 後編11
チッチッチッチ……秒針は鳴り続けている。勇者と魔王、その両者にあたえられたわずかな無言の時間へ戦闘へのカウントダウンをもたらしている。
ようやく我に返ったイーダは、魔王とともに、至近距離で4人の敵と対峙していた。
いたずらな悪魔の顔、けれど凛々しい戦士の顔。目に映ったシニッカのその表情は、相反するふたつの感情――正反対の性格の人が矛盾なく同居しているようだった。イーダは一瞬目を奪われる。この人はこんな顔ができる人なんだな、と。
けれどそのむこう側には、もっと目を引く光景が。右腕を突き出した勇者の姿。
「危ない!」、とっさに叫ぶ。それにシニッカは、流れる水のようななめらかさで身をひるがえした。
「<雷魔法散弾>っ!」、勇者が吠える。しかし「<ᛒ>!」、すかさず魔王が応じた。
――バシィン! 空気を叩く音がして、すぐに「ガラガラガラ!」という、耳をつんざくような轟音が覆いかぶさってきた。至近距離で鳴ったあまりにおおきな音へ、視界が脳髄ごとかき混ぜられてしまう。
同時に、体へ分厚い空気がぶつかった。それにバシンと体が吹き飛ばされて、次にドサリと地面へ投げ出される。土煙をまといながら、土の上へゴロゴロと。雷鳴が余韻を残している時には、イーダは地面へ伏していた。
「痛ぁっ!」、体中に痛みが走る。あちこち打ちつけた時のものと、四肢がピリピリする感触と。特異な感覚だったから、イーダはそれこそが「殺意」なのではと思ってしまう。恐怖が背すじをぞわりとなでて、いてもたってもいられない。
(まずいっ!)
ここにいたら、トラックの時の二の舞だ。反射的に思ったから、彼女は飛びはねるように上体を起こした。
(な、なにが起こったの⁉︎)
状況分析の暇はなさそうだったけれど、目線を周囲へ走らせる。自分の横には片膝を立てたシニッカの姿。彼女の体の前には緑色に光る魔法の壁と、今まさに燃えて消えてくなにかの紙。
勇者の口が舌打ちをするようにゆがんで、「巻物だと⁉︎」との言葉を発する。
(防御魔術か! シニッカが使ったんだ!)
どうやら一撃凌いだようだ。
「イーダ! 木の後ろに!」
「わかった!」
まずは逃げなくちゃならないだろう。体を起こして脱兎のごとく、敵へ背をむけて一目散に走る。そこで気づく。自分たちの横へ、列車のレールのようにのびた黒い水晶の存在に。
これは不可逆の爪痕だ。王宮でもゴーレムの残骸があった丘でも見た「勇者が世界を傷つけた痕跡」だ。
それを見て、「なんてことを!」と叫べたならよかった。悪態をつけるのは、多少なりとも精神に余裕がある証拠だから。けれどイーダにそんなものなどない。大木めがけてふたりで駆けるのが精一杯だ。
「クソッ! <雷魔法機関銃>!」
「<ᛒ>!」
追撃――こんどは激しい閃光の連射。
襲いかかる雷鳴の束に、シニッカが「ベオーク」なる盾をふたたび展開した。その盾へ「ガガガガガ!」と耳障りな音をがなる魔術は、イーダの鼓膜へ悲鳴を上げさせる。彼女は一刻も早くその音から逃げ出したくて、手足を全力で振り大木を目指す。
太い木の幹が目の前にきた。樹齢を重ねたボコボコの樹皮が、「早くしろ!」と叫んでいる顔に見えた。
全速力のままそこに飛びこむ。比喩ではなく両脚で水平にジャンプして、ラグビー選手がトライでも決めるような動きで。スポーツ選手と違い洗練された動きではなかったから、着地で体をあちこち打ちつけた。でもこんどは「痛い」と口にする間もなく、さっと膝立ちへ姿勢を戻す。
(防げたの?)
2枚目の緑の魔法壁は、ふたりで飛びこんだ太い幹を守るように、雷の猛射に立ちふさがっていた。しかし閃光が目を覆うたび、そぎ落とされ、刻まれ、穴を穿たれる。両腕を広げて仁王立ちするその姿は、悲壮な覚悟を感じさせて痛々しい。
ものの数秒でそれは霧散した。戦い終わった戦士のように事切れたのだ。
後に残るのはやはり黒水晶。数ミリのものから数十センチのものまで。空中へピタリと固定され、帯のように広がっている。大木のまわりを醜悪に彩るそれが、痛々しい血痕に見えた。
盾の霧散を見たからか、忘れていた痛みが膝とひじにジンジンと響く。でも今さら「痛い」なんて言いたくなくて、ぎゅっと唇を噛んだ。
「失敗したわ……見境なしね」、となりにはバグモザイクへ舌打ちするシニッカの横顔。彼女の額に流れる汗が、状況の過酷さを物語っている。
実際、危機一髪だったろう。もし一瞬でも遅かったら? もし1枚でも盾を張り損ねたら? そう考えるとぞっとした。あの水晶が自分の体を貫いていたかもしれないのだから。
心臓の音が、スネアを強く早く鳴らしていて、じっとしているのが苦しい。だから思わず、事態の解決へなんの効果も持たない、単純な台詞を投げかけてしまうのだ。「ど、どうしようシニッカ」
「あら、ひどい顔をして。好みの表情よ? だけど、こんな時に誘惑しないでもらえるかしら?」
魔王は舌をペロリと出して言う。
「えぇ?」、困惑する声が出てしまった。
シニッカはすまし顔で微笑みを浮かべていた。戦場にも彼女の流れる汗にもふさわしくない、「こんな時に誘惑しないで」なんて台詞をたずさえながら。
「こんな時」、というのなら、むしろそれは私の台詞だ。イーダはそう口にしかかった。だってシニッカの言いぐさこそが、戦場にふさわしくない筆頭格なものだから。
のどまで出かかったそれを、しかしイーダは呑みこんだ。生死のかかる場面で微笑みなんかを見たからだろう、ドキドキとうるさかった心の小太鼓が、少しテンポを落としたのに気づいたのだ。
落ちた枝を拾い木の幹になにかの記号を刻むシニッカは、こんな顔をしていても戦い続けている。
(そうだ! さっき言われたじゃないか! 私は戦うためにきたんだって!)
なんども同じことを言わせるな、とばかりに、自分へ強い叱咤激励を。息をおおきく吸って、酸欠気味の意思に空気を入れて――
眉へキリッと戦意をこめる。
「なにができる?」
「そうこなくっちゃ!」
言うが早いか、魔王は暗緑色の巻物を差し出した。パシリ、迷いなく手に取って見せる。それはピタリと手に貼りついて、頼もしい感触を手のひらへ返してくれた。
「なにこれ磁石?」
「そう感じたなら使えるわね。あなたにそれをあずけるわ」
そうなんだ、と思う気持ちと「じゃあやろう!」という強い感情が、心臓から太鼓のバチを持ったまま湧き出てきた。胸の上でタタタン、タタタンと、スネアが小気味よく鳴り響く。ついでに今まで遠くに聞こえていたチッチッチッチという秒針の鳴り続ける音も、一緒になって演奏をはじめる。
やっと思い出した戦意がマーチを奏で、四肢に力をあたえてくれた。心臓から手に流れる白樺の風が、火傷あとを通って巻物を光らせる。
「魔界最強の防御魔法よ。それが最後の1枚。今からまっすぐ逃げるわ。合図をしたら、振りむいて『ᛒ』と」
「『ベオーク』だね、わかった」
「取り巻きたちは無視していい。勇者の生んだバグモザイクで、容易に近づけない状態だろうから。それに空にはカラスもいるし」
「うん!」
ふたりで飛び出すタイミングを計ろう。スネアの秒針の小粋なリズムは目安を計るにちょうどいい。
勇者はこっちのすきをうかがっているだろう。でもシニッカの言ったとおり、取り巻きの3名の女性は動きがにぶい。バグモザイクに巻きこまれるのを恐れてか、援護しにくそうに機会をうかがっている様子。
――号令がかかるなら今だ、とわかった。
「走って!」の声へ、魔王とならんで一直線に駆ける。「逃がすか!」、後ろで勇者の怒鳴り声がした。
革靴が石畳を叩く。小太鼓が鳴って、時計が鳴って、呼吸と鼓動がいっぱいに急いて。
「今よ!」、合図に振り返る。勇者が木の下で、ベンチを足蹴に。
(こんのぉ!)
香る白樺――
「<ᛒ>!」「<雷魔法一閃>!」「<ᚦ>!」
パァーン!
白む視界と、銃声のような音。緑の盾が一瞬で消え失せて、すごい衝撃を受けて。でも――
(防いだ!)
銃弾でも叩き落とした気分。「やってやったぞ!」と叫びたくなる。
それができなかったのは、直後に手足から白樺の枝がバサバサと落ちていく感覚があったから。それはきっと魔力が尽きた音で、ゆえに四肢は力を失っている。
膝が折れ、イーダはへたりとその場にくずおれた。
(ゆ、勇者は⁉︎)
もし今の自分へ追撃があったら、もう逃げられない。もし彼がこちらへ手をかざしていたら、その時は両目をつむってしまおう。そんな考えの元、彼女は勇者のいたほうを見る。そしてそこへ意外な光景を見つけ、驚きに口を開けた。
視界の先、木の枝にマントをからめとられ、宙づりになっているそいつの姿。生きているかのように不自然にのびた枝で勇者を拘束している大木が、自分たちを守りウインクでもしているように感じる。
たぶんあれは、シニッカのしわざだ。さっき彼女が叫んだ「ソーン」というのが、勇者へ悪さをしてくれたのだ。
「卑怯なぁ!」、すぐに勇者はマントの留め具を外す。両足で地面を叩き、憎悪の腕をこちらにむける。顔が真っ赤になっているのは、屈辱に油を注がれ燃えているから。彼は出会ってからずっと不機嫌そう。
「死ねよ悪魔が! <雷魔法一閃>!」、その怒りの矛先はシニッカへ。
「<ᚾ、避雷針よあれ>!」、響く雷の銃声は、シニッカが投げた枝に白い閃光をのばし、消えた。
でも無傷とはいかなかったのか……バグモザイクの茂みの中、魔王が苦しそうに腕を押さえる。ぐらりと倒れそうになる体を、なんとかこらえているように見えた。
「さすがにしぶといな、魔王。お前を倒すには雷神の力が必要そうだ」
「気負わないほうがいいと思うわ。もし私が大蛇だったらどうするの。毒を浴びせられて9歩後ずさり、ばったり倒れてしまうのかも」
「減らず口を叩くなら、雷神ソーのハンマーを受け切ってからにしろ」
ガツン、勇者は胸の前で拳と拳を合わせた。それは魔力の充填だった。目に見えるほどのゆがみと、伝わってくる魔法の波が、体のかけらも残さないという宣告を敵へ突きつける。
(ああ、あれがゴーレムを破壊したやつなんだ)
イーダは目をそらしたくなった。シニッカが窮地に立たされているというのに、自分ときたら疲労で体が動かない。しゃべることもできないし、呼吸をするのすらつらいのだ。
チッチッチッチ、鳴り続ける秒針の音は、雷神ソールが右手へ槌を振りかぶるためのカウントダウンに変わる。これが窮地でないのなら、なにが窮地だというのだろう。
『万事休す』という敗北とか死とかの類義語が、脳裏をよぎりはじめてしまう。
でも……彼女は思い出した。もう少しだけ時間があれば、事態がおおきく変わるかもしれないことを。もう少し、あともう少しだけ。どうにかして時間をかせがなくてはならない。
私たちはまだ負けてないのだ。
そしてそれは「ねえ勇者様、冥途の土産に教えてくれない?」なんていう、冗談のような魔王の言葉で実行された。
「腹の立つ女だな、お前。こいつが準備できるまで、この世に残す言葉でも吐いてろよ」
「じゃあ遠慮なく。ねえイズキ、ストーンゴーレムを暴走させたのって、あなたなのでしょう?」
「っ! ふざけんな! なんの証拠があって!」
「だってあなた、街で赤い宝石を買ったじゃない。宝石店の店主から聞いたわ。最初は誰に送るのかと思った。この世で錬金術に用いる宝石は『魔石』だけって決まっているから」
「それがなんだってんだ!」
「ガーネットの赤い輝きは『忠実な愛』を意味する。浮気性のあなたにぴったり。でも動かないゴーレムに贈るとは思わなかったわ。稚拙な錬金術スキルと一緒にね」
シニッカは本当に楽しそうな顔をしていた。相手を責めるというよりも、秘密をばらして喜んでいるような言いぐさだ。
「それに、恋愛に関する宝石を手放すべきではないわ。恋のトラブルに巻きこまれる原因になるから」
「俺はそんなもん知らない! 言いたいことはそれだけかっ!?」
「つれないこと言わないで。もうひとつだけ、質問をさせなさい」
「…………」、勇者は無言でにらみつけ、強い魔力を片手にうつした。準備は完了しつつあり、後は振りおろして砕くだけ。
けれど魔王は余裕の表情。小首をかしげながら言ったのだ。
「時計が鳴りはじめてから、どれくらい経った?」
「……なんだって?」
チッチッチッチ……カチリ。秒針の音が止む。
「答えは『3分15秒』よ」
時間がきたのだ。
今ここにいない、仲間の手番が。
(――アイノ!)




