笑うウミヘビ 40
囚われたイーダは冷や汗にまみれている。肌が濡れて気分も悪い。でも、もうすぐ工房だ。よけいなことを気にする前に、考えなきゃいけないことがある。
(なにか現状打破の手段を探さなきゃ!)
排水通路の目の前まできた。ディランが魔術を唱えると、頑丈な2枚の鉄格子はいとも簡単に吹き飛ばされた。
(直接的に戦うのはだめだ。なんとかだます方法があるはずだ)
今あるのは腰に下げたままの牙杯の毒。それからあとをつけてくれているだろうヘルミと、独自行動を取っているリリャ。
手札は少なく、時間はもっと少ない。思わず腰の杯をぎゅっとにぎる。
と、「こいよ」、いきなり勇者の手が腕をつかんできた。拒む間もなく急加速、水路内壁へ飛びずさる。それを蹴って工房内へ。激しくゆさぶられ、目がまわった。
机の上へ乱暴な着地があった時、「悪いことは重なるもの」という言葉をイーダは実感する羽目になる。
(ああ、しまった!)
なんとうかつなことだろう。腰につけておいた杯が落ちてしまったのだ。きっとそれは水路へ落ちて、今ごろ流れにのって工房の外へ出てしまっただろう。
心で舌打ちをしながら、彼女は視線を戻す。そこには杯を落としたのよりも悪い光景が広がっていて……叫ばずにはいられなかった。
「シニッカ!」
呼びかけに魔王が手を上げるだけだったのは、イヴェルセンと対峙しているから。そしてひどく打ちのめされ、重傷を負っていたから。
状態は悪い。ではシニッカの助けになりそうな味方はいないかと周囲を見まわす。
(みんな……)
魔女は絶句してしまった。手ひどく破壊された工房の中に、負傷していない仲間などいなかったのだ。
サカリはトマーシュさんと背中をあずけあいながら、破壊された机の横に座っていた。悪魔召喚魔法陣の絨毯がかけられた壁の前だし、ドクがふたりをだきかかえているから、治療はうまくいったのだろう。けれどふたりはもう戦えなさそう。意識があるかもわからないのだ。
アイノはそこから少し離れたところ、壊れた蒸留器の前へ倒れている。うつぶせのまま動かない彼女へ、イーダは心をざわつかせてしまった。
「きたか、ディラン。釣果は上々だったようだな」、ウミヘビ男は振り返りもせずに言う。青歯王の力で状況を把握していたのだろう。いくつか指のない左手へ、その切断された指にはめられたままの指輪を持っている。
「そうだね。魔女が釣れた。彼女は僕らの仲間だそうだ。しかしイヴェルセン、普段せっかちな君も、魔王を倒すのには時間がかかりそうかな?」
「ふ、こいつを殺すという楽しみくらいじっくり味わわせてほしいものだ。ベビーモスはどうなった?」
「逃げられたから、十分に注意してほしいな。カラスはここにいるね。フェンリル狼はこっちにきたかい?」
「やつは冒険者集団が足止めしている。かなりの数だ。しばらくこられまいよ」
口調は勝者の色を帯びていた。イヴェルセンとディランは、ふたりがかりで負傷した魔王を倒せばいい。両者とも負傷しているとはいえ、現状ではそう難しくない仕事だと断言できる。
(なにか! なにか方法を!)
イーダはふたたび周囲を見まわした。いちどそうしたにもかかわらず。彼女をアインシュタインが見たら「同じ実験を繰り返して、異なる結果を望む。人それを狂気という」などという諫言を口にしたろう。偉大な物理学者の理論どおり、魔女はなにも発見することができなかった。
それどころか「<ᛁ、盾よあれ>」、ディランは机の四方へ魔法の盾を展開した。すきとおった氷が牢獄のような壁を作り、魔女を閉じこめたのだ。
「これは仲間たる君を保護する盾だ。君への流れ弾を気にせず、僕らが全力で戦うためにね。そこから出てはならないよ。そうしたなら、僕らは君が昔の仲間を助けるために動いたと認識するだろう。つまり、君を敵と見なすってことだ」
――「敵と見なす」。それは通告というよりも、警告であり、脅迫だった。なぜなら呪いの力により、魔女は敵対した時点で命を奪われるのだ。魂を半分しばりつけている「簡単な命令」を無視する形になるのだから。
黒い髪の少女は奥歯を鳴らした。今すぐにどうにかしなきゃならないけれど、今すぐにその手段が思いつく自信はない。自分の知らない量の冷や汗が全身から流れ出てきて、気化熱によって彼女の背すじをぞわりと冷やしていった。
(シニッカ、逃げて!)
もうそれしかない。魔王が踵を返し、悪魔召喚魔法陣へと身を投げるのに期待するしかない。でもそれこそ確率が低い選択肢だ。彼女はここへ傷ついたみんなを置いていくくらいなら、ここで死ぬことを選ぶだろうから。
勝ち目のない戦いの中で、命を花火のように使って――
(死ぬことを……選ぶ?)
――本当に?
たしかに彼女には「仲間を置いて逃げる」か「ここでみんなと死ぬか」という選択肢しかないように思えるのだけれど、そのどちらもがシニッカらしくない。
そんなことあろうはずもない、と強く感じるのだ。
(じゃあ、なぜシニッカはこんな劣勢の状態になるまでここにいたの?)
頭のいい彼女のこと、その程度予想していてしかるべき。なのに彼女はそうしなかった。それはなぜ?
その疑問を頭に浮かべた瞬間、脳の中でなにかがカチリと音を立てた。それはスイッチの音そのもので、すぐに機械がうなりを上げて作動するような感覚があった。
たとえるならバッテリーだ。普段は静かに充電されているけれど、ひとたびスイッチが入れられたなら、全力で放電し、機械へ命を吹きこむのだ。
(あのシニッカがこんな状況を甘んじて受け入れるわけがない! なにか見落としがある! 絶対に!)
友人に対する、少々妄信的な思い。友人に重すぎる信頼感を勝手にぶつけた魔女は、魔王をまっすぐに見た。くやしそうな表情を、ヴィヘリャ・コカーリの一員にふさわしい仕事人の顔つきに変えながら。
シニッカがその視線へ気づくのより早く、口を開いたのはイヴェルセンだ。「さて、魔王よ」、とはじまった彼の台詞は、ひどく毒気に満ちていた。「お前の大切な友人、イーダ・ハルコは私たちの仲間となった。やつの出身地のゲームにたとえるなら、やつは我々の駒台に置かれているのだ。呪いのことくらい聞いているのだろう? なにか思うところがあるなら、今のうちに話をしておけ」
「ねえオヴニル。将棋の話にたとえるなら、彼女を取った一手は『悪手』だったのかもしれないわよ? それに『最後の言葉を聞く者』って、『敗北を知る者』の詩的な言いかえじゃないかしら?」
「『魔女を奪われた魔王』こそ、『死する者』のケニングだろう。一番大切な所有物なのだからな」
「ばかね」、シニッカがいちど言葉を区切り、舌をぺろりと出した。イーダにはそれがなにかわかった。唇を濡らし、間を置いたのは、「絶対に聞いてほしいこと」がそのあとに続くからなのだ。
集中する魔女の耳へ、入ってきたのは堂々とした言い分。
「カールメヤルヴィから彼女を取り上げられても、彼女からカールメヤルヴィを取り上げることなんてできやしないわ。国王の私にすら無理な話よ。だって彼女は、きっと私の所有物なんかじゃないのだもの」
(――え?)
今までで一番違和感のある言葉。もう1年近く前のことが、イーダの心へ去来する。
モンタナス・リカスの宿屋での押し問答。「贈り物」へ「我が名を刻め」という言葉を縫いつけた、タチの悪い言遊魔術。
(私はシニッカの所有物だったはずだ。なのに「所有物じゃない」?)
ざぁっと滝の水が落ちるかのように、脳のシナプスがうなりを上げた。10の15乗個という天文学的な数の情報端子が、そろって同じ方向をむく。違和感の解消という仕事をあたえられたそれらは、イーダの記憶のタンスを片っ端からひっくり返していった。
(違和感か。……ああ、違和感つながりで疑問に感じていたことを思い出した)
異世界に感じる違和感であれば、それこそ星の数ほどあるのだけれど、自分に対する違和感となると、あるていど数はしぼられる。
このことについて、深く考えてみよう。
(ひとつはネメアリオニアの王都ル・シュールコー。夜、マルセルさんと戦った時)
彼女が口にしたささいな言葉。「あー、はじめまして? お供の顔は見覚えがあるから、そうでもないのかな」という。
(ひとつはトリグラヴィアのクラシキ・ラビリントに潜った時)
配信のコメントにあったオーディエンス反応。【となりの人、例の魔女だよな?】とか【魔界のメンバーってことは「白樺の魔女」?】とか。
(よく考えたら天界での戦いもそうだ。ウルリカさんは私がイーダ・ハルコだと正しく認識していた)
プラドリコの北、甲虫の森林近くの平原での戦いで勇者を倒すという戦果を上げたから、あの大天使に存在がバレていたのだと思っていた。
けれど、おかしな話なのだ。
(毎回シニッカが私にかけてくれていたルンペルシュティルツヒェンの認識阻害魔術。効果を発揮したためしがない)
いつだってそう。マルセルには学園の見学に行ったことがバレていた。オーディエンスたちはイーダ・ハルコなる人物の顔なんて知らなかったはず。大天使ウルリカにも素顔を見せたことはない。けれどそのいずれもが、徹底的に「あいつは魔女のイーダだ」という答えを簡単に導き出していた。
認識阻害の魔法が効果を発揮しないのは、事前にその人物のことを見たことがあった場合にかぎる。なのにいちども会ったことのない人たちは、ことごとく正体を見破ってくる。
(私にはあの魔術が効いていない? シニッカもそれをいぶかしく思っているから「きっと私の所有物なんかじゃない」なんて言ったの?)
ではなぜ? そう考える前に、もうひとつあった。同じくルンペルシュティルツヒェンのタグのついた類似現象が、記憶の引き出しからひょいっと顔を出す。
勇者レージを倒した戦いの前、シニッカの演説から決戦前夜に寝れなかった時のこと。
(味方の冒険者さんたちが言っていたな。たしか「酒場に入ったらペストマスクをかぶった子がいたから『魔族がどうしてここにいるんだ?』と思った」とか)
これだって同じだ。まだ無名だったのにもかかわらず、酒場で正体を見せていない段階で魔界の住人と認識されていた。となりにいたシニッカたちは、認識阻害の外套を着てどこの誰だかわからなくなっていたにもかかわらず。
(間違いない! 私にはあの魔術の効果がないんだ! 使ったシニッカ本人が言っているんだから間違いない。私に名前を刻み、ご主人様になったはずなのに、効果がないって話をしているんだ!)
思考が鋭利になっていく。シナプスでできた塊が形を変えて、ひとつの集積回路のようにギュッと集合していった。密度が高いから性能も抜群。雑多にならべられた思い出の写真の中で関連性のあるものにインデックスを張り、司書が――たとえばクリッパーさんが――本棚からひとつのことがらに対する資料を整然と集めてくれたのだ。
「『飯田春子』へ、魔王シニッカより。『イーダ・ハルコ』の名を<我が名を刻め>とする」、これは転生初日のサウナ室でのできごと。
「真名を使うのであれば、この世で最初にあたえられた名を」、これはダンジョン内の神殿跡地で巫女と戦った時の契約内容。
そして――プラドリコでのスタンピード迎撃。前夜、自分のなりたいものがわからなくって、ついつい「私は?」とつぶやいてしまった時のシニッカの反応。
「あなたはイーダ・ハルコじゃないかしら」
…………。
(そうか! そういうことだったんだ!)
ああ、ようやく理解できた。
このことは当時のシニッカにも確証がなくて、でも今はきっと確信を持っている。だから彼女は私が捕らえられるかもしれないというのに、退路のない戦いを選んでいたのだ。私よりも私のことを理解していて、今この勝負におおきな賭け金を積んでいるのだ。
つまり――
私はイーダ・ハルコじゃない。
もちろん飯田春子でも。
いじわるなコボルトたるルンペルシュティルツヒェンが認識阻害をもたらさなかったのは、対象がどこにいるのかわからなかったからなのだ。




