笑うウミヘビ 31
まずは水のルーンᛚに海の言遊魔術を接続して、穴へ落ちた勇者を水浸しに。次に放ったのはᛁ、つまり氷のルーン。せまい落とし穴をフィヨルドさながらの氷の世界へしてやろうという魂胆だった。
我ながらうまい戦いかたを思いついたと感じていたし、凍りついた敵を見てピノキオのように鼻高々にもなった。けれどわずか数秒後、ピシッという音とともに氷塊にはおおきな亀裂が。イーダはそれが砕ける音を聞く前に脱兎のごとく逃げ出した。ついでに世界樹のように高くなった鼻も音を立ててへし折れる。ピノキオがそんなことになったのなら、かわいそうにもほどがある。だから今自分が尻尾を巻いて逃げるというかわいそうな事態になっていたとしても、納得せざるを得ないのだ。
(そうだよね! 効かないよね!)
魔女は狭い通路を走っていた。ここは古城リニ・クロブクの地下にある宝守迷宮の中。城の天守の1階を意味するダンジョンから隠し通路をおりたところにあるダンジョン、なんていうややこしい場所。イーダは王都近郊の街ルカ・グラデツから、地下道をとおってこの場所へきていた。
となりには木箱をかかえたヘルミも一緒だ。
「イーダさん、なかなかいいしたり顔でした。それが一瞬で驚愕に変化したのもふまえて。胸の高鳴りをおぼえるほどでしたよ。ごちそうさま」
「ありがとうヘルミ! 辺境伯たるあなたに悪意の蜜の軽食を用意できて光栄だよ! とっとと逃げようね!」
皮肉の応酬をしていると、背中にぞわりとしたものが。まるでオバケでもだきついたかのように、冷たい魔力が背骨に当たった。
「避けて!」、叫びながら曲がり角へ身を投げる。電子レンジのような音がしたかと思うと、壁に刺さったのは真っ赤な細い光線。ジジッとゆっくり照射点を移動させ、真っ黒な足跡を石材に残す。
SFなんかで見たレーザービームそのものだ。爆発するタイプのビームじゃなく、メスのように切り裂くやつだ。あんなもの照射されたら、料理番組の小気味いい進行くらいの速度で「魔女のイーダのぶつ切り」が完成するに違いない。でもオートミールで育てられた魔女がおいしい肉を持つとは思えないから、マヨネーズをたっぷりかけられて味をごまかされるに決まっている。
「ディランさんもお腹がすいているのでしょうか。切断と加熱を同時にするなんて、少々せっかちな調理方法と思います」
「食材たる私たちにおいては、まな板の上から逃げるしかないよ!」
足を止めずに逃走する。まだ希望はある。完全に追いつめられているようだけれど、実はそうでもないのだから。
理由としてはこの場所の狭さと複雑さ。居住地にある古城の地下だから、とっくに害獣は駆除され切っているし人の手も入っている。けれど元宝守迷宮だった空間はまさに迷路そのもの。3人分の幅しかないし、あっちこっちに分岐しており逃走路として申し分ない。
それにパハンカンガスの毒竜の牙で作った杯もある。マルセル・ルロワの対抗召喚で手に入れた8面体の魔石のひとつ『ᚾ』は、この杯をヒュドラーの攻撃から身を守る盾に変えていた。そのため――
「<猛毒の矢よ敵を穿て>!」、放たれた必殺の一撃に対し、「<ᚾ、杯よあれ>!」と唱えるのが定石。杯は共食いする蛇みたいな大口でもって、黒い殺意をごくりと飲みこむ。
(よし、補充完了!)
これこそが狙いなのだ。ヘルミの話では、勇者自身もこの毒には最大限の警戒をしていたという。つまり彼を殺害せしめる手段のひとつとして有用であり、利用しない手などない。
走りながら、えいっとばかりに床を蹴る。足元にある罠のスイッチを飛び越すためだ。同時に、毒のいくばくかを横の壁へとぶちまけた。そこには目立たない穴がたくさん開いている。スイッチへ足を踏み出した者を、これでもかというくらいに串刺しにするトラップだ。
毒液がしたたる罠壁は、歯ならびの悪い性悪悪魔が勇者の死へよだれをたらしているように見えた。魔女は魔界の住人なので、ニヤッと口角を上げて笑い返す。
十字路を曲がったイーダは、走りながらも耳をすませた。高く鳴る勇者の走る音。そしてガシャン! と槍が飛び出る音。罠悪魔さんが大戦果をあげたか⁉︎ と期待するものの、「あっぶな!」なんて声が聞こえてきたから、残念な結果に終わった様子。
(やっぱりね! それで倒れてくれるような人、スースラングスハイムの勇者になんてなれないよね!)
相手だってこちらに勝るとも劣らぬくらい性悪なのだから、簡単な罠など効果はないだろう。だからこの入り組んだ迷路の中で、たっぷりと時間をつぶしてもらう。シニッカがイヴェルセンを倒し、こちらに合流するまでの時間稼ぎだ。
しかし敵の悪さをそこまで理解していながら、イーダは「悪辣」という言葉の存在を忘れていた。通路にエコーをかけながら、ディランの声が響き渡る。
「ねぇ! 聞こえているかい!」、どこか試すような口調。魔女はすぐに警戒モードへ。なにせ自分には呪いがかけられていて、もし相手が「こちらの仲間になれ!」なんて命令したのならいうことを聞かないとならないのだから。
すぐに耳を閉じようとした。が、ディランが放ったのは命令ではなく独白だった。
「君がどれくらい悪人か試してみよう! 今から言うことを聞いて黙っていられるか興味があるんだ!」、勇者ディランは舞台俳優のような演技がかった声色で言い放つ。「グリゴリーやトマーシュを罠にかけたのは僕たちだってことくらい知っていると思う! でもヤネス2世の兄、つまり前の王を殺したのもイヴェルセンだってのは知らないんじゃない⁉︎」
(……嘘でしょ?)
この国の歴史は勉強してきた。トリグラヴィア王国のディミトリ1世は、30年ほど前に土砂崩れで事故死したという。それからヤネス2世の治世がはじまったものの、いまだに「ヤネスがディミトリを殺したのだ」といううわさは絶えない。
でもどうやらうわさは偽物だ。
「イヴェルセンは王を殺したことがある! なら恋人たる僕だってそうありたいと思うんだ! なかなかロマンチックでしょ⁉︎ これが僕という悪人がこのたくらみごとに参加している唯一の理由さ!」
役者めいたしゃべりかただから、本心かどうかなんてあやしいところ。イーダはこれが挑発だということくらい看破している。一方でなぜこんな効果もうたがわしい挑発をしたのか気にもなった。
いつでも耳をふさげるようにしながら、彼女は足を止めて次の言葉を待つ。
「君たちはどうだい⁉︎ この戦いにどんな悪意をこめている⁉︎ 僕の予想だと、そこには悪意なんかないと思うんだ! ただ仕事であるとか、地域の秩序をたもつためだとか、そういうもっともらしい感情で動いているんだってね!」
勇者も歩みを止めたのか、足音がしない。でも彼の言い分は高らかにダンジョンの壁へ反響を残す。
(なんで今こんなことを言うの? 狙いがわからないよ)
理解できなかった。挑発にしては効果が薄い。主張にしてはタイミングが悪い。
でも次の言葉を聞いて、イーダは戦わざるをえなくなってしまうのだ。
「だからさ! 魔界にふさわしいのは僕たちだ!『魔王』という語は『イヴェルセン』という名の前に置かれるべきだし、魔獣という連中は僕たちの下にこそいるべきだ!」
(……そういうことか)
ようやく合点がいった。なぜ少々無理をしてまで、このタイミングでクーデターを起こしたのか。なぜ執拗にヴィヘリャ・コカーリを追跡したのか。
つまり彼らは魔王シニッカを殺しにきたのだ。
ゆえにこの戦いから逃げてはならない。
(これはこちらが嫌がってもしかけてくるな。となると――)
「ついでに魔女も同じだよ、イーダ・ハルコ! 君は――」
「くる!」と思うが早いか、イーダは魔術をひとつ放つ。「<遮音魔術よあれ>!」
「僕たちの仲間になれ!」
ディランの声はイーダに届かなかった。魔術でできた耳栓が、すべての音を遮断している。
(うまくいった!)
ウミヘビの持つ魔女殺しの一撃は、しかしごくごく単純な欠点によってその効果を発揮しなかったのだ。




