笑うノコギリエイ 後編10
心臓が打楽器のように鳴る。周囲の楽器との調和を忘れたか、その音がやかましく耳に響く。それ以外で唯一感じるのは、血流があちらこちらへ激しく行き来する音。バイオリンの弦を行き来する弓が、不協和音を奏でているかのように。
そんな心象を得て、イーダはひどく動揺していた。目の前にいる勇者が、なぜか自分のことを知っている。理由はわからない。わかるのは、それが悪い知らせであることだけ。
(なんで私のことを……)
シニッカがかけてくれた『ルンペルスティルツヒェン』という変わった名前の魔法。他者からの認識を阻害し、外見を偽り、名前まで覆い隠してくれるはずのそれは弱点を持っている。
「あなたのことをすでに知っている人や、なんらかの方法で知った人には効果がないの」
じゃあなんで、この人が私のことを知っている?
前日、勇者が辺境伯領内にいるうちに事態を収拾せんと、彼女たちは対象を足止めすることに決めた。作戦はシンプルだった。シニッカが勇者の気を引き、友好的に会話することで「お使いイベント」を依頼する。そこに同行して情報を分析し、弱点を探す。最後にその弱い部分へ、殺意の短剣を突き刺し倒す。そのはずだったのに。
準備だって入念にした。イーダはそこでも名前どおりのまじめさを発揮した。自分の偽の出身地を決めて、矛盾なく話を合わせるための経歴を作り、今わかっている相手の情報を頭へ叩きこんで、今日この場にのぞんでいる。
けれど勇者は見ただけで、フードをかぶったその少女の正体を看破したのだ。
頭の中で時計の音が不安をあおって鳴り響く。
「おい! なんでお前がいるんだ! 助けたはずだろ!」、不意に勇者の手がイーダの両肩をつかんだ。グラグラとゆさぶられ、動揺は恐怖の色を帯びる。このままじゃまずいと思うのに、体がちっとも反応してくれない。
「やめていただける? 私の友人に」
魔王はまだ、旅人の顔をしていた。「なんてことをするの!」とばかりに、ふたりの間へ割って入る。勇者の手をパシンとはらいのけ、イーダと彼の間隔を開けた。
「イズキさん! いけませんよ、どうしたっていうんです!」、一方、勇者側の仲間たちも動揺を禁じ得ない。イズキがいきなり少女の肩をわしづかみにし、激しくゆさぶる姿なんて想像したこともなかった。だからフローレンスは彼の体へ腕をまわし、体を張って止めたのだ。
(どうしてしまったの?)
制止しながらイズキの顔を見上げる。彼の目はフルフルと震えていた。とまどいと、少々の怒りをたずさえているよう。それを見ていると……イズキがなにかに危惧をいだいていると感じた。
「イズキさん、彼女と知合いですか?」「……ああ、たぶんな」、短い会話の後、取り乱していた勇者は冷静さを取り戻した。そして3人の仲間に問いかけるのだ。「なあ、もし俺が戦うって言ったら、みんなは協力してくれるか?」
「……よくわからないけど、私はイズキに従うわ」、すぐさまフルールが応じる。続いてフェリシーも「いいよぉ。なんかワケありってことだよね」と腰の短剣へ手をのばす。
間近でその空気にさらされたフローレンスもまた、きゅっと口元をむすび黒髪の少女へ振り返った。「事情は後で聞かせてください。イズキさんに危険がせまっているなら、私はあなたの味方です」
昨晩商人とイズキだけが会話したこと。「敵は存外近くにいる」という話。それが一瞬のうちにフローレンスの警戒レベルを引き上げた。そして自分でも信じられないくらいに、警戒心は怒りの色を帯びていく。なぜ私の勇者様にちょっかいをかける? なぜ私の愛する人へ危害をくわえようとしている? なぜか根拠のない感情が心を支配しはじめ、「この黒髪の女をこのままにしたくない」という行動へと駆り立てた。
――そしてなぜだかそれは、火山の噴火のような激情になったのだ。
立ちはだかる茶色い髪の女を片腕で押しのけて、フローレンスは黒髪の女の胸ぐらをつかむ。いつもは柔和な彼女の行動に、パーティーの3名も目を丸くした。でもそんなことはフローレンスの意識にない。だから女を問い詰める。「あなたはイズキさんにとって、どういう人ですか⁉︎」
迫力があった。目に強い意志というか、殺意に似た炎をやどしていた。豹変した、といってもいい。だからイーダは、首元にのびた腕――人を傷つけることなど信じられない白く細い腕を、とっさに両手でつかんだ。
「や、やめてください! 私は北の地から旅をして――」
「嘘をおっしゃい!」
平手打ちのような、ぴしゃりと音の鳴りそうな、そんな怒号。イーダは目の前の人から逃げたくなっていた。でもあせりと恐怖が足をすくませ、うまく抵抗できない。となりのシニッカに助けの目線を送る。しかし――
「あなたも動かないで!」「あなたもさぁ、彼女の仲間なんだから、おとなしくしてねぇ」、赤紫の髪の軽戦士と、短刀の柄に手をかけた水色の髪のスカウトからにらまれ、余裕はなさそうだ。
(このままじゃ!)
ヴァランタンの娘フローレンスは、今にも首をしめてきそうな顔になっていた。息は雄牛のように荒く、目は血走っている。ほんの数秒で人が変わったかのように、彼女は敵をくびり殺そうとしている。彼女の冷静さはすでにほんのひとかけらしか残っていなくて、それがなくなった時に殺人を決めるのだとイーダは理解した。
腹の底にぞわぞわと嫌なものがこみ上げてきた。それが胃の底をナイフの腹でなでているようで、イーダは必死に両手へ力をこめる。「お願いだから離して! 冷静になって!」、そう叫ぶ姿は、戦場で命乞いをしている捕虜のようだった。
と――ふわり、白樺が香る。戦場に似つかわしくない、やわらかい香りが。
「え⁉︎ す、すみません! 私としたことが!」
同時にフローレンスの手がイーダの胸ぐらから離れた。「ごめんなさい」と繰り返し謝りながら、彼女は後ずさりしてイズキの横に戻る。
とまどう彼女の顔からは、いつの間にか怒りが消えていた。
(な、なにが起こったの?)
イーダには状況が理解できなかった。当然、まわりの人間にもそれは同じ。一番怒っている者が急に勢いを失ったせいで、フルールとフェリシーもまた1歩下がって困惑の表情を浮かべる。
すかさずイーダと勇者の間へシニッカが割って入った。そして皮肉をひとつ。「なんだというのかしら? あなたたちは旅人へ無礼を働くのが生きがいだとでもいうの? 雷神ソールのように怒りっぽく、悪神ロキのように気まぐれね」
「違うな。少なくともロキはお前だ」、すぐに勇者は言い返す。その顔へ、相手へのあざけりを浮かべながら。「昨日な、俺の敵が近くにいるかもしれないって連絡があった。協力してくれた商人からだ。お前、ヴァランタンの手の者だろ? あいつは悪魔と契約したって聞いた」
「この世では悪魔種にだって人権があるわ。けれどお話をうかがおうかしら?」
「ああ、お前の後ろにいる黒い髪の女だが、そいつは俺が過去に助けたやつだ。俺はそいつに命をかけたんだ。お前には理解できないだろうが、事実さ。文字どおりの意味で、命をかけたんだ」
勇者は目元には敵意を、口元には笑みを浮かべて言う。それはたしかに害意というべき形をしていたから、シニッカの後ろにいるのに、イーダは目の前へ剣の切っ先をむけられた気分になった。
同時にトラックに轢かれる前のことを思い出す。自分が突き飛ばされて転んだのは、彼の行動によるものだったのだろうと。
「でも俺のやったことは実をむすばなかったみたいだな。せっかく助けたのに、そいつもだめだったみたいだ。助けようとしたんだぞ。こっちは命を使って」
彼の言葉は本当だろう。彼は本当に命をかけてくれたんだろう。そして死んだのだ。そう思うと、罪悪感という無数の刃でできた檻に入れられた気分になった。
「イズキさん、あの、彼女は?」
「ああ、フローレンス。こいつはたぶん敵だ。女神に聞いたことがある。『対抗召喚』だったかな。どうやら俺の敵側としてこの世にあらわれたみたいだ」
俺はすべてお見とおし、そう言われている気がした。事実、ほとんど彼の言っていることは正しかった。それがよけいにイーダを追いこむ。せっかくシニッカが立ててくれた作戦は、自分という存在によってだいなしになりかけているのだと。
そして勇者は、そこに容赦ない一撃を食らわせた。
「なあ女子高生! お前はどうやって死んだんだ⁉︎」
強い口調。男は本性をむき出しにする。
異世界転生で得た力を使うチャンスであるとか、「絶対にお前が間違っている」と相手に伝えることで優越感をえるためだとか、そういった喜びの感情が彼を実に楽しくしたから。
勇者たる俺が活躍する場面だと、身勝手な心象を思い描いたから。
それは「どうやって死んだ?」などという追及になってあらわれた。それに当てられた相手の都合など考えもしない。
(⁉︎ わ、私は……)
強い衝撃を心へ受け、イーダが思い出すのは、あの時の光景。灰色の道路の上で、脚に噛みつくのは灰色の残骸。冷たく体温を奪う雨だって、死にかけの自分から目をそらす人影だって、みんな灰色をしていた。唯一、牙を突き立てられた太ももから流れ出す血液だけは違う。忘れようのないくらいに真っ赤だったから。
脳の中心がぐらりとゆれた。同時に砂嵐のような粒子が、ざあざあと音を立てながら視界を覆っていく。
フラッシュバックだ。見るものすべてがあの日のように灰色になり、イーダは脚を震わせ立ちすくんでしまった。腹の奥から湧き出た記憶が、のどまで熱いものを押し上げて、とても気分が悪い。
あの時見た赤い色は、また私の前にあらわれるのだろうか?
「イーダ! 私を見なさい!」、目に誰かの顔らしき影。でも、砂嵐でよく見えない。
「しっかりなさい!」、頭がゆれているのは、頬をパシパシと叩かれているからか。
「なんでここにお前がいるんだ⁉︎ 恩を仇で返すのが、2度目の人生の意味なのか⁉︎」、鮮明なのは、大声を上げている勇者の声だけ。横で「イズキさん! いけません! 一方的すぎますよ!」と止める女性の声はずいぶんとぼやけて聞こえた。
ああ、そういうことか。イーダはひとり理解した。
「もういちど言う! 助けようとしたんだぞ! こっちは命をかけて!」、強いエコーの声は続く。
(暴走車から救ってくれようとしていたんだ……)
それはかなわなかったけれど、善意でやろうとしてくれたこと。「俺は助けるために命を使う! お前は奪うために生まれてきたんだな!」、そして彼はその行動で、一緒に命を落としたのだ。
(そんな……それじゃあ――)
巻きこまれた彼がああいう言いかたになるのも理解できた。申し訳ない気持ちがあふれ、イーダは力なくポツリとつぶやく。
「彼が死んだのは私のせいだ」、弱々しい声。目の前の男がなぜ怒っているのか理解した。命を賭けて救おうとした人が、敵になれば当たり前なのだと。
もはや彼女に思考能力はない。心は脳へ考えるのをやめさせて、自らの心臓に痛々しい棘を刺す。断罪されている気持ちになって、ここで生きていることが申し訳なくなって。
そこに――
「違うわ!」、力強い声がした。誰かに正面からだきつかれ、両腕が自分の背中にまわる。
この暖かさは、覚えている。たしか死んだ直後、暗い部屋で私をなぐさめてくれた人のものだ。
「イーダ、しっかりなさい。あなたのせいじゃない。そんなこと、私が言わせない」、耳元で聞こえる声。それに「私のせいじゃない?」と一筋の光が差しこむ。「まどわされないで。あなたは彼を殺すために死んだわけじゃないでしょう?」
(けれど、今回は彼を殺そうとした)
「あいつが命を狙われているのは、この世で誘拐を働いたからよ。あなたがなんのためにここにきたか、思い出して」
(なんのために? ええと、私は……シニッカと。そうだ、シニッカと一緒に)
「――戦うって決めたでしょ?」
はっと、我に返った。
思い出したのだ。自分が彼の対抗召喚で呼び出されたこと、そして魔王とともに勇者を倒しにきたことを。
街が彩度を取り戻し、時計の音が頭の中に戻ってきて。
(まずい! 戦わなきゃ!)
敵意をこちらにむけている勇者に気づいた。
「やっぱりお前、女神様の言っていた『対抗召喚』だな。結局死んで、俺を殺しにきたんだよな?」、ドスの利いた声は、とても勇者のそれとは思えなかった。そして彼は執拗に責め続ける。口の端を上げてあざ笑うように言い続けるのだ。「ふたりとも魔王の手先か? 恩を仇で返すためにここへきたってのか? どうなん――」
「人さらいがわめかないでくれる?」
突如、雪のように冷たく、つららのようにするどいシニッカの声。
「お前はなにをそんなに怒っているの? 前世でお前が死んだのは、前世のお前自身の行動によるものじゃない。この世でお前が命を狙われるのなら、この世でお前がなしたことの結果じゃない」
「なんだと?」
「自分の失点を他人のせいにする機会があたえられたと見るや、徹底的に責め立てる。まるで噛みつく相手を待っていたみたい。けれどあなたの言い分は正しくないし、それを私の友人へ当たり散らす光景なんて見たくもない」
彼女はイーダから手を離し、勇者へむき直った。イーダには至近距離でむこうをむく彼女が、演技をやめたことに気づいた。
「――だからおやめなさいな、転生勇者様?」
偽装魔法の効果は、自分にはわからない。けれどこの瞬間、茶色の髪の女は姿を消したのだろう。ペストマスクを頭に着けた、濃紺の髪の悪魔と入れ替わるように。
コボルトは、相手に名前を明かされて……。
「イズキさん! その人が『魔王』です!」
「――お前ぇっ!」
「バレちゃった」
シニッカが振りむいて舌を出す。
その顔はずいぶんと楽しそうで……同時に、見たことがないほど凛々しかった。




