笑うウミヘビ 30
何本ものたいまつで照らされた夜の古城。星空を背景に浮かび上がるその光景はそれなりに美しいものの、風景画にしたら少々あきりたりなほどでもある。むしろ絵になるのは天守の前の広場だろう。そこにはとある女公爵と、女伯爵が会話をしていたから。
「ウミヘビたちもたいしたことがありませんね。こんな寡兵をルカ・グラデツ城に置いておいたところで、こんなふうに捕縛されてしまうのですから」
口を開いたのはバジリカゼミリャ公国の女公爵、ニコリーナ・クネジェヴィチだ。川辺の古城の城主である彼女は、スースラングスハイムの勇者ディランがこの場へ監視に残した傭兵たちを見おろす。荒縄でがっちりしばられて、これから地下牢へと連れて行かれるあわれな者たちへ微笑みながら。
「いけませんよ公爵様。油断はいつだって禁物です。ほら、見てください。私なんか腕を少々かじられてしまったのですから」
公爵に応じるはカールメヤルヴィの辺境伯。鎧兜を身にまとっているのに、体の豊満さを隠さぬ者。絵画を描く者は、彼女の姿へ筆入れするのを一番楽しみにするだろう。
ヴィルヘルミーナはなくなった腕を見せるようにして、けれど笑顔で立っていた。足元へちゃっかりルーンを刻みながら。残っているほうの腕には長い木箱をひとつかかえる。夕方に工房の水路出口で回収した物だ。
「かじられた? すっかり食べられたように見えますけれど?」、箱へちらりと目をやりながら、ニコリーナは少々皮肉気に言った。別に悪意をこめたわけではなくて、会話の中に混ぜこんだ、ちょっとしたいたずら心だ。
「白状しますと、実は自分で切断したのです。毒におかされてしまったものですから。もし回収されていなければ、今も傭兵たちの駐屯地を蛇のように這いまわっているでしょう。苦しみにもだえながら」
「あら怖い。腕のおおきさが人類のものならいいですが、巨獣のものでしたら傭兵たちは青ざめるでしょうね。明日になったら見に行ってみましょうか」
「もし見つけたのならば、お手数ですけれど焼いていただけますと幸いです。きっとヘーラクレースよろしく『カバの左前脚座』になって、バジリカゼミリャ公国を守護し続けることでしょう」
黒い冗談を重ねに重ねて。それでクスクス笑いあっているのだから、少し離れた位置に立つ残りの公爵ふたり――ヴカンとネナドは肩をすくめるしかない。蛇の尾を持つニワトリと、蛇の国につかえるベヒーモス。どうやらサラマンダーとフェニックスでは残酷さで勝てないようだ。
そんな彼女らのまわりでは、3公爵の私兵たちがあわただしく駆けまわっていた。武装して点呼をしている者たちや、物資を荷車へ積みこんでいる者たち。あわてて飯をかきこむ者もいる。その騒々しさは戦場を思わせるもので、実際ここは戦場になるのだろうと全員が予感していた。
「彼はくると思いますか?」、バジリコックの主の問いへ、魔界の戦乙女は迷いなく「ええ、すぐに」と返答する。会話の主語になっているのは勇者ディラン。ふたりともいちど会っている相手であり、できればもう会いたくない相手でもあった。
ここにいる100名程度の戦力で勇者を止めるのは至難の業だ。正面から戦ったら、足止めどころか殲滅されかねないほど。ベヒーモスを駆逐せしめたのだから当然のこと。
ゆえに兵士たちは撤退の準備を急いでいた。彼らの役割はここで勇者と戦うことでない。戦力を保持したまま、明朝をむかえること。戦いがヤネス2世・カールメヤルヴィ同盟の勝利に終わると信じながら逃げまわることなのだから。魔界の者たちが勝ってはじめて、街の治安維持という任務をあたえられるのだ。
話しているうちに兵士たちの準備もそろそろ終わりそう。城の門は開け放たれ、数少ない騎兵たちが撤退地点――郊外の高台を占領すべく先発しようとしている。短めの馬上槍をたずさえた騎兵たちの背中は、任務へ自分たちを急かすようにせわしなくゆれ動いていた。
そんな場所へただよってきたのは、髪の毛を焼いたような、鼻を突く臭い。
5騎の騎兵がぴたりと動きを止める。周囲の兵が「なんだ?」と目線をむけた瞬間には、積み木がバラバラと崩れるかのように騎兵と馬は地面へ散らばった。
遅れて赤い鮮血が夜闇へパッと散るその中央、立っていたのは残酷な顔をしたひとりの勇者。
「敵襲――!」、誰かが叫んだ。先ほどまで整然とならんでいた歩兵たちが列を乱しながら敵へむきなおる。けれどまばたきを数回はさんだ後、彼らも肥料のように地面へ散らばってしまったのだ。
ヴィルヘルミーナは息を吸う。大声で叫び、敵へ自身の居場所を伝えるために。「勇者ディラン!」
「ああ、そこにいたんだねベヒーモス。待っててよ、すぐに行く――」
勇者が消えた。同時に目の端に見える殺意の影。
もう彼は至近距離にいた。
「――からさ!」「<ᚱ>!」
ヴィルヘルミーナの立っていた地面が、地雷でも爆発したかのようにバッと砕けて宙を舞う。そこに彼女の肉片が混ざっていなかったのは、騎乗のルーンによってなんとか逃げおおせたからだ。
天守の屋上、胸壁の上。木箱をかかえた辺境伯は勇者の速さに舌を巻いた。
(なんて速い。これはいつまでも避け続けることなどできませんね。とはいえ、なんとか兵士たちが逃げる時間をかせがなければ)
「ここです、勇者様!」、下をのぞきながら彼女はひとまず挑発することに。「高いところはお好きでしょうか? あなたの経歴の最後に『墜落』と書くのはいかがですか?」
「グリゴリーと同じく、僕も苦手だよ。そこに人を殺すという楽しみがない場合にはね」、勇者は両手を広げ、おどけた。それは舞台の上で演技をする役者のよう。自分にスポットライトが当たっていると確信していて、自尊心へ鼻高々になっている者の身振りをしていた。
むろん、この場で一番強い者が彼であるという事実へ、異論をはさめる者など誰もいないのだけれど。
「だからおりてきなよ。<猛毒の矢よ敵を穿て>」
勇者が手を掲げると同時、その手のひらへ黒緑色のうねるものが。ヴィルヘルミーナは反射的に上体をそらしながら、目いっぱいに床を蹴った。
衝撃と破壊音。今まで立っていた床が胸壁ごと粉微塵にされる。散弾銃のような石の欠片が鎧をけたたましく叩く。古い歴史を持つ石材のひとつひとつが、怨嗟の声をあげながらもがき苦しんでいるかのように。
(なんとかかわしましたね。しかし……)
どうせ油断などさせてくれない。
がれきのあげる煙に混じり、ふっと男の影が見えた。戦乙女は木箱をかかえ、身を低くして階段へ飛ぶ。背中に強烈な風圧を感じたのは、横なぎに振るわれた敵の一撃。いくつもの胸壁が首を切られた罪人のように壁からスパンッと飛ばされた。
バタバタと階段を転げ落ちた。階下の床へ体勢を立て直したのは、先の攻撃から3秒後くらい。たったそれだけしか経過していないのに、おそらく敵はもうこちらを射程におさめているはず。
手にした木箱を、さらに階下へ投げ捨てる。空いた右手は腰の後ろ、ひとつの杯へ。居合抜きの要領でもって、それを目の前へ掲げた矢先――
「<猛毒の矢よ敵を穿て>!」「<ᚾ、杯よあれ>!」
鉄砲水のようにせまる黒緑の蛇は、しかし杯の口へ寸分たがわず飛びこんだ。ふたたび毒竜牙の杯はヒュドラーの毒をうまそうに飲んだのだ。ヴィルヘルミーナはその場でくるりとひとまわり。再度杯を相手にむけると、言遊魔術をひとつ使って中身を盛大にぶちまける。「――<猛毒よあれ>!」
ヨルムンガンドの故事にならった、当たれば必殺の毒攻撃。
「うわっと!」、さすがの勇者も全力で避けた。体の近くをどす黒い光線が走ったから、めずらしく冷や汗すら噴き出して。「あっぶないなぁ」、口調を崩す彼でもなかったものの、少し戦いかたをあらためようと、いったん立ち止まることにした。「わかったよ。君も毒を使えるなら、瞬殺なんて狙わない。僕はイヴェルセンと違って、じっくり攻めるのも好きだからね」
「時間はお金で買えませんよ?」、下の階から微笑む声。くしくもイヴェルセンの口癖と同じで、つまりその言い分は正しい。
「売っているところを知らないだけでしょ?」、これはちょっとした負け惜しみ。けれど心へ去来するのは悔しさでなく楽しさなのだ。
(いやぁ、本当に心がおどる連中だなぁ。世の中の政治家たちは、彼女らから『あきさせない方法』を学んだほうがいいよ)
勇者ディランがそういうことを考えるのは、相手に対する賞賛の気持ちをいだいたからではなくて、本当にただ自分が楽しんでいるからだ。命をかけた時に感じるスリル、人の命を奪う時の高揚感。これらが心へ到来した時に「僕はなんていい人生を送っているんだろう!」と心臓へ満足感の血をドクドクとめぐらせるたちなのだから。
と、少々悦にひたりすぎた様子。下から鎧の動く音が聞こえてきて、それはベヒーモスがもっと下へ逃げ去ることをあらわしている。
(そうするなら、僕はショートカットしちゃおうかな)
彼は膝立ちになり、床へ右手を置いた。ぐっと体重をかけるようにして。その体勢のまま、ゆっくり深く息を吸う。それはいつまでも息つぎのタイミングがこなくて、その場にある魔力を吸いつくすかのように長く続いた。
肺が内側から膨張し、胸の裏側へとチリチリした感触がめぐる。けれどやめない。約三億個の肺胞のひとつひとつへ空気と魔力を充満させて、自動車だったら燃料タンクからガソリンがあふれる直前まで注ぎ続けるのだ。頭上へミシミシ音を立てながら円状のバグモザイクが浮き上がっても、彼は魔力の集中をやめない。
いよいよ胸が膨張にともなう痛みを訴え出した時、彼は存分にためた魔を撃ち出した。
「――<槍となりて穿て毒よ>!」
それは詠唱というよりも命令だった。自身に充填した魔力に対し、収束と貫通を命じたのだ。
だから毒の力はよけいな破壊をするかわりに、直径1メートルの円柱状に成形されて――。
ズドン! 塔がゆれる。蝶が虫ピンで標本にされ、いちどだけ身を震わせるがごとく。
「よし、開いたあいた」、満足そうに見おろすディランの足元には、主塔の地上階まで続く穴。型抜きしたかのように綺麗な切り口で、主人のための抜け穴を形どっていた。
迷わずそこに踏み出して、勇者は体を宙へと投げた。恐れ知らずの若者がバンジージャンプでもする手軽さでもって。耳元で鳴る空気を裂く音と、同心円状に引きのばされたように引きのばされる視界。慣性へ置き去りにされた内臓が腹の中で持ち上がってくる。
タァン! 高く鳴ったスネアと同じ音を立て、ディランは地上階へとおり立った。同時に敵の気配。攻撃がくると予想して、すぐに彼は半身に構える。毒を撃たれてもいいように、右手へ魔法盾の準備をしながら。
けれどそこにいた戦乙女は、それはもう奇妙な姿。木箱をかかえて突っ立っていて、武器のひとつも構えていない。おまけに彼女のいる場所は、地下牢にある檻の中。顔も微笑みのままなのだから、ディランはついつい素に戻ってしまう。
「ええ? どうしたっていうのさ? 君が罪深いことくらい知っているけれど、自分で自分を捕まえるなんて正気に思えないよ」
「お気遣いなく、勇者様。私は自分が狂気の中にいることを自覚していますし、あなたと同じように楽しんでいますから。それにあなたが同じように牢へ入るだろうことも知っていますよ?」
「おもしろい冗談だね。でも高いところと同じく、狭いところも嫌いなんだ。だからそこには入らないで、ここから君を撃つことに――」
最後まで言い切る直前。ガコン、という音と一緒に、ベヒーモスは姿を消した。いや、なにが起こったかくらいわかる。
あれは落とし戸、つまり隠し通路だ。
「ああ、まったく! 逃げるのだけは世界一だと認めてあげるよ!」
戦乙女の予言のとおり、ディランは檻へと突入した。長いはしごのかけられた通路が、いたずらっぽく口を開けている。
高いところは嫌だって言っているのにと、ぶつくさ言って飛びおりた。また高速で重力に引かれたから、暗さと視野狭窄によって一時的に視界が奪われる。
そうやって落下していく、とある瞬間。目の端を一瞬だけ明るい場所がとおりすぎた。たぶん、横道の通路があった様子。そしてそこに人影も。
「ああ! もう!」、叫んだのは以下の2点のせい。
ひとつはその人影がベヒーモスのものだろうと思ったから。もうひとつは眼下に人の身長ほどの針が山を作っていたから。
「――<防げアイギス>!」、足元へ展開した盾が鋭利な針を受け止める。引っかかったままだった数人分の頭蓋骨が、魔法盾と針山とでサンドイッチされてバラバラになった。
舌打ちしながら上を見る。そこには横穴からのぞくひとつの人影。けれどおかしい。あのシルエットは戦乙女のものではない。
幅広のつばに、背高のクラウン。それをかぶる黒髪の女。
「<ᛚ、波よあれ>!」
こちらへ手を掲げているのは、例の少女、白樺の魔女だ。




