笑うウミヘビ 19
8月9日のお昼過ぎ。街は暖かい夏の日差しと、武装した物々しい者たちと、昼食を腹に入れて姿勢や意識やズボンの紐をゆるめている人々が相席する場所になっていた。
午後の仕事がはじまる時間というのに、昨晩の騒ぎがあったものだから、人々は労働よりもうわさ話へ熱を入れている。ある者たちは酒場で、ある者たちは街の広場や市場で、家の中にいる者も商店で働く者も、みんな話題は昨晩のことだ。
「結局、騒ぎが起こるのを事前にかぎつけ、逃げ出していた連中も、今日には戻ってきそうだな」
「この街を捨てるなんて馬鹿な連中だわ。それに裏切者じゃない。誰かそいつらの家へ盗みに入ればいいのよ」
「スラヴコ様が新国王になるってのが今でも信じられません。ああ、ようやくこの時代がきたのですね!」
「ちぇっ、あんたは賛成派かい。俺はヤネス王のほうが好きだね。彼がいなくなったら、誰に対してアネクドートで悪口を吐けばいいんだ」
意外なことに治安は安定していた。とまどっている人も悲しんでいる人も少なくはなかったが、それでも圧倒的大多数は「自分たちの生活が一晩で劇的に変わった」と認識していなかったし、事実それほど変わっていない。逃げ出したがゆえ休みになっている商店が多かったり、火事になった家の家主は悲嘆に暮れていたりもしたが、それでも「戦時」という感覚はほとんどの者が持ち合わせていなかった。
戦場の雰囲気を残す施設は多くない。ベヒーモスの襲撃を受けた傭兵の駐屯地、貴族の私兵と冒険者たちで固められたトリグラウ城、バジリカゼミリャの女公爵がいるリニ・クロブク城くらいだ。
そんな午後の昼下がり。フォーサスにおいて歴史的なできごととなる大規模ストリーミングは、突如その魔力の環をトリグラヴィア全土へ広げはじめた。
まず異変があったのはトリグラウ城だ。アルテミスが天上へ矢でも放ったかのように、強い魔力の柱がひとすじ、青い空を突き刺した。それは目に見えるほどの大気のゆがみと、数千個のバグモザイク――ひとつひとつがちいさいとはいえ、もう1本の世界樹のような天にのびるもの――を生み出した。
次にその黒い筋を中心として魔力の環が広がっていく。水面に水滴が落ちたのと同じく、波紋状に空を伝播したそれは、すさまじい速度でもってトリグラヴィア王国全土の上へと覆いかぶさっていった。
「な、なんだよ! なにが起こって……い……る」「どうしたの⁉︎ あれはなに⁉︎ これ……は……ああ」
同時に円環の下にいる人類という人類が、意識を白濁とさせていった。荷物を持って走っていた者は、歩みを止めてその場に座る。屋根を直していた有翼人種たちは、ゆっくりと降下して地上へ横たわる。馬車を走らせる人も、ペンを走らせていた人も、国中のおおよそ全員が影響を受けていた。まるで寝床へ入るかのように動きを緩慢とさせて、身の安全を確保したらそのまま両目をつむって。
みな、まるでシチューへ放りこまれた具のようだった。魔女の大鍋すらかわいく見えるほど特大の器の中へ、とろみのある白い液体と一緒に全員が入れられたのだ。体の輪郭があいまいになっていくと同時に、ひとつの料理として統合されていく。国中のいろいろな人々――種族も職業も違う多種多様な食材が液体になって広がっていく。
それは国家が見た白昼夢だった。トマーシュの固有パークによってもたらされた、強制的なストリーミングなのだ。
最初、そこは地平線まで広がる白い床と、それにすっぽり覆いかぶさる青空だけの光景だった。各々の人は、近くに大勢の他人の気配を感じていたものの、視界内に群衆が見えることがなかった。ほぼすべての人間は、PCのモニタ越しにストリーミングを視聴するのと同一だと気づくはずもない。ただ特等席に陣取って、なにか変化が起こるのをじっと待っていた。
これはディランが演出したもの。トマーシュへ「人々へこのような光景をもたらせ」と命令した結果だ。いくら魔力消費が多くて動画を提供できないとはいえ、真っ暗な視界では不安になるというもの。おかげでオーディエンスたちが心を落ち着けるまで、1分間ほどの時間ですんだのだ。
次に声が響いた。それは頭蓋骨の内側に誰かがいるかのような、意識へ直接語りかけてくる声だった。
声の主はスラヴコだ。
「みな、私はトリグラヴィア王国の新国王、スラヴコ1世である。突然のことで驚いているかと思うが、まずは私の言葉を聞くのだ」
落ち着いた声色でそう告げられるも、とまどう者が大半だ。沸騰するシチューにできた無数の泡がごとく、あらわれては弾けを繰り返していた。しかし演説は続く。
「変化とは突然発生するものだ。今諸君らはそれを目撃している。私スラヴコは、叔父のヤネス2世から正式に王座を譲られた。国難に対処し、国民を導き、国家の先頭で我が国の旗を掲げるために、だ」
あくまで落ち着いた王の声。「諸君らに危害をくわえるためではない、諸君らを守るために私はいる」であるとか、「国家はすでに掌握しており、政治体制は安定している」であるとか、その場を落ち着かせるための言葉を繰り返す。それは沸騰していた人々の心を、徐々に冷ましていった。
大半が事態を理解しはじめた。どうやら王の交代というのは本物で、自分たちが歴史的瞬間を目撃していることを。
そのタイミングを見計らい、スラヴコは演説のギアをひとつ上げた。
「諸君! 国を取り巻く状況がそれほどよくないことを理解していると思う。周辺を油断のならない国たちに囲まれ、国内にはモンスターが跋扈していることを。ゆえに私は、諸君らのために戦う王である!」
かちゃり、とひとつ音が鳴った。それは姿が見えないものの、王が剣の柄へ手をやった音だ。
「害獣の群れがあれば、私は討伐の布告を出すだろう。攻め入る国があれば、私は兵を率いて先頭に立つだろう。重い小麦の束を担ぐ者は我が手でささえ、夜に道に迷った者へはたいまつを持ってあらわれよう。私は3つの山のいただきへ旗を立て、リンデンの並木に水をやり、国中のダンジョンへ蓋をする覚悟だ」
シャラン! 剣が抜ける音。そして力強い王の声。
「私はこの国に道しるべを立てる! 我が民の繁栄のため、できるすべてのことをやろう! ゆえに国民よ、我へ続けよ! 後悔などさせぬ、絶対に、絶対に!」
群衆は感嘆の声を上げた。実際には音が伝播することはなかったが、スラヴコの声を聞いたひとりひとりが、新たな王の誕生に息を呑んだのだ。
「あらためて宣言しよう!――諸君らの王は私だ!」
人々が人の姿でこれを聞いていたのなら、拍手喝采が巻き起こっただろう。新王は演説に成功した。少なくとも、演説の続きを聞くのにふさわしい姿勢を取らせた。
次は敵の話の番だ。魔王と魔獣たちという。
「さて、本来は叔父上から直々に王冠をいただき、戴冠の儀を執り行えればよかった。しかしそうできなかったのは魔王のせいだ。知っているだろう、カールメヤルヴィの魔王、シニッカのしわざなのだ」
彼は声のトーンを戻して、現状をわかりやすく説明してみせる。いわく、ヤネス2世から依頼を受けた彼女らは、すきをついてトリグラヴィアから不当に利益を得ようとしていたこと。それがうまくいかなかったから、先制攻撃を行ったこと。
「王都にいる誰しもが、昨晩の騒動を知っている。街のあちこちで火の手が上がり、傭兵たちの駐屯地が4大魔獣の一角たるベヒーモスに襲われたことを」
スラヴコは、自分の即位がこのタイミングになったのも、ヤネスが魔王たちの呪いによって動けなくなったためだと主張した。半分くらいは真実であったから、人々にはあるていどの説得力をもって伝わっていった。
「これは許されざる行為だ! 魔王は我が叔父の命を、そして私の命を奪おうとしている。おそらく今夜、やつらはこのメスト・ペムブレードーに戻ってくるだろう。もういちどトリグラウ城へと襲いかかり、諸君らの国から王冠を奪う気なのだ!」
ここにきて人々は、なぜ新王が剣を抜いたのか理解した。つまり彼は、即位後最初の戦いをする気なのだと。
「だから私はもうひとつの宣言をしたいと思う!」
語気を強めた王の次のひとことが、国家に、そして国民にとって重大なものであることは明白だ。
「我々トリグラヴィア王国は、我が国に不利益をもたらさんとしているカールメヤルヴィ王国へ告げる!」
威風堂々とした声。そして――
「我々は貴国へ宣戦を布告するものである!」
賽は投げられた。
宣戦布告――自国が特定の国と戦争状態に入ることを表明する行為。同時にそれは戦時のはじまりを意味する。
トリグラヴィアの民はそろって背すじをぞわりとさせた。ここのところずっとなかった「戦争」という名の暴力が、自分たちの目の前にあらわれたのだから。
実のところ「宣戦布告」に関しては、スラヴコ自身も行き過ぎた言葉だと理解していた。しかし群衆を動かすにはシンプルで強い言葉が必要だ。あえて口にしたのだから、本当に戦争が起こっても負ける気などない。むしろ明確な外敵ができることは、国家がひとつにまとまるいい機会になる。今のように敵か味方かわからない周辺国に囲まれているよりも、ずっと強い力で国民の戦意に働きかけてくれるだろう。
「私は諸君らに我慢を強いるつもりなどない。相手がどんな者であれ、諸君らに火の粉を振りかけんとするならば、私がそれを振り払おう」
明瞭な主義主張と明確な戦意。過不足なく伝えられた新王の言葉によって、トリグラヴィアの国民は現状を受け止めた。
ストリーミングという手段によって、フォーサスでまれに見るほど、きわめて迅速かつ的確に。
(これでいい。私が王だということは十分伝わったはず)
演説を終えたスラヴコは――ストリーミングに自身の感情が乗らないよう注意しながら――胸をなでおろす。
うまくいったといえるだろう。これで国は一定のまとまりをみせる。そうであれば、今夜行われるであろう魔王との戦いに集中できる。これに打ち勝てつことで新しい時代が明日の朝日とともにおとずれるはずだ。
(こちらには勇者がふたりもいる。カールメヤルヴィの連中は、けが人もしくは疲労困憊の者しかそろえられないはず。魔界への出入り口も破壊してやったのだから退路もない)
早朝に鳴くニワトリの声は、まさに世界樹で夜明けを告げるグッリンカムビのように高く響き渡るだろう。
「私の宣言は以上だ。清聴に感謝する」、スラヴコはそう言ってストリーミングをしめくくった。
――いや、しめくくろうとした。
彼は知らなかったのだ。
このストリーミングという魔術をもたらしたトマーシュという男が、彼をだましたウミヘビたち――つまり自分たちクーデター側の人間へ、強い敵意をいだいていたことを。
彼が一計を講じ、この配信にささやかな抜け穴を用意していたことを。
そして彼はバックドアという名の脆弱性を用意して、そこにアクセスできるであろう者の到来を待っていたことも。
「――こちらこそありがとう、スラヴコ。素敵な宣戦布告だった」
スラヴコの言葉へ応えるように、ひとりの女の声がした。
それは青色を感じさせる、よく澄んだ声だった。




