笑うウミヘビ 14
ダンジョンの多いこの国のご多分にもれず、トリグラウ城の地下にもダンジョンがある。ただの地下牢というには広大だけれど、宝守迷宮というには小規模な場所だ。害獣のたぐいが出るわけでもないから、倉庫であったり兵の詰め所であったりと、便利な地下スペースとして活用されていた。
そこへ赤黒い色をした男が、足音を立てて歩いていた。太い腕や広い背中へわずかに蒸気を立てながら。
謁見の間のひとつを吹き飛ばした張本人、傀儡のトマーシュだ。両手をだらりと下げ、猫背で歩く彼は、瘴気と形容して構わないほどの強い気配をまといながら、ランプに照らされた石造りの空間を進む。後悔、悲しみ、そして絶望なんかの負の感情をたっぷりとたずさえているのだ。
彼の歩みに、地下室特有のくぐもった空気は渦を巻き、悪感情とまざって黒いマーブル模様を描いた。それが彼の歩いた後に延々と連なっていたから、時々すれ違う傭兵は息を止め、そそくさと道をあける。異形といって差し支えない彼の皮膚に触れでもしたら、同じモノになり果ててしまうかもしれないと思ったから。
(アア、ソンナメデ、ミナイデクレ……)
他人は自分を映す鏡だというけれど、これほどまでにまざまざとその言葉を実感するとは。彼らの目には屠殺場のような色彩の男が映っていて、不都合な現実から目をそらすような感覚でいるのだろうと強く感じた。その苦悩たるや、鏡を怖いと感じるほど。もし鏡面に立つ自分が目に入ってきた時、はたして狂わずにいられるのだろうか。
と、コツン。彼は歩みを止めた。そこは牢屋のひとつであり、わりあいに広い空間としっかりしたベッド、板で仕切られた便所が用意されている部屋の前だった。
(ダレカイルノカ?)
近くに気配を感じたから、彼は電池が切れかかったおもちゃの人形のように、ぎこちなく首をまわす。牢屋の手前側、壁に背をあずけて座っていたのは、桃色の髪をしたひとりの少女。この世に似つかわしくない派手な衣装を身にまとい、膝をかかえて悲し気に下をむいていた。
ああしまったな、とトマーシュは思った。こんなところで足を止めたら、彼女がこちらを見るに決まっているのだ。そして顔へ恐怖をうかべ、もしかしたら悲鳴を上げるかもしれない。そんな姿を見たのなら自己嫌悪感によって、胸に穴が開くほど深くするどく心臓をえぐられるだろう。
案の定、彼女は顔を上げ、そして目を丸くした。驚愕を意味する表情だ。だから赤黒い化け物は、自己防衛のために目線をそらす。すぐに悲鳴が聞こえるだろうから、いっそのこと耳もふさいでしまいたかった。
けれど1秒、2秒、3秒たっても、叫び声は聞こえてこない。それどころか足早に去ろうとした自分へ、思いがけない声がする。
「あ、あなたも魔王にやられたの?」
虚を衝かれ、トマーシュは歩き出すのをやめた。今なんと言った? この外見を怖がらないのか? そんな疑問が瞬時に湧いた。
同時に、ほんの少しの明るさを視界の隅に見つけた気もしたのだ。今の自分へ話しかけてくる連中など忌々しいウミヘビとその子飼いの勇者しかいなかった。しかし牢へとらわれている彼女は、きっとそういう存在ではない。であるならば、この姿になってはじめて『人類』として認識されているのかもしれない。
目線を戻したトマーシュへ、その女は疑問を投げた。
「ド、ドヴェルグル、だよね?」
(ドヴェルグル? アア。チカニスム、シュゾクカ)
ドワーフとは似て非なる種族、ドヴェルグル。黒い肌と高い鍛冶の腕、日光に当たると死んでしまうという生態を持つ、この世の種族のひとつだ。
いいや違う、と口に出せなかったから、ゆっくりと首を振った。「そ、そうなんだ」なんて相づちを入れた彼女は、どうやらこちらのことを恐れていない。むしろこの牢獄で(いじわるな衛兵以外に)会話できる存在を見つけ、興味を惹かれているようなそぶりだ。
「ねえ、外の状況はどうなっているの? 私はこれからどうなるんだろう? あなたたちは魔王の敵なんだよね? 私はいつまでここに閉じこめられているの?」
そこまで話を聞いて、トマーシュはようやく彼女が誰だか理解した。彼女はアムという名の夢魔だ。魔王に捕らえられ、その後城の所有権が自分たちに移行した後も、使い道がないとされてそのままにされているのだ。
口が開けないから、どうにも反応しづらい状況。しかし久方ぶりにあらわれた世話話――といっても彼女にとってはそうでないだろうが――を無視できないほどには、人とのふれあいに飢えていた。だから体を彼女のほうにむけ、やはりゆっくりと顔を振る。「俺は魔王の敵かどうかわからない」ことと、「君がどうなるか俺にもわからない」ことが、なんとか伝わればいいなと思って。
「……そっか」、なんとなく通じたのだろう。アムは残念そうに肩を落とした。「それじゃ、グリーシャとレインのことも知らないよね?」、追加の質問にも首を振るのみ。悲しそうな表情を見おろすことしかできないのだから。
彼女は口の中でなにかをつぶやいていた。そっと聞き耳を立てていると、先ほど彼女が口にしたふたりの名前――グリーシャとレインのことを心配している様子だった。大切な存在なのだろう。ただ、この現状でそのふたりが生きているかどうかはあやしいところだ。牢獄に囚われるような立場の者が心配する相手とは、すなわち同じように囚われる危険性を持つものだろうから。
会ったこともない人物たちの現在に思いをめぐらせていると、アムはふたたび顔を上げる。そして自分の胸元をぎゅっとにぎりながら、苦しそうな表情で言うのだ。「ねぇ、お兄さん。私はアムっていうの。勝手なお願いを勝手に言うね。グリーシャとレインのふたりを見つけたら教えてほしいな。大切な仲間だったんだ」
(タイセツナ……)
そういう存在は自分にもいる。もういちど手をつなぎたいと強く願っている。けれどその人のことを思うたびに、「もう会えないかも」という予感が胸の奥から湧いてきてしまうのだ。
彼女にとってはグリーシャとレインというふたりが、今まさにそうなろうとしているのだろう。だから苦しそうな顔をしているのだ。
自分と同じ悩みを持つこの夢魔が、トマーシュには異世界にきてはじめて心を通わせた者に思えた。
(イイダロウ)
コクリとうなずく。とたん、夢魔は頬を不器用にゆるませながら、動画のタイムラプスに出てくる花のように、目をぱぁっと開いた。こんなにおおきな変化をみせる瞳なんて見たことなかったから、ついつい視線をそこに固定してしまった。
その時、傀儡の男はふと気づいたのだ。アムのおおきな目に映りこんだ自分の姿に。
変色した体、血涙のあとが残るひび割れたほほ、返り血だらけの皮鎧。でもその姿が彼女の目にうつり続けているということは、つまりその姿は目をそらすほどひどくないと思ってくれているからだ。そこに映る男は拍子抜けした表情までうかべて、まるで人間としての顔つきを取り戻したかのようにすら思えた。
(ワタシハ、マダ、ヒトノココロガアルンダ)
そんなこと自分が一番知っていただろうに。
彼はゆっくりと鉄格子から離れた。いつまでもここにいたいところだが、忌々しい傀儡師から動くよう指示があったのだ。
夢魔から視線を外す直前、もういちどだけうなずいてみせる。
その目はほんの少しだけ、地球のように青く光った。




