笑うウミヘビ 9
日付が8月9日へ変わって3時間。まだまだ夜明けが遠い時間帯。
イーダは駆けるフェンリル狼の背中にいた。すさまじい勢いで風景がすっ飛んでいって、岩場も森も川もみんな同じに見えるほど。あまりの速度に、移動するはずのない月と星々まで自分たちへ近づいているような気すらしていた。
当然ながらシニッカとリリャ、アイノも一緒だ。ダンジョンから出て食事をすませ、仮眠を取ること3時間あまり。ふいに起床した魔王様は「今すぐ移動を開始しましょう」なんて言い出した。「もう少し休めよ」と反論するバルテリだったが、シニッカは「命令よ」と言って聞かない。結局渋々それに了解の意志を見せて、移動を開始したのだ。
で、その当の本人はというと……寝ている。座席の上で毛布にくるまり、それはもう、ぐっすりと。
イーダはあきれた口調で言った。「シニッカは憎らしいほどよく眠るよね。スヴァーヴニルは自分を眠らせるのがうまいよ、本当」
「魔王様の特技のひとつだからな。だが今はそれで正しいさ。イーダ、お前さんも携帯糧食でもなんでも無理に腹に入れて、とっとと寝ちまったほうがいいぜ。乗り心地は悪かないだろ?」
「それはそうだけど、いろいろ考えちゃって。今、王都では戦いが起こっているかもしれないし、そうなるとサカリたちが心配だから」
「あいつらなら楽しんでいるさ。他人が積み上げた砂の城を壊すのなんて、魔族の好物に違いないんだからな」
そうかもね、と相づちを入れて、イーダは座席へ深く腰かけ直した。自分の分の毛布もかぶり直し、ついでに荷物入れから適当な布切れまで取り出して首へと巻いた。「妖怪布毛布」という日本語表記をしたら目が混乱しそうな存在になり果てた魔女は、その状態のまま食事をとる。硬いだけのビスケット、味の落ちた干し肉、乾燥させた豆のスナックを次々に口へ放りこみ、最後にドクが作った出所のわからない植物の飲料で胃へ流しこむのだ。緊急事態のさ中という状況にあっても、なお不満しか残らない食事だった。3つ星のうち、ひとつも上げたくないくらいには。
布を口元まで覆い直し、魔女は帽子を深くかぶる。心臓の鼓動にあわせてズキズキと痛む額の傷が、ドクの飲み物の効果なのか、少しずつ脈動を弱めていった。
(グリゴリーさんとレインさんは死んだ。メスト・ペムブレードーではサカリたちが戦っている。私たちはまだ移動中で、状況に対して無力だ。なんか心が焦りでいっぱいになりそう)
先ほど仮眠を取った時は疲労困憊だったから、あっという間に眠りへ落ちた。今はそれも回復しつつあって、ゆえに眠られそうにないと感じてしまう。
(気持ちを整頓したいな。……そうだ、ひとつずつ考えよう。まずはグリゴリーさんたちのことを、ちゃんと悼まないと)
もそもそ、毛布の下で手を組んだ。ふたりを思い出しながら、目をゆっくり閉じる。不器用に笑う勇者と夢魔の顔が、ぼやっと視界に浮かんできた。少々の懐旧の念とともに。
この感情なら、一時敵対した自分にも、彼らのために祈る資格があるだろう。
「世界樹におわす、神様と天使様たちへ。日々の守護に感謝いたします。体と言葉、知識に知恵、友人と魔法を授けてくれたことにも感謝いたします。あなた様たちがなしてくれたことへ、我が信仰心をささげます。願わくは昨日の敵であり、今日の仲間であったグリゴリーさんとレインさんのふたりが、あなた様の元で永遠の安寧をあたえられますよう。イーダ・ハルコ、トリグラヴィア王国を走るフェンリル狼の背中より」
魔女はそのまま余韻に浸った。お祈りの後のささやかな時間。心を静める、あるいは鎮めるために必要な精神の空白期間。
(もしグリゴリーさんたちと完全に和解できていたのなら、どんな関係になっただろう? 魔界へ敵対することを他の勇者へ「ばかばかしい」なんて諭してくれたのかな? それとも私たちとはまったく関係のない人生を、同じ世界のどこかで楽しくすごせたのかも)
歴史に「if」がないように、彼らの死にも「if」はない。けれど「幸せな結末だってありえたのかも」と思わずにはいられないのだ。拳を交えた相手が仲間になってくれるなんていう少年漫画みたいな展開。誰しもが胸を熱くする、大好きなお話。それが今一歩のところまできていたと実感したら、無駄とわかっていても想像の翼をのばしてしまう。
一方で、イーダはひどく落ちこんでいるわけでも、ウミヘビへ抑えがたい激しい怒りを感じているわけでもない。最高の結果からはかけ離れた勇者と夢魔の結末に対して、「完璧ではないけれど前に進めたのだ」という一種の達成感を得ていた。自分たちの最大の目標は彼らとの戦いに勝つことと、こちら側に致命的な被害を出さないことだったから。
(ちょっと冷酷になってきたのかも。でも、今の私は彼らの悲劇に対し、他にどんな姿勢で望んだらいいかわからない)
とある日にシニッカから「友人としての」アドバイスを受けたことを思い出す。魔術の知識とか歴史とかを完璧に覚えようとする自分に対し、「成長したいなら完璧主義は捨てなさい」なんて言ってくれたのだ。すべてを完璧にこなすことなんてできないから、楽しさと意欲を失わないように勉強するべきだと。
今回もそういうことなのかもしれない。全員を助けられればパーフェクトだった。でもそれは非常に難度が高くて、グリゴリーたちと別行動を取った時点で達成不可能になっていたのではないか。
(完璧を望まなかったからこそ、無事ダンジョンから出られたのかもしれないな。……もしかして敵も、そういう考えのもとで行動していたりするのかな?)
ちょっとした思考の飛躍があった。さっきまで果実をついばんでいた小鳥が、枝の先に虫を見つけて飛びかかるように。一見落ち着きのないこの思考パターンは、イーダ・ハルコという魔女の習性といえる。
(相手はずいぶん事を急いているような印象もある。でもそれって、私たちの自由な時間をけずっているのも事実だ。前にシニッカは「領土を奪いたいなら、既成事実を作ってしまえ」みたいなことを言っていたな。ウミヘビの狙いはまさにそれか)
眠る魔王様に視線をうつした。このくらいのことシニッカもバルテリも理解した上で行動しているに違いない。私はまだまだ未熟者なのかもなぁ、そう思っていると、魔王の青い前髪のすきまへぱちりと青い目が開く。ついでに唇が、舌でぺろりとなめられた。
「ヘルミはなんとかうまくやったみたいね。片腕を失うかわりに、傭兵隊を数時間行動不能にさせて、ついでにウミヘビの猛毒を入手してみせたそうよ。攻撃にして1回分。これは敵勇者に対する強力な牽制になるわ」
前触れなしにしゃべり出した魔王へ、魔女も狼も驚いた。夢魔は「なんスか?」と目をこすり、また眠る。潜水艦は……意識を浮上させる気配もない。
「おはようシニッカ。それはたしかな情報なの?」
「スヴァーヴニルが言ったのだから、もちろんよ。メスト・ペムブレードーに残っている夢魔に配信をさせているの。つまりストリーミング経由で情報を入手したというわけ」
「そ、そういう手段があったか……。あれ? ストリーミングの機能は復旧しているってこと?」
「ええ、割と早い段階に回復したらしいわ。なら使えるものは使わなきゃ。相手ばっかり私たちのことを監視しているのは我慢ならないもの」
「洞窟を出てからも監視の目はあったぜ。ただ、今は視線を感じない。俺の脚にはついてこられないだろうから当然だが」
魔女は自分が寝ている間に、いくつか状況の進展があったことを知る。仲間たちへ頭が下がる思いになった。「私だって!」と張り合って、自分にできることをついつい探してしまいそう。けれどそういうタイミングではなさそうなので、まずは気になることを聞く。「ヘルミのことは心配だけど、他に情報はある?」
「悪い知らせといい知らせがあるけれど、どちらからにする?」
久々の言いぐさ。こういう時は最初に提示されたほうから聞くのがルールというものだ。「じゃ、悪い知らせから」
「敵も行動を開始したわ。街の数か所で火の手が上がっているみたい。きっと陽動のためでしょうね。スラヴコは敵についた。ヤネス2世を守る兵力は多くないわ。敵勇者はひとりでなくふたり。スースラングスハイムの勇者ディランに、トリグラヴィア王国の勇者トマーシュ。どうやら後者は前者に操られているらしいわ。となるとディランは『人を操る能力』を持っているのでしょう」
「勇者がふたりだと? なかなか厳しい状況じゃねぇか。こっちの味方は増えたのか?」
「今のは合流したドクから得た情報よ。けれど謁見の間にあった悪魔召喚の魔法陣はトマーシュによって破壊されたって。イヴェルセンのことだから、私たちのことを『さながら袋の中のネズミだな』なんて言っていると思う。蛇だというのに、失礼しちゃうわ」
「私たちは敵の国に近い場所にあって、敵に囲まれているような状態だね。ヘルミは負傷、ドクは戦えない、魚雷は品切れ、勇者はいつもの倍の数。バルテリの言うとおり厳しい状況だよ」
あえて口にしてみると、現状はめまいしそうなくらいに悪いとわかる。自分たちがメスト・ペムブレードーに到着する前に、ヤネス2世が降参して王位をスラヴコへゆずることすらあるのかもしれないのだ。
「だからヤネスに国外への避難を進めたのに、あいつときたら断るんだもの。言わんこっちゃないわ」
「やつにもやつの矜持ってもんがあろうさ。ま、いいじゃねぇか。これで4大魔獣とドクター、魔女と魔王が勢ぞろいってわけだ」
バルテリの言うとおり、たしかに状況が悪い反面、ヴィヘリャ・コカーリがこれだけ戦場に集まるのも珍しい。イーダは「こちらはこちらで豪華さにめまいしそうだな」と感じた。街にはサカリも残っているし、到着まで時間はかかるけど自分たちだって回復しつつある。
魔女は自分も戦力にふくまれているのだと自負しながら、お決まりの質問を魔王へ放った。「状況は去年のクリスマスイブくらいには悪いってことだね。そして同じくらいにぎやかなんだ。ところで、いいほうのニュースは?」
問いに魔王はにこりと笑う。そしてすました顔をして言うのだ。
「それを考える時間が、たっぷり数時間もあるということね」
魔女には理解できた。シニッカは投げやりな思考でそんなことを言ったのではない。これは「いいニュースは我々が作る」という意味なのだ。
そこには「サカリとドクがなにか対策をしているだろう」とか「負けてやるつもりはない」とか、危機に対する反骨精神が見て取れていた。あわせて強い自負の心も。
「いいね、燃えてきたよ」、当然のように魔女もその空気へ乗った。「今回の騒動の情報がカールメヤルヴィに到着したころには、ちゃんとカッコいいジョークになっていると思うんだよね」
「へぇ、そいつは興味深いな。どんな内容にしてやろうと思っているんだ?」
「悪いニュースといいニュースがある。悪いのは魔王様たちがふたりもの勇者と大勢の敵に囲まれ、ピンチに陥ったことだ」
「いいニュースは?」
「敵へ『袋の中のネズミはどっちだったか』という概念を、『一網打尽』という言葉であらわせると知らしめたことだ」
「ははは! そりゃあいい! ぜひそうしてやろうじゃねぇか!」
「あはは! その言葉は、私の今年一番のお気に入りになりそうだわ」
ヴァイキングたちの影響だろうか。「敵がまとまっているならちょうどいい。まとめてぶっ飛ばしてやる」と頭の中まで筋肉な思考が魔女の頭に発生した。戦意で編んだ筋繊維だ。脳まで筋肉痛になりかねない。
だから今は休息という名のプロテインを摂取し、戦いへそなえることを選ぶことに。
「ともかく私たちは休ませてもらうね。バルテリ、無理をさせてごめん」
「いいさ、気にするな。敵へせまる軍靴の響きを奏でられるなら、悪い役割じゃねぇよ」
「あなたはフェンリル狼、天の太陽を追うのは得意だものね。イヴェルセンもウミヘビ座まで牙をのばしてくるなんて思わないでしょう」
ふふふ、魔王と顔を見合わせて笑った魔女は、座席にゆったりと身をあずけた。
すぐに睡魔があらわれて「いい子はお休みするんですよ? 起きたら悪いことをするためにね」とささやいた。




