笑うウミヘビ 6
ヒュドラーの毒に侵された腕を、ヴィルヘルミーナは切り飛ばした。そんな彼女にかけられたのは、勇者の驚嘆したような声。
「いや、すごいね君。自分の体って、そんなに迷いなく切断できるものかい? 正直ちょっと戦慄してる。これは念入りに殺さないと」
「お褒めいただき光栄ですよ。迷いなく致命の一撃を放てるあなたのことを、私も念入りに踏みつぶそうと思います」
(とはいっても、劣勢に違いありませんね)
相手は勇者だ。正面から戦ったところで勝ち目などない。次の一撃が体をかすめただけでも、それは死に直結する重傷になってしまうのだから。
くわえて、相手が使ったのは国家守護獣の力を利用した攻撃だろう。相手はヒュドラーの国家守護獣を持つのだし、非常に強力な力ながらバグモザイクを生み出さなかったのがその証拠だ。そうなると燃費がいい危険性もある。少なくとも彼に疲労の色は見えない。
どうやら今回の勇者は、この世の仕組みをよく理解している様子だった。もっとも、ギリシャ神話の登場人物へ北欧神話の文化であるケニングを適用するのは、詩人に不評を買うだろうが。
(いえいえ、そんなことを考えている場合ではありませんね。さぁ、逃げる算段をととのえなくては)
ヴィルヘルミーナの美点はあきらめのよさにあった。かなわないと判断すれば、誇りとか戦意とかといった逃走の足かせなどゴミのように捨てられるのだ。20年あまりの人生で勇者の前に立つことはなんどもあったが、「強敵には背をむけてもいい」という戦乙女らしからぬ信条のおかげでなんども命拾いしていた。
だから、そういう劣勢というシチュエーションに対するそなえも万全だ。たとえば援軍を用意しておくことなど。
空高く、夜闇にまぎれる2羽の影。それは翼をたたんで急降下していた。先ほど勇者が放った火球にも劣らない速度で、しかし火球のように目立つ軌跡は残さないで、勇者へ襲いかかったのだ。
「――<剣よあれ>」
「⁉︎ おっと!」
巻き起こる刃の旋風。勇者を中心として、空気と大地をズタズタに。引き裂かれたそれらが空中で攪拌されて、積乱雲のような土煙を作った。
フギン・ムニンの襲撃だ。ヴィルヘルミーナはここにくる前、彼に援護をお願いしていた。ヴィヘリャ・コカーリでは諜報の役割を持つがゆえ、戦闘能力を当てにされることが少ない彼も、冒険者でいうなら最上級クラスを殴殺できるくらいには強い。
それをもってしても、勇者を傷つけることなどできそうにはないが。
逃げるのならこのタイミングでもよいだろう。敵は視界を奪われている。サカリをひとり残す心配も不要。彼は空を飛んで単独離脱できる。
けれどその場合、追撃を受けるのは自分だ。この世の強者たる勇者様のこと、足も速いに決まっている。無事に逃走できるかどうかも微妙なところ。
だから「さて」、ヴァルキュラはひとつつぶやき、口へ斧の柄をガブッとくわえた。あいた右手を腰の後ろへまわし、まずは小物入れから魔石をひとつ取り出して、勇者と逆の方向へ力いっぱい投げ捨てる。騎乗や旅の意味を持つᚱは、緊急避難のためのもの。
次に小物入れのとなりへ結わえられていた角杯を手に取った。いや、正確には角で作られた物ではなく、竜の牙を加工した物だ。金属の蓋を開けてのぞきこむと、杯の底に8面体の魔石が固定されている。そこから全体へのびるように赤い溝が彫られており、知っている者が見たら「この杯は魔法具だ」とすぐに気づくだろう。
(さ、やりましょうか)
角杯を胸甲のベルトに差し直し、口元から斧を放した。パシッと握りしめるやいなや、大角鹿のように残骸の影から飛び出て、勇者の元へと一直線に駆ける。
(撤退における最上策は、敵へ「こいつはまだ戦えるな」と警戒心を持ってもらうこと)
ひとつたくらみごとをしながら戦乙女は大地を蹴った。視界を奪われた勇者まで、ほんの数秒の距離だった。
えいやとばかりに、斧を投げこむ。それが煙の中に吸いこまれると同時、カラスは斬撃をやめて急上昇した。防御の姿勢を取っていた勇者は、そのまま両腕で投射攻撃を受ける。ガィンと鈍い音がして、斧はくるくると宙へ弾かれた。
それを目で追いもせず、勇者は交差させた腕のむこうでニコリと笑う。彼にとっては反撃のチャンス。余分な言葉も捨て置いて、せまる女へ片手をかざした。
「<猛毒の矢よ敵を穿て>!」
「――<ᚾ、杯よあれ>!」
ふたたびジャッ! 空気を裂く音。刹那にのびる暗緑色の毒牙。それは戦乙女の胸の中心を正確に射抜く――かと思われた。
しかし彼女の眼前で、毒の軌跡は杯へと曲がる。まるでそこに道がある――線路を走るトロッコがカーブに差し掛かったかのように、致命の魔法は牙の加工品へと吸いこまれていったのだ。
それは今年のはじめ、パハンカンガスで退治された毒竜から回収したもの。バルテリとアイノたちが討伐にむかい、その時に取ってきていた牙を、ドクが魔法具へと加工したものだ。
だから「不足」をあらわすᚾのルーンは、その毒牙へ毒を欲した。ちょうどよく飛んできた、ヒュドラーの猛毒を。
(目論見どおり!)
ズズ……、スープをすするような音を残し、必殺の一撃は消えた。一滴残らず、杯を満たすために吸われたのだ。
「ええっ⁉︎」、驚く勇者の至近距離。戦乙女は口の中にリンゴの味を感じていた。それをぺろりと舌でぬぐって、使い慣れた言遊魔術をひとつ。
瞬時に巨獣になるために。
「――<獣化せよ>」
戦場へ響いたのは、野牛が崖から落ちた時のような、肉がぶつかる鈍い音だった。勇者はそれが自分の胸元から鳴ったのを聞いた。「ああ、くそ」なんて思う間もないまま、遠ざかる巨獣の姿。つまり自分は吹き飛ばされていて――さっきまで身を隠していた造りかけの厩舎へ逆戻りした。
自分の背中が土壁を砕いて、ついでに棚とか樽とかも粉々にして。最後にバキリと強い音。バラバラと降る残骸たち。それを浴びながら「痛ったいなぁ」とボヤいていると、クレーンまでもが倒れてきた。彼は残骸の中でサラダボウルのあわれな具材に。
「ああ、まったく!」、毒づいて腕に力をこめる。人の胴体ほどもある支柱を地面へと転がして、「なんだよ、もう」なんて頭を振った。髪に挟まった破片がパラパラ地面へ落ちたところを見ると、ずいぶん派手に衝突したらしい。
勇者ディランは顔を上げて、すぐに「はぁぁ」とため息をついてしまった。この先の展開は予想できていた。ウミヘビの猛毒をまんまと盗み取ったベヒーモスが、今からなにをするかなんてこと。
逃走に違いないのだ。
「あーあ、逃げられちゃった。いやぁ、嫌がらせに特化しているな、彼女らは。本当、油断もすきもあったもんじゃないよ」
すでに敵の姿は遠い。人の姿に戻った彼女は、もう駐屯地の壁の上にいる。あの速度は転移魔術でも使ったのだろう。
「スラヴコは守れたけど、傭兵隊は……立て直しに数時間はかかるな。しかも戦力半減しちゃっているし。うーん、初戦は彼女らの勝ちだね。お見事お見事。ちぇっ」
ディランはすねたように破片を蹴った。傭兵隊にはトリグラウ城へ攻めこむという役割があったのに、現状では立て直しても戦力の3分の1――100名ほどしか参加できないだろう。城の守備隊は勇者の力があれば問題にならないが、こと「占領」という行為には多数の人間が必要になる。だから人数を削がれてしまったことへ舌打ちもしたくなるし、時間稼ぎをされたことに対しても悔しい思いをするほかない。
けれど、これくらいのほうがいいのかもしれない。手ごわい敵は刺激的だし、なにより楽しいから。
それに勇者は自分以外にもいるのだ。
彼は口元をふっとゆるめ、手をそろりと懐へ。誰も見ていないだろうに、どこか道化のような、演技がかった仕草をするのだ。そうして取り出したのは、十字に加工された木の道具。長さ15センチくらい、幅3センチくらいの薄くて細長い小片を、交差させて真ん中で止めた形の物。びっしりと彫られた魔法の字――北欧ルーンで描かれた文字列は「ᚦᚼ᛬ᚠᚱᛁᛁᛏᚢᛉ᛬ᛁᛋ᛬ᛁᚾ᛬ᛉᚼ᛬ᚼᛅᚾᛏᛋ」。すなわち「汝が自由は我が手にありし」。
だからこれは魔法具で、一種のからくりで、つまり糸繰り人形の操作盤だった。
「さ、出番だよ、トマーシュ」
勇者はそれを握りしめ、黒くよどんだ魔力を流す。パキキ、彼を中心に円状のバグモザイクが地面へと浮かび、即席の演劇台を形成した。操作盤からぶら下がるのは、闇夜のような糸が4本。それは遠くにいるもうひとりの勇者の四肢へ、ぐずり、とからみついていた。
その感覚を両手の指に感じながら、彼は端的に操り人形へ指令を下す。
「トリグラウ城にある、悪魔召喚の魔法陣を破壊しろ」と。




