笑うウミヘビ 5
イーダ・ハルコがいる魔界には、残酷なことを好きな人が多い。でも魔族がおしなべて残酷さを表に出すかというとそんなことはなくて、ほとんどの人が口内にうろ暗い喜びの蜜を隠しているのだ。人当たりのよいクリッパー、オドオドしているノエル、どうも性格のよさそうな腐さんたちや、個性豊かな骨さんたち。オートマタに感情があるかわからないけれど。
そんなカールエヤルヴィにおいて、魔女が「あ、この人はちょっとヤバイやつだ」とひそかに思っている人物がいた。緑の皮のベヒーモスこと、ヴィルヘルミーナ・オジャ辺境伯だ。
仲間にむける表情はやさしく、やわらかく、温かいもの。時々いたずらすることもあるが、普段の思慮深い彼女を知っている魔女はすぐに「しょうがないなぁ」と許してしまう。なのに戦乙女の顔を見せた時の彼女は、いかにも魔族の戦士といった振る舞いをする。敵を傷つける時、口の中へリンゴのような蜜をためてみたり、勇者をだますためだけに全力を傾けてみたり。
そしてたとえば蹴散らせるほど弱い相手がいたのなら、彼女は嬉々として実行するのだ。前回はプラドリコでの亜人狩り、今回はメスト・ペムブレードーでの傭兵狩り、と。
だから彼女は魔女の見ていないところでも、かように振る舞うことになる。
――ドガッシャァ! 鎧と中身がちぎれて飛んだ。数名の兵士だったものの残骸が、地上へボタボタ落ちてくる。駐屯地にある広場は夜でもわかるくらい真っ赤に舗装されていて、その中央で緑の巨獣が大口開けて咆えていた。
「さあさあ、みなさん。ヴァルキュラたる私が戦死者の館へとご案内します。武器を持って、盾を構えてください。あなたたちには、きたるラグナレクにそなえて毎日死闘を繰り広げる未来へご案内しますゆえ」
「な、なんだっ⁉︎ どうしたんだ⁉︎」「な……ベ、ベヒーモスじゃないの!」「――敵の襲撃だ! 全員武器を取れ!」
混乱する傭兵たちへ、戦乙女は子猫でも見つけたかのように目を細める。そして彼らの中に巨躯を再突入させた。いくつもの命がズタズタに引き裂かれ、赤い残滓を宙へまき散らす。
「我は魚にあらず」と獣化した彼女にふさわしいとはいえないが、水を得た魚とはまさにこのこと。お気に入りの湖で沐浴をする時よりもずっと楽しそうに、ヴィルヘルミーナは血浴にふけっているのだ。殺した数はすでに50を上まわる。総員300に対して6分の1に達したのだから、もう1巡これを繰り返せば傭兵団へ全滅判定を食らわせられる。
(まったく、私は本当に度し難いですね)
心で思うも口には笑みが。魔界という「悪」にほど近い場所で受肉できたことは、彼女にとって至高の喜びになっていた。どうせ転生者からしてみれば勇者の敵は悪と決まっているのだから、「悪人」という役割を演じている役得すら手にできる。世界から――ひいては神からあたえられたこの世での役を、喜びとともにこなせるのだ。
魔獣とはこういうものだ、と。
(さて、そろそろスラヴコが見つかってもいい頃合いですが……)
果敢にも突撃してきた数名を太い脚で蹴り飛ばしながら、ベヒーモスは周囲をうかがった。駐屯地は蜂の巣をつついたように喧騒に満ちていて、もしここに聞き耳の得意なアイノがいたとしても、スラヴコの足音を特定することは簡単じゃない。ゆえにおおきな目をぎょろりとさせて観察するのだ。ただ、しばしば恐怖におののく兵士と目が合ってしまうたび、愉悦を味わってしまうのはいたしかたなし。ちょっとしたご愛敬なのだと、反省するそぶりもなし。
とはいえ混乱状態の相手は、この危機の中でじっとしていることなどできないに違いないから、遅からず姿を見られるだろう。
(……! 見つけた!)
しばしの後、彼女は発見した。造りかけの厩舎の影、数名の兵士に守られた男を。身にまとうのは王家の紋章が入ったフードつきローブ。あれは王族にしか着ることが許されないものだ。
距離は50メートル程度。巨躯を生かし走って行けば、ものの数秒で到達できる場所。
巨獣は砂煙と騒音とを立てながら、その場所へ一直線にせまった。逃げる背中へ「さて、どうやって捕らえましょうか」と舌なめずりをしながらだ。兵士の数は十分に減らせたから、ひとつ目の目標はクリアしたといっていい。ならばボーナスを得て帰還するのがもっとも満足できる結果になる。
護衛の一部が振り返り、足止めのために魔術を放った。人なら致命傷になるだろう炎の矢だったが、ベヒーモスの皮膚を焼くにはまったく足りない。顔面へ着弾した魔術は、ヴィルヘルミーナの視界をほんの一瞬奪っただけに終わる。炎の残滓をまといながら、彼女は護衛たちを石ころのように弾き飛ばした。
恐怖を感じたか、追われていた男は振り返る。フードが脱げると、自身の死を予感したように目を見開く表情が見えた。短い茶髪に黒の瞳、蝋人形のように白い肌。
それは事前に聞いていた目標の容姿と……あきらかに違っていた。
(――スラヴコじゃない⁉︎)
この男はまごうことなき影武者だ。同時に、ヴィルヘルミーナは自分が特大の落とし穴に引っかかった気持ちになった。なぜなら建物の影――自分を狙うのに絶好の位置から、強い魔力を感じたから。
「――<ᛒ,ᚩᛁᛖ:ᛣᛁᛚᛈᛁ>!」、とっさに魔獣は緑の盾を構える。
「<猛毒の矢よ敵を穿て>」、対する勇者は毒矢を放つ。
ジャッ! 空気を切り裂く音がした。この世で最強の防具目がけて、暗緑色の光跡がのびる。夜空へ尾を引く隕石の火球ように不気味で不吉な軌跡を残して。
魔法盾の表面へ到達したその矢じりは「最強の盾」という肩書と、「矛より盾が強い」という世界律をあざ笑うかのように、パァン! 音を上げて突破を果たす。頭部を狙った軌道こそずれたものの、魔獣の左前脚へ炸裂し、そこへ穴を開けた。
「っ⁉︎」、さすがのベヒーモスもこれにはひるんだ。一瞬で霧散した大盾に、被弾個所の強烈な痛みに。そしてこれだけの攻撃だったにもかかわらず、バグモザイクが発生していない現状に。
(これは!)
そうやってひるむ反面、戦乙女の彼女は敵の詠唱を聞き逃さない。「ケイローンの災厄」とは、つまりヒュドラーの毒が塗られた矢のこと。それが自分の前脚へと突き刺さったのだから、一刻も早く処置しなければ、死ぬまで激痛にさいなまれることとなる。
映像がコマ落ちでもしたかのように、一瞬で巨獣は姿を消した。人の身に戻ったヴィルヘルミーナは、迷いなく右手を腰の斧へのばす。抜くが早いか、ドシッ! 左腕のひじから先を切り落とした。
すかさず「<ᚳ>!」と、たいまつのルーンを押印行使。切断面がジュゥっと焼ける。同時に近場の物陰へ飛びずさる。追撃がないことを確認すると、口からふぅぅと長く息を吐いた。
(毒は……まわっていないでしょうか?)
自分の体をうかがった。致命傷は避けられただろうか。痛みも「この世の終わり」というほどではなかったから、すぐに自分がヘーラクレースのように星座へならないですんだと胸をなでおろす。
でも戦いはまだ続きそう。どうやって戦おうか、そう考えているヴィルヘルミーナへ、身を隠したがれきのむこうから男――勇者の声が聞こえてきた。




