笑うウミヘビ 4
前門の虎、後門の狼。意味するところは目の前にはミミック、後ろには異形と化したグリゴリー、そしてレイン。
「どうやって殺されてしまったのかしら。冥府で食事をした、なんてうかつなことなかったと思いたいけれど」
魔王がつぶやく言葉の先、そこには赤黒く変色した2体のモンスターがいた。すでに勇者と夢魔という外見は失われていて、背丈は2メートルを超えるほど。背丈に頑強そうな体はトロルのようでもある。
ガーゴイルと同じようにするどい爪と牙をむき出しにして、低い声でうなりを上げていた。
「さながらヘルの館にいる、ヘルの下男とヘルの下女ね。空腹の皿と飢えのナイフで、私たちを食べる気かしら?」
そんな皮肉も、モンスターには届いていなかった。すでに人だったころの面影などどこにもない。2体の獣は裂けた口へよだれをたらし、今にも飛びかからんと姿勢を低くする。
しかし、先に動いたのは魔王だ。
スルリと地面を這った彼女は、両の槍を翼のように構えた。瞬間――ザシュッ! 2体の獣の顔面へ、するどい穂先を突き入れる。
バッと鮮血が宙に舞い、ふたつの悲鳴が通路に響いた。けれど魔王は手を休めない。ガングレト――レインだったものへすばやく駆けより、その胴体へ斬撃をふたつ。交差させた槍先が、胸に真っ赤なバツ印を描く。
直後「ガァッ!」、ガングラティ――元勇者の攻撃が、横なぎに彼女を襲った。丸太のように太い腕を、小枝のごとく振りまわして。それに魔王はひょいっと身を伏せ応じる。強い風圧がとおりすぎ、彼女の青い髪を草原のようにゆらした。
次の瞬間――飛びかかる蛇のような一撃。魔物の腹へと炸裂させる。蛇の牙を穿たれた魔物は、ヨロヨロと後退して壁へ背中をドンッとぶつけた。
2体の敵と少々距離があいたから、魔王はすらりと姿勢を正す。「私の言葉が届いているかわからないけれど」とひとこと前置きした上で、彼女は獣のむこうにいる者へ声をかけた。
「おいたがすぎるわ、イヴェルセン。せっかく不器用なふたりを気に入りかけていたのに、私から取り上げてしまうなんて。蛇がくわえた獲物へ手をのばしたのだから、私の牙があなたにむくことを覚悟なさいな」
返事など期待していないような口ぶりだった。が、赤黒い魔物はニヤリと笑い、そのおおきな口を開いて応じる。
「では魔王シニッカよ、すでにお前のお気に入りリストへ入って長い、魔女と夢魔をもいただこうか」
「あらあら、強欲なウミヘビさんね。――アイノ、回避に専念なさい。とりあえず私が止めるから」
潜水艦が返事をする前に、2体の獣は飛びかかる。魚を狙った投網のように、おおきな体を目いっぱいに広げて。それが青い髪の女を覆いつくさんとした瞬間「<ᚸ>――」、槍のルーンを放ちながら、彼女は2体の間を直線的に駆け抜けた。「<投げ紐よあれ>」、槍を投げ紐――スラング・ショットへと変質させる。
しゅるり、空気をなでながら、2匹の蛇は化け物の足へからみついた。
足を取られた魔物は勢いそのまま、ドカァッと床へ突っ伏した。床板が今にも割れそうな軋み音を立て、その上に打ちつけた顔面から出た赤い血がバシャッとこぼれる。ひらりと身を翻した魔王は、そのさまへ舌をチロチロ出し入れした。そして「<ᚠ, ᛏᛁᛚᚨᚱᛁᛞᛊ, ᚱᚨᚢᚾᛁᛃᚨᛉ>」と新たな槍を2本手にする。
彼女は両の槍を逆手に持って、ひらりと宙へ身を投げた。目指す先は、体を起こそうと両腕を床に着く元レインの魔物。
広い背中の真ん中目がけて、容赦なく槍を振りおろす。ズドッ! とにぶい音がして、それは魔物を串刺しにした。背中から入った2本の穂先が、腹の上で赤く光る。
しかし――
「あ、あら?」、槍を引き抜こうとした魔王は、それがピクリとも動かないことへ困惑したような声を出した。敵の背中に張りついたままの彼女は、立ち上がる相手につられて宙ぶらりんになる。
串刺しにされたガングレトが、自分の腹から飛び出た穂先を両手でつかんでいるのだ。絶対に放してやるものかという意思の元、魔王の動きを封じたのだ。
下女の魔物はニヤリと笑う。下男のほうへ背中をむけて。無防備をさらす魔王が片手を放して振り返ると、すでに岩石のような拳が振りおろされていた。
「<ᛒ,ᚩᛁᛖ:ᛣᛁᛚᛈᛁ>!」、とっさに緑の盾を張るものの、それごとバチン! と叩き落とされる。床板が勢いよく砕け、破片を周囲にまき散らした。
「痛った!」、顔をゆがめる魔王の瞳に、映りこんだのは次の拳。容赦も温情もない一撃がさく裂し、彼女は床と拳でサンドイッチに。それは金床と槌で鍛造される金属のよう。バキン、バキンとなんどもなんども、下男の鍛冶屋は魔王を薄く叩きのばしていった。
最後にとどめといわんばかりに、下男は相手の頭へ目いっぱい腕を振りおろす。そして叩きつけた拳をそのままに、グリグリ念入りにねじるのだ。くぼんだ床へと憎い女を埋めてしまい、ここをそいつの墓にするため。
そうやってひとしきり相手を痛ぶった元勇者は、相手の死に顔をじっくり見ることに決めた。拳をゆっくりと魔王の顔から放し、嘲笑とともにのぞきこむ。が――
「残念でした」、ペロリと舌を出す女。直後、右手にズキリとするどい痛み。
魔物はとっさに飛びずさり、痛む自分の右手を見た。指の根元がグツグツと泡だっている。腐った果実のように変色したそれは、すぐにポロリと落ちてしまった。
魔王はゆるゆる立ち上がり、パッパッと服を払いながら言う。
「私ね、飲んだ薬品を歯に忍ばせられるの。ポーションとか、毒薬とか。さっきのどが渇いた時に飲んだやつね。あまり活躍の機会がないけれど、久々に使えて嬉しいわ」
その言葉に、魔物は頭へ血が上るのを感じた。自分たちのたくらみを魔王がとっくに看破していたことに対して、怒りを感じたのだ。それだけではない。自分の攻撃が徒労に終わったことも、相方であるガングレトが深手を負っていることもある。なにより強い痛みに神経が過剰反応をしめし、「今すぐ残った左手を振りおろせ!」と命令しているのだ。
蚊でも叩きつぶすかのように、青い女へ拳を叩きつける。しかしそれは、えぐれた床をさらに傷めつけただけだった。すぐに両太ももがかぁっと熱くなる。股の下をくぐった魔王が、とおりがけに両脚を傷つけていったのだ。
ガクン、脚から力が抜けた。けれどあきらめることなどしない。いや、あきらめる必要もない。痛む右手を地面につけながら、思念を相方の下女へ飛ばした。「今すぐ突進しろ!」と。
盾となっていた魔王は、今自分の後ろにいるのだ。意識不明者2名をかかえる潜水艦は、今誰にも守られていない。
これはチャンスだ。またとない、絶好の機会なのだ。
そうやって下男が口の端を上げた、まさにその時――
「お終いっスよ!」、夢魔の声。それは下女のむこう側から聞こえた。そして「てぁやっ!」という魔女の声も。「<ᚼ、刃よあれ>!」、詠唱が続き、下女の巨躯がビクン! とけいれんする。
最悪だ。どうやら作戦は、完全に失敗しそうだ。
元勇者のガングラティの目に、元レインのガングレトが、あおむけにゆっくり倒れるのが見えた。どさぁっと大の字になった相方の胸の上には、膝立ちをする魔女の姿。その手は胸の傷口にのびている。さっき魔王につけられたバツ印の中心へ、縦に刀傷が1本追加された、痛々しいものへ。
元勇者は一瞬で理解した。バツへ傷を追加したのは片手の夢魔が手に持つ剣だ。その傷口を「ᚼ」のルーン文字に見立て、魔女は魔術を使ったのだ。
あの夢魔と魔女は気絶していなかった。少なくとも、直近で目を覚ましていたのだろう。そういえば潜水艦は「ふたりとも、もうちょっと待っていてね」などと言っていたが、あれは「もう少ししたら出番がある」という意味ではなかったか?
あっけにとられてしまった彼は、魔王の存在を忘れていた。股の下をとおりぬけ、自分の背後にまわった女を。
どさっと背中に飛び乗られた感覚。すぐに細い腕が口元にあらわれて――「<ᛚ、大水よあれ>」、耳元でささやかれた。手のひらからドバッと水が流れ出し、のどから食道へ、胃まで洗っていく。抵抗する間もないままに、致命の言葉がそこに続いた。
「<ᛁ,ᚪᛣᛏᛁᚠᚩᛁ>」
おおきく開いた魔物の口から内臓目がけて水の道を走るのは、氷結という現象だ。ああこれはまずいと、彼は思った。故郷ロシアは寒い国ゆえ、氷が命を簡単に奪える物質だと知っていたから。
水が氷になる時、体積は1割ほど増加する。だからブチリという音は、致命傷を告げるもの。
のど、食道、胃のたぐいが、内側からやぶれる音なのだ。
「ニヴルヘイムへお帰りなさい」という言葉が聞こえたのを最後に、ガングラティはうつ伏せに倒れる。ちょうどガングレトと重なるようになったのは、恋人同士だったことに対する皮肉だったかもしれない。そんなことを感じる間もないまま、グリゴリーとレインの命の残滓はこの世を去っていった。
「リリャ、それからイーダ。お見事よ。けれど大丈夫なの?」
魔王の問いかけへ先に答えたのは夢魔だ。「僕は大丈夫っスよ。あと1分くらイは」と、さっそく床へ座り息を切らしている。
「私も大丈夫」、魔女も肩で息をしていた。けれど夢魔と違って冗談めかそうとはしない。深刻な顔つきをしながら、彼女は2体の魔物の亡骸を見ていた。「彼らに比べれば、こんなの平気だから」
寝起きの運動としては少々刺激的にすぎたし、まだ体調もかんばしくない。でもそんなことよりも、グリーシャとレインという「せっかく敵から仲間にかわりそうだった人たち」の命が失われた事実に、呼吸が荒くなってしまう。
(お別れって、こんなあっけなくおとずれるものなんだ……。昨日はあんな、やる気に満ちた表情だったのに)
よろめきながら、元レインの上を離れた。あらためて彼女らの姿を見おろすと、人間だったころの面影なんて、もうどこにもない。ダンジョンが似合う恐ろしい魔物の姿へ変容していた。元々はダンジョンを攻略する側の者だったのにもかかわらず。
(この光景には、悪意がある。深い悪意が透けて見えてくる……)
倒したのは他でもない自分、けれどもそうしむけたのはウミヘビだ。私はまたしてもやつらの悪意の片棒をかつがされたのだと悔しくなって、下唇をぐぅっと噛んだ。
(ああ、悲しいな。悔しいな。生きていて欲しかった。救えるものなら救いたかった……)
それが誰であれ、人の死は心をかき乱す。それが近しい者であれば強く、そうでなければ弱く。グリゴリーとレインのふたりはその中間くらいにいた人たちで、ゆえに涙は出ずとも腹の底が悲しみで震えた。
彼女を現実に戻したのは、後ろから聞こえる戦いの音だった。バルテリのことをはっと思い出し、魔女はふりかえる。もう20メートルくらい離れた場所に彼はいて、扉のミミックをハンマーで押しこみ続けていた。
殴られ後退を続けるミミックは、防御のために食いしばった歯の多くを砕かれてしまっている。繰り返される乱暴な殴打に、ついにはダンジョンの出口まで追い詰められた。そこは傾斜の強い丘の中腹にあって、ゴツゴツとした石灰岩の岩肌がむき出しになっている場所だ。
「その白い歯も見飽きたぜ。そろそろお別れとしようじゃねぇか」、狼から容赦なく殴りつけられた魔物は、ついに洞窟から追い出された。だがこれで思いっきり口を開ける。最後の反撃とばかりに力を振り絞り、四角い体をグッと広げて、全力で噛みついてやろうとした。
その矢先、「<獣化せよ>」と死の宣告。外に出たのは狼も同じ。ならば大口を開けられるのも同じ。
――バチン! ミミックは体の一部を、開いた口ごと食いちぎられた。水瓶が落ちた時のようにバシャァと血が舞い、岩肌を赤くする。それはこのモンスターが生命活動をするにあたって、必要な機能をすっかり奪い取っていた。
口の中心に開いた目が、ぐるりと白目をむき出しにする。今まで擬態をしていた輪郭が土気色の一色になり、その寸胴のサンドワームのような全身をはじめてあらわにした。すぐに傾斜を転がり出して、岩肌でけずられながら滑落していく。
転がった巨体がナイフのようにとがった岩へ引っかかったのを見て、フェンリル狼はぐぅっとひとつのびをした。空はすっかり星空で、遠吠えをしたら気持ちよいだろうなと思いながら。
振り返って中をうかがう。魔王と潜水艦がノコギリを手に、下男と下女の片手を切り落としているところだった。「あれはあんまり食いたくねぇな」、そう思いながら夢魔と魔女を探す。彼女らは壁に背をあずけ、本調子でない体を休めようとしていた。
「こっちも終わったぜ。休むなら死体から離れた場所にしろ」
はぁい、と答える声と、ぺろりと上がる手。元気そうではないものの、心配する必要もなさそう。すぐに狼はたき火の薪を求め、あたりを偵察することにした。
(……まだ監視されてるな)
遠くから感じる敵の視線を、用心深く警戒しながら。




