笑うウミヘビ 1
◆ ① ⚓ ⑪ ◆
トリグラヴィア王国首都メスト・ペムブレードーにある古城。ウミヘビの手の者たちはクーデターの最終確認を行っていた。参加しているのはスースラングスハイム王国における王の側近イヴェルセン、多国間で活躍する商人ヨーエンセン、そして勇者ディランの3人だ。
夕方からはじまった打ち合わせも2時間が経過。空はもう夜の色に表情を変えている。輝き出した星々が雲の切れ間から顔をのぞかせるのは、ほおづえをついた原初の巨人が会議の進捗を「精が出るね」なんてながめているようでもあった。
ディランにおいても同様の感想をいだく。
(よく2時間もしゃべり続けられるな、この商人は。僕は君のことを尊敬しつつあるよ)
ヨーエンセンの作戦説明は、情報がよく整理されていて非常にわかりやすいものだった。ディランはこの商人を「いつ裏切るか知れない、油断できない相手」と思う反面、「味方でいるかぎりは信頼してやってもいい」とも感じているほどだ。
余分な情報は言わず、憶測も口にしない。ただ裏づけのある事実とそこから予想される敵の反応、それに対応するための手順が規則正しくならべられているだけだ。それを生前の光景に重ねるのなら、高級な服のならぶアパレルショップだろう。パン屋であるとか雑貨屋であるとか、乱雑なのが楽しい場所と違い、ひとつひとつの商品が値引きされていない値札をぶらさげ、広い店内へ整然と陳列されているような空間だ。
ただし、客たる自分たちに対して冷や汗をうかべているのだけはいただけない。緊張しているのだろう。それはそれで必死さが伝わってくるから、逆に「裏切るかも」という疑念を遠ざけてはいるけれど。
「――以上が作戦と現状の進行具合です。後は時間を待つだけですが、傭兵団の連中は準備に喧騒を生みます。そろそろ騒がしくなってくるでしょうから、王宮の衛兵隊に事態が発覚する心配も……あります」
声がつっかえた。緊張がすぎて、のどが少し枯れてきたようだ。「ヨーエンセン、水を一口飲みなよ」と水筒を出すも、彼は片手を上げて「結構です」と拒む。もしかしたら毒でも警戒しているのかもしれないと思い、ディランは「大丈夫だよ」と再度差し出した。
「え、ええ。では」、受け取った水筒に口をつけると、商人は優男の容姿に似合わないほどおおきくのどを鳴らして水を飲む。目にした誰もが「平気か?」と声をかけたくなるほど、汗まみれの疲れた顔で。
お礼とともに返ってきた水筒を受け取りながら、ディランはこの商人のことを「おもしろい男だな」と心へ笑みをうかべた。商人自身も悪人だが、それを上回る大悪人の前では冷や汗を流すしかないのだから。
(分類するなら「小悪人」なんだよなぁ)
彼に会うのははじめてとはいえ、精神には小悪党的な部分があることを、事前にイヴェルセンから聞いてはいた。悪の信条とか大儀とかを持ち合わせていない、小ずるい考えの持ち主であり、そういう面ではスラムのチンピラたちと大差ない。ただ商人としてとびきり有能であり、それなりの野心を持ち、罪悪感を持たない。くわえて度胸もあるのだから、この場所に呼ばれたのだと。
現状でも富は十分得ているだろうに、さらなる富を求め、汗をかき、緊張感と対峙し続けている。欲望を満たすため徹底的に苦労するアプローチ方法については、勇者をして「おもしろい」と表現するしかなかった。
けれど今回は博打の要素が高い。グリゴリー・イワノヴィチ・クズネツォフというロシア出身の勇者が魔王に倒されたため、2つ用意してあった計画のうち、早急な――ともすれば拙速な作戦を実行にうつすからだ。魔王が帰ってくる前に国を制圧し、待ち構えてこれを討つ。しかしスピードを求められるがゆえ、連携にほころびが生じるだろう。
それでも魔王が帰ってきてからことを起こすよりマシだった。彼女は何人もの勇者を殺している。小麦畑が名物のトリグラヴィアでたとえるならば、金髪へはさみを入れる医者――小麦を収穫する熟練の農家なのだ。今回のような緊急事態においても、切れ味のよい鎌を手にしてあらわれるだろう。
ゆえに彼女が戻ってからクーデターを開始するのは避けねばならなかった。だから速やかに行動できるプランBに移行したのだ。そもそも今回の蜂起をあきらめて、仕切り直し――つまりプランCへ移行する手段もあっただろうが、イヴェルセンの性格上、許さないに違いない。
結局、蜂起はこのタイミングこそ最善だったし、唯一の選択肢だった。
(ま、僕はイヴェルセンを喜ばせてあげるだけだ。彼が笑えば僕も笑える)
「――そろそろ僕もスラヴコと合流しようかな。彼と一緒に王城に攻め入らないと」
「ああ、そうしろ。ヤネスには逃げられても構わんことを忘れるな」
「魔界に逃げちゃったら、それこそ僕らの思うつぼだもんね。民衆を置いて逃げる王なんて、誰も支持しやしない。めでたくスラヴコが新しい冠をいただける」
話しながら、勇者は机の上に置いてあった剣を腰へぶらさげた。逆の側に水筒をくくりつけ、忘れ物はないかとあたりを見まわす。
と、そんな時だった。
バタバタとあわただしい足音。上層階から聞こえてきて、地下牢の天井にある入口へ近づいている。すぐ「失礼いたします!」という大声と一緒に、間者のひとりがのぞきこんできた。
「おりてきなよ。なにがあったんだい?」、ディランの呼びかけに、間者は梯子を使わず飛びおりた。切らした息もそのままに、あわてたそぶりで報告を放る。
「傭兵の駐屯地へ敵の襲撃です! 相手は――緑の皮のベヒーモスです!」
口から出たのは魔界4大魔獣の一角、辺境伯たるヴィルヘルミーナ・オジャの名前。人の姿の時は相手を魅了する褐色の肉体、戦闘の時には防御を得意とする緑色の巨躯の持ち主、そう伝わっていた。
「ありゃりゃ、早いな。狙いはスラヴコかな? イヴェルセン、僕は急いだほうがよさそうだね」
「ああ、頼む」
いれずみの男が答えた時、すでに勇者の姿は消えていた。ふいに巻き起こった風だけが、彼の行方を軌跡に残すだけ。
「い、いかがいたしましょう?」、報告をした者は勇者の走っただろう場所から、イヴェルセンへ視線をうつした。しかし返ってきたのは「任務に戻れ」という短い命令。承知しましたとうなずいて、彼はその場を去って行く。
残されたのはウミヘビ男と、事態へ青ざめる商人だけだ。ヨーエンセンは全身から冷や汗をドッと噴き出し、ヨロヨロしながら机へ身をあずけてしまった。
(し、してやられた。これだけ早く行動したのに、先手を打ってくるなんて。魔界の連中をなめていた。いや、やつらの情報網が油断ならないことなど、わかり切っていたことではないか!)
すでに一度彼はだまされていた。勇者たちに「魔王を倒せ」と依頼した時のことだ。ストリーミングで配信された勇者との対決で発覚したことだが、あの時同席したアム・レスティングは魔界の夢魔が化けた姿。こともあろうか「クーデターが近い」という情報を直接渡してしまっていたのだ。
でもあの時は正確な時期を伝えていない。にもかかわらず先手を打たれたというのは、他にも情報漏洩があったことを指す。
数日前の自分――作戦を船にたとえて「完成間近だ」などと悦に入っていた自分を、思いっきり殴りつけたい気分になった。魔界の蛇たちに泡を吹かせてやろうなどと、なんたる思い上がりだったのだろうか。敵の夢魔の正体を見抜けなかったばかりか、どこからあふれたかわからない水漏れまで発覚したなどと。
これは命の危機だ。情報漏洩の危険性をおしなべて排除することができなかった自分を、目の前にいるほうの蛇が許すわけもない。
「も、もうし……」
申し訳ございませんと、まずは言いたかった。けれど2時間も説明を続けた疲労と、死への恐怖とが彼の首を締め上げてうまく話せない。
動揺にゆれる目線の先で、ゆっくりと顔をむけるイヴェルセンが見えた。口を開く動作がスローモーションに見えて、「ああ、今から断罪がはじまるのだな」と全身が鳥肌を立る。そうやって商人をひどくみじめな――首を絞められたあげく、羽根をむしられているニワトリのような姿勢へと変えてしまった。
「ヨーエンセンよ、お前の船は水漏れがひどいな」、進水した船へ舌なめずりするようなウミヘビの声。
「も、申し訳のしようもございません!」、ようやく声を取り戻した商人は、内臓が飛び出さんばかりの大声で謝罪を口にする。
けれど――イヴェルセンの次の言葉は、別の意味で商人のひざから立つ力を奪った。
「構わん。急げと言ったのはこの私だ。お前は期待どおり、実にすばやく仕事をしたではないか。罰などあたえてなにになる。少々の水漏れなど織りこみ済みで、私は行動しているつもりだ」
ぽかん、商人はまぬけ顔で応えた。この恐ろしい男が言った言葉を、まったく理解できなかったから。
(な、なぜだ? 私はもてあそばれてでもいるのか?)
失敗には罰があたえられて当然。けれどイヴェルセンはそうしようとしていない。それがむしろ不気味で、より悪い事態でも引き起こしはしないかと泥の中にいるような気持ちになった。
だがウミヘビは言葉を重ねる。
「とはいえお前は顔も割れ、足もついたな。すぐにスースラングスハイムへ戻れ。しばらくおとなしくしているがいいだろう」
発されたのは、まさかの気づかい。商人が認識しているこの世の誰よりも、イヴェルセンに似合わないと言い切れるものだ。
(わ、私を許す気なのか。失点をした私を……)
ようやく商人は合点がいった。「お前にはこの先も働いてもらう」という意味なのだろうと。つまり自分のやったことは彼の一定の評価を得ていて、自分は彼が簡単に殺すほど価値の低い者ではないのだ。
ひざはブルブルと震えているし、両手を机についていないと尻もちをつきそうなほどだった。果実にへばりつくむきかけの皮のような、誰が見ても見苦しい格好だ。
それでも商人の心には朝日のような希望が芽生えていた。それは彼の心の中にある、野望という名の作りかけの石像を煌々と照らしている。
「い、いえ」、なんとか姿勢を正し、今だ震える手で額の汗をさっとぬぐう。そして恐ろしかれど寛容な男にむき直り、のどから言葉を絞り出すのだ。
「ま、まだ仕事が終わっていませんゆえ」
なぜだかその言葉を言った瞬間に、脚へ強く力が入った。
「お前には似合わぬ忠義だな。私には心地よい誤算ともいえる」
満足そうなイヴェルセンの顔を見たから、そうなったのかもしれない。
国家転覆作戦の中枢にいるひとりの商人は、こうして戦意を取り戻し、なおも戦場に残ると決めたのだった。




