笑うダンジョンマスター 7
勇者とその恋人は試練の扉をくぐった。ルールに書かれていることを素直に受け止めれば、そこは知の試練ヨツンヘイム。魔王の予想どおりなら、武の試練ヘルヘイム。どうか武力の試練であってくれと祈るような気持ちだった。
暗転した視界が元に戻った時、彼らが立っていたのは草ひとつない丘の一角だった。ダンジョンの中にこんな広い空間が広がっているものなのかと一瞬圧倒されるも、すぐに嫌悪感が肌をなでてくる。眼前に広がっているのは荒涼として暗く、冷たい空気はこの場所から生気を奪っているような感じがした。煙に血液でも混ぜて塗りたくったような色の空と、灰汁と肉塊とを粘土へ練りこんだような地面。空気すらも水に濡れた綿のように重い。
陰鬱としか言いようがない場所だ。
「ここはヨツンヘイムか? それとも魔王の予想どおり北欧冥府なのか?」
グリゴリーは肺へ入ってきた粘り気のある空気と一緒に、不安を口から吐き出した。レインからは「……どうかな」というひとりごとのような返答。彼女も声には不安の色を帯びていた。
近くにあった岩場へ身を隠してから、彼らは周囲を注意深く見まわす。しばらくそうしていたところ、不意に聞こえてきたのは獣の遠吠え。聞くだけで声の主のおおきさを感じさせるような、獰猛な音色だ。
「な、なに⁉︎」、驚くレインへグリゴリーは「シッ!」と口に指を当てた。声のした方角へ意識を集中させる。山脈のようにそびえる崖と崖の間に通路があるようで、遠吠えはそちらから聞こえてきた。目をこらすと、なにやら毛虫のようにうごめく黒い線が。
「……あれは人の列だな。みんなあの通路に入っていくようだ。もしかしてあの遠吠えは、冥府の番犬ガルムのものか?」
「じゃあ、あの人たちは死者? とすると……」
ここは冥府ヘルヘイム。戦闘力が物をいう、武の試練。
つまり魔王の予想は正しかったのだ。
「あの女、味方にすると頼もしいかもな」
「それはそうかも。でもさ、グリーシャ。ここからどうするの?」
通路を守っているのは北欧神話の中でも名高い獣。倒すに一筋縄ではいかない怪物だろう。
けれどグリゴリーには案があった。
「わざわざ戦ってやる必要なんかねぇさ。レイン、まずは近くまで行こう。そしたら俺にしがみつけ。スピードランで駆け抜けてやる」
「それは名案。ワンちゃんの命を奪うのはかわいそうだもんね。じゃ、その時の援護はまかせて。『匂い消し』なんていう、夢魔特有の魔術があるからさ」
ニッと笑いあう勇者と夢魔。ふたりとも正面から武の試練を受けるつもりなんて毛頭なくて、どうやって煙に巻いてやろうかと考えていたのだ。
おたがいがおたがいを頼もしく思っている、理想的な仲。
彼らは意気揚々と攻略を開始した。
◆ ① ⚓ ⑪ ◆
暗転の後、寒気を感じたアイノがぱちりと両目を開ける。彼女のいるところは雪の降り積もる平原。遠くに見えるのは高い山脈で、周囲360度を囲まれている状態のようだ。
そんなところだから、当然寒い。冬のカールメヤルヴィと同じくらいには。
「寒いよ魔王様! ノルウェー沖よりも寒いよ!」、さっそく文句をたれる潜水艦。
「あなたの中の魂には『現在位置、北90度』と言った船はふくまれていないの?」、マニアックな地球の知識(北極点をはじめて潜航状態で通過した潜水艦の無線)で応じる魔王。
「誰その子!」「SSN-571、ノーチラスよ」「いつの子で誰の子なの? 型式についてる『N』ってなに?」「戦後のアメリカ合衆国の子よ。原子力のNなの」、聞いている者がいたら異世界での会話に思えないやりとりをして、彼女たちは雪へ足跡を残していく。広がる雪山が「『ダンジョンの中なのにすごい広い!』とか言ってくれないの?」と、がっかりした顔でそれを見おろしていた。
当人たちはどこ吹く風だ。
「予想どおり、ここはヘルヘイムじゃなくヨツンヘイムね。霜の巨人たちの国であり、きっとこの先にいじわるなやつの館があるわ」
「ウートガルザ・ロキだね。ウートガルドって地名だったっけ? ここってどんな場所なの?」
寒空の下にあっても、潜水艦の声は明るい。彼女もイーダに負けず劣らず外部からの刺激に敏感で、冒険を楽しむ気質を持っていたからだ。だから雪をかぶった遠くの山脈は波高の高い波濤に見えていたし、それが自分たちへ覆いかぶさってくるのなら潜航してやりすごし『効かないもんね!』とドヤ顔をするつもりでいた。
「ここがどんな場所かと聞かれれば、そうね、人をだますためだけに存在する場所かしら」
「魔界と一緒だね!」
両手を元気よく振って歩く潜水艦の目に、「そうかもね」と答えた魔王様のニコニコした表情が映った。つまり彼女もこの場所を楽しみにしているのだろう。それがわかってアイノはますます楽しくなった。
魔王様とふたりっきりで行動することなんてあまりない。通常はイーダとか他の4大魔獣とかも一緒だから。なんだか新鮮な気分だ。
もちろんここにイーダがいたら、もっと楽しかったに違いはないけれど。
寒空へ似合わぬほど上機嫌な彼女たちは、サクサクと雪を踏み固めて進んでいく。決してなだらかな場所ばかりでなく、ところによってはむき出しの岩肌が鋭利な先端で凄んできた。が、雪国に生きるふたりのこと。わざわざその岩へヒョイッと飛び乗り、絶妙なバランス感覚でもって「パハンカンガスよりも歩きやすいね!」なんて言ってみせるのだ。
これには「雪山の岩」という自然の凶器も、いかめしい顔を困り顔に変え、ため息をつくしかない。そうやって吹いたささやかな風に乗り、潜水艦と魔王は坂道をさぁっとすべりおりていった。
数分くらいの後、ふたつめのおおきな岩がふたりに踏破された時。潜水艦はその洞察力でもって「あ! 誰かいるよ!」と人を発見してみせた。見つけたのは、なかなかにおおきな人影。となりにある木々とくらべたところ、5メートルから6メートルくらいはあるだろう。ずっと遠くにいるから、今は米粒のように見えるけれども。
「あら、どこ? 見えないわ」、両手を額へかざす魔王様へ、潜水艦は軍人らしく報告をする。「2 o'clock、4miles、One。Class――」
(……ん?)
分類を口にしなかったのは、違和感があったから。いるのにそこにいないような、あるのにそこにないような、そんな感覚をいだいたのだ。軍艦風にいうのなら、見えているのにレーダーへ映らないような、不自然な感触。
これは調べる必要がありそうだ。
「――<Hydrophone>」、さっそく得意のSukellusveneen taikaをひとつ。探知技術で敵の後れを取るなんて、潜水艦の矜持が許そうはずもない。
「Class、無生物。人に見えるけど、あれは人じゃないね。動いているのに音がしないよ」
もちろん欺瞞されることだって許しはしない。
「ならあれは『スクリューミル』ね。巨人に化けた山であり、ウートガルザ・ロキの幻術でもある」
さっそく役に立ったから、顔へふふんとしたり顔。調子に乗った気分のまま、好き勝手なことを言い放つ。
「ScrewでMillなのに、無音とはこれいかに!」
「Skrýmirは古ノルド語で『ほら吹き』って意味よ。あなたには通用しなかったけれど」
よせばいいのに魔王が褒めたせいで、潜水艦はますます調子に乗るのだ。「じゃあさ、どうしてやろう? あいつは山なんだよね? なにか悪いことをしてやろうよ!」
「近づいたら『寒いからこの山で木を切って、たき火しましょう』って会話でもする? で、ノコギリを相手の両脚へあてがうの。きっとあわてて正体をあらわすわ」
「あはは! うん、そうしよう!」
足どり軽く歩む彼女らは、さっそくひとつめの試練へ挑むことに決めた。




