笑うストリーマー 31
なぜシニッカは地球の――それもごく最近のことを知っているのか?
この世界にきた初日にいだいた疑問だったし、それは解けないまま今日にいたっている。けれど自分が転生したあとのニュース――トンガで発生したらしい海底火山の噴火――へ言及するのを見すごしておくほど、ぼうっとした人生を送りたくはない。
だから青歯王の精神会話を通じ、シニッカへ「大切な疑問があるんだ」と投げかけた。対して魔王は――
(答えてあげるわ。それはね――)
予想していたかのような物言い。
しかしそれはちょっと面食らう内容でもあった。なぜかというと、魔女の予想に反して、魔王は古エッダの一文を読み上げてきたのだから。
(数多の蛇が世界樹ユッグドラシルの梢へとぐろを巻く。浅慮たる者どもはそれを知らぬ。たとえばGrafvitnirの子たるGóinnにMóinn。たとえばGrábacrとGrafvǒlluðr。そしてOfnirとSváfnirは、永遠に世界樹の枝を噛むならん)
『グリームニールの歌』第34節。登場したのは蛇7匹。最後の1匹以外の者は、聞いたこともない個体たち。「どうして2022年のできごとを知っているの?」に対する答えがこれでは、誰しも返答に困るというもの。「浅慮たる者どもは、それを知らぬ」の言葉どおりに。
けれどイーダは「ど、どういう意味?」と困惑するかわりに、じっと熟慮することを選んだ。今回の疑問は大切なものだったから、考える時間だって大切に使うのだ。
シニッカはなんでそんな一文を教えてくれたんだろう? まずはそんな疑問が頭にうかぶ。スヴァーヴニルが入っているということはヒントなのかもしれないと。
あごへ右手をやりながら、魔女はむむむと難しい顔。脳は全力で高速回転。もし彼女がパソコンだったなら、CPUクーラーがうなりを上げていたほどに。
枝嚙み蛇とは、つまり世界樹の枝を永遠に噛んでいる存在だ。勇者も自分もその梢をとおって地球からフォーサスにきたことを思い出した。勇者の情報にシニッカが干渉できるのは、蛇が枝を噛んでいるからなのだ。つまりハッキングよろしく、枝から情報を吸いだしていることになる。となると「あれ?」、糸口が見えた。だって、そんなことができるのなら……。
しばらくの後、魔女が得たのはひとつのひらめき。ついつい口へ出しそうになるのをこらえながら、スヴァーヴニルの主へ解答をした。
(……ねぇシニッカ、私は世界樹の梢をとおって地球からフォーサスへ流れてきたんだよね? じゃあさ、シニッカはその逆の力を持っているんじゃない? もちろん実際に地球へ転生するんじゃなくて、地球の情報をのぞき見するたぐいの方法で。たとえば寝ている時なんかに)
ぴくん、シニッカがはねるように背すじをのばし、振りむいた。いつも「私はなんでもお見とおしよ?」なんて具合の彼女にしてはめずらしく、目と口を両方とも丸くしていたのだ。「唖然とした」という形容がふさわしい、驚きの表情だった。
そして彼女は顔を前に戻しながら、その表情を満面の笑みに変える。にっこりと笑う口へ長い舌をチロチロさせながら。
(……イーダ、知恵の神であるオージンから伝言をあずかっているわ。「私はお前――魔女のイーダが、ミーミルの知恵の泉へ片目を投げ入れたにもかかわらず、両目でしかと世界を見ていることに驚いている」ですって)
(やった! 正解なんだね!)
無言でちいさくガッツポーズ。口を閉じているのに、喜びのあまりに「くふふっ」と声がもれる。あまりに変な音だったから、潜水艦が心配そうに「どうしたのイーダ? お腹痛いの? 例のトイレは呼び出せないよ」といらぬ世話を焼いてきた。
「ち、違うよ。お腹は快調だよ」、こちらはこちらでいらぬ情報を盛りこんだから、こんどはリリャが「結構なこってス」とうなずきながらつぶやく。それは他の者の関心も引いてしまい、「なんの話だ?」「イーダのお腹の具合! とてもいいって!」「いいことじゃねぇか。オートミールを口にする唯一の利点だからな」「ダンジョンでは腹具合が悪いと困りますかラね」、便器の水流がごとく会話は加速していった。
「およしなさい」、今日も魔王はそれを止める。横でレインが「あんたらっていつもこうなの? 緊張感の欠片もない」とあきれるのを、「緊張しっぱなしじゃ集中力も持たないわ」なんて受け流しながら。
話題がなんとか丸くおさまったのを見て、イーダはほっと一息ついた。で、すぐにまた喜びが湧き出てくる。今回自分が的中させた情報は、魔界にとってトップシークレット中のトップシークレットだろうと確信していたから。
(どうりで地球のことにくわしいわけだよ。地球の情報を見ていたなんて。私はシニッカが転生者なんだと思っていた)
(地球とフォーサスは世界樹の枝でつながっている。枝嚙み蛇はその情報に触れられる。それは転生勇者の情報だけじゃないの。つながっている以上、地球の情報にだって舌をのばせるわ。むろん限定的ではあるけれど)
(限定的っていうと、たとえば?)
(知りたいことがあったとするじゃない? それを本の目次にたとえると、情報の書かれているページを開けるとか、そんな感覚よ。私も100パーセント使いこなせているわけじゃない。ついでにいうと、私の他にちゃんと理解している人なんてドクくらいなもの。ゆえにこれは魔界の最重要機密情報よ)
(うん、気をつけるよ。けれど正直な話、ちょっとワクワクしている)
(あら、それはなぜかしら?)
(フォーサスの知識は図書館で、地球の知識はシニッカという図書館で調べられるもんね!)
なぜなにイーダは有頂天。ダンジョンの中で最高の宝物に出会った気分。さすがの魔王も「お手柔らかに」と苦笑するほど、彼女は高揚感の中にいた。
実際、これは魔女の人生の中で忘れえぬターニングポイントのひとつとなった。
彼女が知識を求める冒険者として、重要な剣を手にした瞬間だったのだから。
◆ ① ⚓ ⑪ ◆
魔女の興奮をほどよく冷ます、ひんやりとした通路。そこを歩くこと30分。なんて長い直線なんだとイーダはめまいを覚えていた。曲がり路もなければ、モンスターの襲撃もない。ほとんど同じ風景がずっと続いて、実は無限ループにとらわれてしまっているのではないかと心配になってくる。
「ね、ねえ。一本道の上で変なこというけど、道はあっているの? なにか脇道とか見落としてないかな?」、たまらず魔女は不安を口にした。このダンジョンにはギミックなる、人をだまくらかすためだけの概念があるのだ。
「ここはまるで蛇の口の中ね。すっぽり呑みこまれてしまったみたい。30分くらいたったから、そろそろ私たちは胃液で溶けてくるのかも」
こんななんにもない場所ですら、魔王様は楽しそう。「きっと出口はトイレだね!」、潜水艦も楽しそう。一方顔をしかめるのは、勇者グリゴリーとレインだった。
「お前らは本当にやかましいな。道はあっている。後10分もすればちいさな部屋に出る。そこにあるささやかなパズルを解けば、めでたく外に出られるんだ。それまで口を縫い合わせていろ」
「痛みに耐えても私はしゃべるの。右の頬から左の頬へ抜ける太いタコ糸になんて負けはしないわ」、魔王の謎の言いまわし。
「シニッカ、グリゴリーさんは『上唇と下唇を縫い合わせろ』って言っていると思うよ。左右ではなく」、魔女の的確な指摘。
そのツッコミがなんだかおもしろくなってしまって、レインはグッとお腹に力を入れた。わずかに口から「クッ」と息を吐いて。さっきまで殺し合いをしていた間柄だというのに、だ。しかも魔界の連中はひどく目ざとい。
彼女のとなり、潜水艦が見上げてくる。「え、お腹の具合……」、しつこく他人の胃腸のあんばいを気にする台詞をつぶやきながら。
笑ったら負けな気がした。ゆえにレインは気にかけていたことを質問して気をそらせた。「アム・レスティングはどうなったのよ。あなたたちは彼女を殺したの?」
「殺すわけないでスよ。重要な情報源なんだかラ。拷問もしていませんヨ。とくに必要な状況じゃなかったもノで」
「そう」と無味に応えるレインは、しかし口の中へ苦みと酸味の混じった複雑な味がするように感じた。もちろん自分では理解している。仲間が死んでいたらグリーシャは悲しむだろうし、悲しむ彼を見ることなんて嫌な体験に違いないのだ。しかしアムという夢魔のことを、レインはそれほど好んでいなかった。恋人と床をともにしたのがアムではなくリリャだったとしても、アムがグリーシャのことを憎からず思っていたことなんてお見とおしだったから。
彼女が無事という事実は、ちょっとだけ残念なのかもしれない。それは安否に対する追加の質問という形となってあらわれてしまう。「で、これから彼女をどうする気? 無事にすませようってわけじゃないんでしょ?」
「ヤネス2世からの排除依頼がある。だからどういう形であれ、トリグラヴィアに残ることはないわ。それはグリゴリーとあなたも同じ。私たちが勝ったのだから、それくらい受け入れてもらわないと」
「……『殺す』って言っているようにも聞こえるけど? アムとグリーシャの両方を」
「そのふたりがフギンとムニンのように切っても切れない仲なら、そうでしょうね。けれどバルドルとヘズのような関係だったら、死ぬのは片方よ。レイン・グスタム、解釈はあなたのお気の召すように」
この魔王の返答は、レインにとって一定の満足感があるものだった。北欧神話に出てくるオージンの息子、バルドルとヘズの異母兄弟。ロキの計略によってバルドルはヘズに殺された。そしてその事件をきっかけにラグナレクが発生するのだ。
けれど世界が滅んだわけではない。生き残った人々は新しい秩序の中でたくましく生きていく、そう伝わっている。レインは魔王の言動へ「アムが私とグリーシャの前から消える。私たちには新しい生活が待っている」なんていう未来を重ねて、ゆえに満足した。
一方で、勇者の恋人の右後ろを歩く、魔女の解釈は少し違った。
(シニッカの言いぐさは、グリゴリーさんがだまされていたことを暗喩しているよね。じゃあ今回の話におけるロキ役はいったい誰だっていっているんだろう? たぶん私たちのことじゃないな。一緒にだまされたんだから。だとしたら間違いなくエミール・ヴィリアム・イヴェルセン。スースラングスハイムの悪辣な蛇だ)
きっと止めなければならないのだ。ラグナレクたるクーデターが成功してしまったのなら、トリグラヴィア王国は生き残った者たちに都合のいい新世界へと書きかえられてしまうのだろうから。
難しいことを考えていると10分なんてあっという間。一行は長い道の先へ空間を発見し、「ようやくか」という表情で歩みを進める。ささやかな風が壁の照明をゆらゆらとゆらし、今回の冒険――ダンジョンでの戦いに手を振っているかのようだった。
少なくとも彼女らはそう感じていた。その空間へ足を踏み入れるまでは。
「……ねぇ勇者。ちいさな部屋にある、ささやかなパズルと聞いていたけれど?」
「Блядь」
魔王へ皮肉を、勇者に悪態をつかせたのは、石造りで広い空間だった。広いといっても横幅と奥行きだけで、天井はそう高くない。そしてなにより、その空間にはおびただしい数の石像――それもガーゴイルのようなモンスターの形をしたものが乱立している。一番奥にはゆらめく緑色の炎が灯された台座。消してくださいといわんばかりの、おそらくギミックとおぼしきもの。
彼女らは一瞬で理解した。ダンジョンが侵入者をとらえて離そうとしていないことも、ダンジョン生成の固有パークが懸念どおり敵に奪われていることも。
「Чёрт! ダンジョンの構造を変えられたか! どうやら俺らを邪魔したいやつがいるみたいだな!」、もうひとつ悪態をつく勇者へ、潜水艦が「しかものぞき見しているやつがいるみたいね」とあごで空間の一角を指す。言われなければ気づかなかったろう。石像の間を縫って飛ぶ、1メートルくらいのウミヘビの姿なんかに。
全員がスースラングスハイムの影をはっきりと感じた。トリグラヴィア王国では騒乱がはじまろうとしている。ダンジョンの中には勇者と魔王が閉じこめられてもいる。その両方は同じ黒幕によって引き起こされた。うろ暗い部屋の中で笑うストリーマー、ウミヘビの配信者によって。
ぎりっ、グリゴリーの奥歯を噛む音。「許さない!」と決意を固めるレインの声。
けれどその横にいる魔王はくやしがることもなく、肩をすくめてみせた。
「この空間へ名前をつけるのなら『悪意の霊廟』かしら。それとも『ウミヘビの石の入れ歯』?『刃の岩礁』なんていうのもいいわね」
魔女は知っている。シニッカはこうやって戦意を編むのだ。だから帽子のつばを指でつまみながら、格好つけて言葉を返す。「たぶんだけれどね、これこそシニッカの言った『必ず失敗にいたる唯一の建造物』だと思う」
「あら、それがどうしてか聞かせてもらえるかしら?」
「『誰にとっての失敗かは別として』、だからだよ」
私たちをここへ閉じこめたのは悪手だという意味。これはウミヘビの失策なのだ。
こともあろうかこの世の魔王と、そして魔女へけんかを売ったのだから。
彼女はふわりと白樺の香りをまとった。
配信のその先にいるであろう笑うストリーマーへ、キッと戦意を放ちながら。




