笑うストリーマー 27
イーダが水の中へ飛びこんで20秒ほど。本当ならもっと時間をかせぎたいが、フェンリル狼は敵が待ってくれないことくらい理解している。だから「行くぜ?」、四肢へぐっと力をためた。数メートルもある巨大な体躯の上、青い毛並みがザワザワと逆立っていく。
今日、自分の役割は多い。そのひとつめが勇者からスピードを奪うこと。
――ダンッ! 地を蹴り敵へ飛びこんだ。一直線に、最短距離で。そして開けた大口で勇者をとらえ、バチン! 思いっきり閉じてやる。
が、当たるわけもない。「遅すぎる!」攻撃をかわした勇者の声は、自分の下側、胸のあたり。
勇者は一瞬にして攻撃を見切り、カウンターとばかりに手にした剣で胸を切り裂いてきたのだ。
ザクッと肉が切られる音。同時にするどい痛みが走る。思わず「痛ぇ!」と叫びたくなるのをがまんして、バルテリは飛びずさった。口の端を忌々し気に食いしばり、勇者をにらみつけながら。
(こいつ本当に速ぇ!)
見おろす視線の先には、腰をぐっと沈める勇者の姿。バルテリは自分が次の一撃を繰り出すより速く、グリゴリーの2撃目が襲いかかってくることを理解した。
「Paska!」、身をよじって致命傷を避ける。すぐに左の肩口あたりがかぁっと熱くなり、新たな傷がもたらされたことを火事を知らせる警鐘のように告げた。
バッと舞い散る血は火のように赤い。体がおおきいからその量も多い。一撃終わってまだ空中にいる勇者は、それを霧雨のようにかぶりながら、陸地への着地体勢を取っていた。
それは――バルテリの狙いどおりに。
「<ᚳ,ᚪᛣᛏᛁᚠᚩᛁ>!」
ごぅっ! 音を立てて炎が走る。まるで噴霧されたガソリンがごとく、血の霧雨が爆発的な燃焼を引き起こす。
「なあっ⁉︎」、炎に巻かれた勇者は一瞬なにが起こったか理解しかねた様子だった。けれどすぐに後ずさりして、四肢をブンブン振りまわす。自分にまとわりついた炎を振り払いながら、「クソォ! ふざけるな!」と悪態を口にして。
狼は追撃をしたかった。しかし、どうせするどい爪で目いっぱい殴りつけても、あの勇者はピンピンしているだろう。だからいったん攻撃をあきらめ、ズルリと自身へせまるスライム人間へおおきな口をむける。奥歯をカチンとひとつ鳴らすと、口の中には灼熱の色。
がぁっという声とともに、数体のモンスターを火だるまにした。スライムというものは切っても刺しても殴っても即座に再生してしまう生物だが、凍らせたり燃やしたりすればその生命活動を停止させられるから。
狼が近場のスライム数体を焼き尽くし敵へむき直ると同時、火を消した勇者も体勢を立て直す。
「クソみたいな小細工しやがって! こんなもんで俺が死ぬとでも思ったか⁉︎」
「水に飛びこまなかったのは賢いな、勇者様よ。そうしていたら氷漬けにしてやったところだ」
そう言ってバルテリは、口からいくばくかの灰をサラサラと吐いた。戦いの前に呑みこんでいた8面体の魔石の残骸だ。「たいまつ」を意味する「ᚳ」のルーンは、彼の血液を炎へと変容させる役割をになっていた。
「とはいえやけどしてくれたみたいだな。これでお前さんの皮膚には俺の呪いがかかったってわけだ」
「どういう意味だ⁉︎」
「うちの魔女に習ったのさ。その炎をもたらした魔石は、俺の血で洗ってあったんだ」
ニィッと狼は口の端を上げた。首をかしげながら、敵へ不敵な笑みを浮かべる。そして呪詛を口にするのだ。「――<Gelgja、Gjöll、Þviti、すなわちVanargand>」と。
勇者の四肢から音がした。ギギィと鈍い、鉄の門を太い鎖で封印するような金属音だ。それはグリーシャに驚きと舌打ちをもたらす。「ちっ! 拘束魔術か!」
「ご名答だ」、満足げな笑み。けれど心に思うのは「どうせ動きを鈍くするのがせいぜいだろうな」なんていうあきらめ。
事実勇者の動きは止まっていない。剣を構え直す所作は一流の冒険者程度にすばやいもの。
(まあ、目的は果たしたか。「Speedrun」なる魔術は封印できた。よしとしよう。これでまともに戦えるんだからな)
「仕込みは終わった?」、氷漬けにしたスライム人間を砕きながら、魔王が顔をのぞきこむ。狼は主へ返答した。「ああ、これで俺とあんた、勇者に2対1で戦えるってわけさ」
「それはどうだろうな、魔王。ここにはレインとアムもいる。それに俺が呼んだのは『湧き出る』モンスターだぜ?」
勇者がそう言った直後、視界のあちこちでうごめく影。ふたたび数十体のスライムが、水辺へ人の集団を作っていた。
その光景に、狼はふんっと鼻を鳴らす。「なあに、木偶人形がいくら増えようと変わらねぇさ。ついでにひとつ、教えてやるよ」
「へぇ、どんな内容か楽しみだな」
「お前さんの相方な、残念ながら手一杯みたいだぜ?」
「なに?」、勇者は振り返る。たしかに戦いがはじまってから今まで、レインとアムが動いた気配はないと思い出したのだ。そして彼の視線の先には、レインとアム・レスティングが切り合う姿。
「グリーシャ! こいつアムじゃない!」、つばぜり合いをしながら叫ぶ勇者の恋人。彼女には片腕のアム・レスティングが、遠慮ない攻撃をなんどもしかけている。
「アム、お前まさか!」
「ご名答っス。僕はリリャ・ヤニスといいまス」、短剣を振るいながらぺろり、舌を出したピンク髪の女夢魔は、すでに仲間の顔をしていない。「この前アム・レスティングが襲われたでショ? あの時すでに入れ替わってたんスよ」
「てめぇ!」
「あなたの敵は私」
バルテリと入れ替わる形で魔王が勇者へ襲いかかった。右手の槍をするどく穿つ。それが勇者の剣でガキンと弾かれた直後、反動を利用して突き入れるのは左手の槍。
バチン! おおきな音がして、勇者は後ろへ吹き飛んだ。「ぐぁ!」、短く息を漏らし、足場の上から水辺に落ちる。ドボンと落ちて上半身だけ水上に出す彼へ、魔王は追撃を入れた。
「――<ᛁ、氷よあれ>」
瞬間、勇者は氷に囲まれた。魔法が水の分子たちを規則正しく整列させて、「私がいいと言うまで一歩も動くな!」と言っているかのようだった。軍隊における鬼教官か、権力を持った独裁者か。ともかく横暴にも思えるふるまいだ。そしてその場から動けなくなったグリゴリーの胸元へ、青い女は両の槍を突き入れる。
ふたたびバチンと響く音。氷がバラバラ砕ける音とともに。勇者は腹まで水中のまま、足場へ背中を打ちつけた。なおも追撃の手をゆるめない魔王が、砂ぼこりの軌跡を残してそこへ飛びかかる。両手の槍を逆手に持って、重力と腕力とでグリゴリーを地面へ打ちつけるかのように。
しかし、相手は勇者なのだ。それくらいで戦闘不能になろうはずもない。彼はすばやく後転し足場の上へおどり出る。剣はすでに体の後ろで、つがえられた矢のように力をためこんでいた。
「失せやがれ!」
力まかせの一撃が、魔王の元へ振るわれた。剣と槍とがぶつかって、鉄の悲鳴が大声で響く。どうやら力比べは勇者の勝ち。こんどは魔界の王が吹き飛んだ。けれども怪我したそぶりも見せず、くるりと空中で1回転しながら5メートルも離れた地面へ着地してみせた。残った勢いを殺すように両手の槍を突き立て、地面をざぁっとなでながら。
剣戟は小休止。呼吸をととのえながら勇者が口を開く。
「魔王、お前の攻撃は蚊に刺されたようなもんだ。そんなのいくら食らったって、俺が倒れることなんてない」
「あらあら、ずいぶん高く買ってくれるじゃない。虫をふくむ動物の中で、蚊は人をもっとも殺した生物よ? とはいえ私は蛇がいい。ちなみに蛇は3番目ね」
「馬鹿にしてやがるな。だが俺は勇者だ。魔王のお前にとって天敵の生物だ。とくに偉ぶった王であるお前なんかに、俺の闘志が消えることなんてないぜ」
「なら生前はさぞかし居心地の悪い思いをしたでしょう。特別軍事作戦をするような独裁者の下で生活していたのだから」
「あんな独裁者と一緒にするなって言ってんだ。どの国のどの政府だろうが政治家だろうが、権力を持っているなら俺は嫌っただろうな」
「そう……。ねぇグリゴリー、聞きたいことがあるのだけれど」
そこまで話して、魔王は意外そうな顔をした。スライムの集団と戦いながら彼女の戦いを見ていたバルテリが、「なんだ?」と違和感を持つくらい戦意のこもっていない顔だった。
しかし勇者は戦いをやめない。猫のように姿勢を低くし、両脚のつま先へ体重を乗せる。「問答無用!」
「でしょうね」、すぐに魔王も槍を構え直した。剣と槍がふたたび交差し、水辺へ熱い火花を散らす。周囲で発生している夢魔同士の剣戟の音と、狼が人型のなにかをなぎはらう音を背景に。
【やっべえ、コメント忘れてた】【私は呼吸を忘れていました】【グリーシャってなにでできてるのさ。あんなの食らって平気だなんて】【忘れたか? あいつは猫だ。この世に猫を傷つけられる人類がいるか?】
息を呑んでいたオーディエンスたちも、ようやくいつもの調子を取り戻してきた。そしてまたすぐに息を呑む。
魔王は戦い巧者といってよかった。槍の狙いは正確で、そして巧妙だ。胸元を狙う一撃が弾かれた直後、その反動を利用して、彼女は逆の槍を突き入れた。正確無比なその刺突はひざ下へ炸裂し、勇者を転倒させてみせる。その上、這いつくばる相手にも容赦はない。3撃目4撃目が無遠慮に肩やら背中やらへ打ちおろされた。
「くっそ!」、攻撃を耐えた勇者は飛び上がって反撃をする。横一文字、猛スピードで喉を狙い、魔王の首を飛ばそうというのだ。けれどそれも不発に終わる。魔王は槍を側頭部へ立てかけてバキンと防いでみせると、くるりとまわって位置を入れ替え、グリゴリーのわき腹へ5つ目の強打を入れた。
踊り子のように軽やかなステップで足を運び、猛獣のように重量のある一撃を放つ。オーディエンスたちはそれに見とれていた。そして思うのだ。「ああ、蛇が人の形をしていたのなら、きっとこのように2本の牙を振るうのだろう」なんて。
その牙がグリゴリーの体をとらえた。振りおろされた切っ先が勇者を水辺に叩き落とし、そして「<ᛁ>!」ふたたび氷漬けにする。
「勇者さん、話があるの。聞く気は?」
「俺を殺せたなら聞いてやるよ」
さんざん槍を打ちこまれたのに、グリゴリーにはダメージがない。彼の体の表面には、幾重にも重なった防御魔法の障壁が見て取れた。
体に張った氷を砕き、彼は魔王の腹を蹴りとばす。魔王はふたたび吹き飛ばされたが、彼女も彼女で効いていない様子。ひょいっと着地してみせて、ついでにぺろりと舌を出したのだから。
「トロールのように頑丈ね。それに強情。私がオージンだったなら、今すぐスキンファクシに乗った昼の神ダグを呼んで、あなたを石にしてしまうかも」
「なんでも試してみろってんだ。打たれ強さには自信がある。前世と違ってな!」
ふたたび刃のぶつかる音。剣戟が広いホールに演奏を続ける。
しかしタイムリミットも近づいている。
魔王たちから数十メートル離れた水の中、イーダはついに水底にあるスイッチを見つけた。10体以上のスライム人間を切り伏せて、やっとその位置に到達したのだ。
そして魔王たちからそう遠くない地上の海の中では、潜水艦が魚雷発射管へ注水をはじめていた。じっと音を聞きながら、短い舌をぺろりと出して。
時計が鳴りはじめてから2分53秒。戦いが終わるまで、残り20秒あまりだ。




