笑うストリーマー 26
魔女の生活において、予想外の事態なんか日常茶飯事。お気に入りのごはん屋さんは店主の腰痛でお休みになるし、図書館で読みたい本が先に借りられているなんてことも多い。サウナ用に用意した薪が足りなくなることだって。それに、ホッキョクウサギの足の長さに裏切られた人類は一億人くらいいるに違いない。
だから作戦変更だ。30体のスライム人間と勇者たちはシニッカとバルテリにまかせる。正直かなり分の悪い賭けに思えるけれど、シニッカがやるといったのだから、やりとげると信じるのだ。
ゆえに今自分のやることは、たぶん魚になること。
「――<鉄のクジラの力よあれ>」
言遊魔術をひとつ。潜水艦魔術――スケルスヴェネーン・タイカを組みこんで。「ヴィズブリンディのイノシシ」というのはクジラの詩的な言いかえ、そして「鉄のクジラ」は潜水艦のケニング。
イーダは水の中で戦う力を得た。その力がよこしまな理由――サウナ室から氷の張った湖の穴へ飛びこむ時に便利――によって得られていたのは、いかにもカールメヤルヴィ人らしいといえた。とはいえ技能を生かす機会を得たらためらわない。魔女はそういう生態を持っていたし、ゆえに現在の彼女は水を得た魚のようですらある。
「お先に!」、そう言ってためらいなく、ザバン! 彼女は魚になる。巻きこまれた空気が無数の泡になって視界を覆い、水の冷たさが腹を震わせた。けれど慣れているがゆえ、イーダはそろえた脚を尾ひれよろしくくねらせる。するするっと音がするかのように、水の中を進んでいくのだ。
(意外と明るい。それに足場は水底まで続いていない。これなら自由に泳ぎまわれる)
地上へ5平方メートルの足場を提供していたものは、予想どおり水に浮かぶ5立法メートルの立方体だった。水深は10メートルくらい。天井にあるスイッチを押せば、立方体の足場が完全に水没する深さだ。
明るさこそ十分にあったものの、視界は少々悪かった。石材の破片やらと思わしき細かい砂粒のせいだ。せいぜい5メートルくらいだろうか。広い空間をこの視界だけで探しきるのは骨が折れそう。
(猶予は3分15秒。……上ではもう戦いがはじまっているかな?)
ゴングが鳴る前に飛びこんだから、水上の様子は見て取れない。「<クジラの耳よあれ、ᚻᚣᛞᚩᚱᚩᛈᚻᚩᚾᛖ>」、聴音の魔術で様子をうかがうことに。すぐに勇者の、そしてシニッカの声が聞こえた。
「バカだな、あいつは。スイッチが水の中にあるとはかぎらねぇぜ? やみくもに探したって見つからねぇよ。これで戦力がひとり減ったってわけだ」
「そう? あなたたちはたき火をしていたわよね? 服を乾かすためだったんじゃないかと思うけれど」
(うん、予想どおり。きっと「ギミック」は水の中にある)
魔王の言動に勇気づけられ、魔女はその他の音へ耳をすませた。水中へ砂粒が舞っているということは、水の対流があることを指す。現に水中を行く自分の体は、弱い力で干渉を受けている。ならばギミックの場所は水の流れが他と違うのかも。鋭敏になった聴覚で、その場所を特定できるかもしれない。もちろん、ひとりで探すのであれば、だけれども。
待っていたのはもうひとりの潜水艦がもたらす情報だ。アイノは戦いの開始前からここに潜っていた。すでになにかを見つけていても不思議じゃない。
コンコンコン、音が水の中を走ってきた。発信源は自分から見て1時の方向、50メートルくらい先。きっとアイノがなにかを見つけ、位置を知らせてくれたのだ。
(ちょっと遠い。急がなきゃ!)
アイノがギミックの場所を知らせるだけでなく、その解除できたらよかったかもしれない。が、彼女は雷撃魔術の準備に集中している。つまり魔術の詠唱中だ。合図だけならともかく、そこまでやる余裕はないだろう。
と、地上で激しい音が聞こえた。バルテリが牙を鳴らす「バチン!」という音、シニッカが槍で奏でる金属を打ちつける音。
(はじまっちゃった!)
大急ぎでアイノの下へむかう。30秒もあればたどり着けるはず。
(待っててね! すぐ戻るから!)
体をひねって加速の準備。さあひと駆けしてしまおう、と思った矢先。
ドボン、ドボン、ドボン。水に落ちる嫌な音。
(まさか、スライム人間⁉︎ 水の中にも入れるの⁉︎)
四肢をナマコのようにぐねぐねさせて、手に武器を持った人型の塊。青と茶色の混じった体と、顔のない頭を持つモンスターが、魔女の上からずるるっとせまってきた。
(倒さなきゃ! テュールさん、私に力を!)
水中を飛ぶように泳ぐ魔女へ、敵の槍がせまる。そして――ズワッ! 水の裂ける音。メカジキのように強烈な突き。
「っ!」、魔女ははねるように進路を変え、なんとかその一撃をかわした。しかしせまりくる敵は1体ではない。ズワッ、ブワッ、なんども来襲する攻撃を、サメから逃げるニシンのように下へ下へとかわしていった。顔の前を殺意がよぎっても、服の端を引き裂かれても。立方体の足場の下、高さ5メートルの空間へ。
気づくと水深10メートル。つまり水底に体が接触していた。見上げると3体の醜い塊。槍を手にして突進してくる。
追い詰められた? いや違う。わざわざここまで逃げてきたのだ。うまくやるイメージがついていたから。
手にした剣を水底へ振るう。ガガンと2画、逆さまにしたVに似た字を。
(――<ᚢ,ᚪᛣᛏᛁᚠᚩᛁ>)
野牛のルーンが魔女を撃ち出した。それは魚雷そのものだった。3体とすれ違いざま、イーダは1体を剣で切り裂く。すかさずくるりと前転し、足場の底へ逆さまのまま着地した。
(まだまだ!)
テュールのルーンが道をしめす。残り2体へどう襲いかかるべきか、体はちゃんと理解しているのだ。目をカッと見開いて、足場を蹴り敵の片方へ飛ぶ。突かれた槍先を剣の刃でいなし、ズバン! 勢いそのままに切り伏せる。
そして自分の胸にせまる3体目の槍を、彼女は左手でむんずとつかんだ。体の脇へグッと引き寄せ、かわりに右手を前に出す。ズブズブ、深く相手へ切っ先が敵へ突き刺さったのを見るや否や、両手で柄をつかんで力まかせに振り上げる。胸から首をとおったその刃は、顔面を抜け脳天から出た。
「よし!」、声が出たならそう言っただろう。あっという間に3体を撃破。勝利を得たのは嬉しいし、剣を振るうのがこんなに楽しいとは思わなかった。勇者が自身の強い力を使いたくなるのも、今なら理解できてしまいそう。
そんな信条に反することを頭に浮かべたからか、現実がその勘違い女子へ「本分を忘れるなかれ」とばかりに釘を刺す。ぐずり、ぐずり。ズタズタになったはずの敵が、傷口を縫い合わせるかのように再生しはじめたのだ。
(き、効かないか。スライムだもんね、これ)
まだ再生には時間がかかりそう。魔女は敵を放っておくことにした。目的は目先のスライム人間を倒すことじゃなく、ギミックを解除してすべてのスライム人間を消滅させることなのだから。
解除がうまくいくかどうかは、まだわからない。解除したところでポップ・モンスターが消えるかどうかも疑わしい。けれど、ならばよけいに急がなくてはならない。
急ごう、口の中でつぶやいて、彼女は再び水中を飛ぶ。耳に聞こえるのはカウントダウンを告げる時計の秒針、それに激しくなっている地上の戦いの音だった。




