笑うノコギリエイ 後編4
「イズキ様、お伝えした最重要なことがらを、もういちどお聞かせ願えますか?」
2日間にわたったチュートリアルの中で、世界のルールの部分がテストに出された。
「ああ。『馬鹿にしない』『踏みにじらない』『油断しない』『他の勇者とかかわらない』だよな?」
「『魔王にはすぐに挑んではならない』も忘れないでくださいまし。魔王はイズキ様を倒すため、必ず対抗召喚を行っているはずですの。注意深く情報を集め、力を蓄えてから魔界にむかわれますよう」
残念ながら赤点寸前。でも時間は待ってくれないゆえ、ウルリカからすぐさまペン入れが。
「ああ、そうだった。魔界には結界で近づけないんだったよな。いっそのこと、むこうから出てきてくれれば殺……倒せるのに」
「はい。……よろしければもういちど、詳細をお話いたしましょうか?」
「大丈夫だよ。ありがとう」
イズキは女神に母親らしさを感じた。忘れ物はない? 気をつけて行ってくるのよ? そんなことを言われているようで……。心配性の彼女は、きっと心の根っこからいい人なのだろう。
世界樹の枝の先に用意された桟橋のようなところ。勇者と女神は1頭の獣とともに、そこへ立っていた。獣――黄金色の毛を持つ猪は、鼻を鳴らして役割を待っている。一樹はそれをちらりと見た。スリーズルグタンニと呼ばれるこの天界の生物が、自分を下界へと送り届けてくれるのだそうだ。
「承知いたしました。では、選別の品をお渡ししてしまいましょう。こちらをお持ちください、イズキ様」
女神はくすんだ色の布地と、その上に置いた帯が巻かれた長物を手渡す。長物を手に取り帯をほどいてみると、そこには赤い鞘におさまった1メートルくらいの剣。
勇者の相棒にふさわしい、上質そうなその剣に、一樹は思わず「おおっ!」と喜びの声を上げた。
「ご要望の『初期装備』である白銀鋼の片手半剣ですわ。腰に下げるには少々長いかもしれませんが」
「すげぇ……」、すぐさま鞘から抜く。灰色に光る刀身が「よろしくな」と牙を出して笑った。ミスリルという地球にはない物質は、地球で見たことのないほど上品な輝きを発する。この光でもって勇者の未来をも明るく照らしてくれるだろう、と思わせるような。
しばし見とれていた彼は、名残惜しそうにゆっくりと鞘へ戻した。
(次に姿を見せるのは、悪いやつらを倒す時だな)
「もうひとつありますの。イズキ様、あちらをむいてくださいまし」
「もうひとつ?」、応えながら、言われるがまま桟橋のほうをむく。首の横から白くつやのある手がまわり、剣の下に敷かれていたくすんだ色の布地が自分の肩にかぶせられた。喉の前で金属の留め具が、パチンと準備の完了を告げる。
それはマントだった。勇者にとってスーツのネクタイと同じ、みだしなみの必須アイテムだ。
そのマントのむこう側から、背中へ女神の両手が当たる。
「マントは背中を卑怯な刃から守ってくれるもの。心の底から信頼できる仲間を手に入れるまで、どうか肌身離さぬよう」
「ああ、ありがとう」
しっかりお礼を言いたくて、一樹は女神へむき直ろうとした。それに、ウルリカは手に力を入れて制止する。
「振り返らないでくださいまし。転生勇者案内は、終わりなのですから」
はやる心を落ち着かせる、水滴のような声。ついで、せせらぎのような祈り。
「イズキ様に神の祝福があらんことを。あなたの手が人々を救い、笑顔と<幸運よあれ>ことをお祈りしております」
血管の中を女神の吐息が流れる。ああ、本当にいい女だなぁと、今さらながら名残惜しい。
でも耳には世界の呼び声が聞こえているのだ。
「行くよ女神様。2日間、本当にありがとう」
「はい、お気をつけて……」
彼はスリーズルグタンニにまたがると、そのまま地上へ飛び出した。ウルリカがまばたきした時には、彼は地上へ一直線。
天使の言葉どおり、またひとつ、転生勇者案内が終了した。
金色の軌跡を残して、世界樹から水滴が落ちてゆく。それが大地の渇きを潤す恵みの雨になるのか、水鏡を乱す波紋になるのか、まだわからない。
勇者の後ろ姿を見送って、女神たるウルリカは目をつむり、もう一度祈りをささげた。
「神よ、唯一神たるあなたを差し置いて、女神と名乗ったことをお許しください。もし彼があなたの名を穢したのなら、罪は私におあたえください。そして願わくは、彼と世界が手をつなぎ、仲良くいられますよう……」
世界樹の枝の先、大天使は4枚の羽をゆっくりゆらす。祈りの手をそのままに、目を開けて、そして思った。
(魔王……私はまた、あなたに剣をむけましたわ)
自分が送り出した鋭い切っ先を、魔王たる彼女はどう受け止めるだろうか。どう感じ、どうやって弾き、どのようにだますのか。あるいはついにその心臓に、天界からの殺意が突き刺さるのか……。
笑顔で命を奪い合った、あの日を思い出す。12分の1とはいえ命を差し出して味わったからだろう。あのポーカーゲームは人生で最も忘れられないひと時となっていた。
人を殺めるための時間があれほど充実していたなんて、どうかしている。
手をほどき、肩から力を抜いてあげた。スリーズルグタンニはもう地上に着いただろうか。
「まじめだねぇ、あいかわらずさ」
そんな彼女へ、背後から声がかかる。声の主は『婚姻の大天使』。時々やってきて、お茶を飲みながら自分を茶化して帰っていく、親友。
「グレース。きていたのですか。その様子だと、今日もお茶を?」
「ああ。ルーチェスターのド田舎から、ビスケットの供物だ」
グレースという名の大天使は、赤い髪の下に笑顔を浮かべながら、つぎはぎだらけの布に包まれた供物を見せた。一緒に送られてきた手紙を同じ手で器用に持って。
「それは素敵ですわね。どうぞ中に入って」
8枚になった羽をふわりふわりとゆらめかせて、ふたりの大天使はならんで歩く。目の覚めるような青空の下、シナモン色の家の中へ。
◆ ① ⚓ ⑪ ◆
供物へ、神と贈ってくれた人への祈りを済ましている間に、木でできた魔動人形がお茶の準備を終わらせてくれた。毎日毎日文句も言わず、主人へ奉仕してくれるその人形へ感謝したかったから、ウルリカは祈りの言葉へ「ぜひ、この子にも楽しみと喜びを」なんてつけくわえた。
祈りを終わらせ席に着く。机の上にあるティーポットとカップの横には、ふぞろいなおおきさのビスケット。豪華なまわりの品々に負けないよう、ちいさな山を作って背のびをしていた。とてもけなげでかわいらしくて、ふたりの天使は頬をゆるませる。
「『かみさまと、てんしさまたち。いつもみまもって、ありがと。でも、おなかがへると、おなかがなくので、たべてください』ってさ」
グレースは供物と一緒に送られてきた手紙を読み上げた。覚えたてのつたない文字でつづられた手紙に、ニヤニヤしながらビスケットをほおばる。少々寝ぐせの残る赤毛をゆらしながら「お、うまいじゃん」なんて言う姿は、とても大天使には見えない。
「お行儀が悪くてよ? グラは婚姻の大天使ですのに」
たしなめながら、自分もビスケットをひとつ手に取る。ゆがんでしまっている輪郭に、パサパサ感の残る表面。力加減を間違えれば、あっという間に小麦粉の破片になってしまいそう。でも作っている時についたであろうちいさな指のあとに、感謝の気持ちをいだかずにはいられない。
彼女は大切そうに、そのお菓子を口へ含む。サクサクと咀嚼したその口は、すぐに「うん、おいしいですわ」と語尾に音符のつきそうなほど満足感を告げた。
味気なくても、粉っぽくても、その言葉は嘘ではない。自分たちのためにこめられた真心が、極上の調味料になって舌を幸せにしているのだから。
「将来これを作った子が結婚するんなら、アタシは婚姻をつかさどる者として、獅子を倒すヘーラクレースみたいに張り切るだろうさ」
「お願いですから、その時にはこん棒を使ったり、両腕で強く絞めつけたりしないでいただきたいですわ」
クスクスと笑い合いながら、しばし談笑を続けた。ウルリカはともかく、グレースの仕事は天界の中でもとくに忙しい部類に入るため、ふたりで話す時間は貴重だ。
1時間くらい会話をしていただろうか。グレースが雰囲気を変えて問いかけをした。
「ところでウラ。今回の勇者はどうだったんだ? アタシには、アンタに鼻の下をのばしているように見えたぜ?」
「お年頃の男性であれば、それくらいは。彼はごく普通のかたですわ。まだ白いキャンバスにどんな色の絵の具で人生を描こうかと、画材店の棚の前で心をおどらせる若いかた。少々前のめりですから、下描きをせずに筆を走らせるのかもしれませんが、いずれ油絵のように色を重ねて厚い人生を描いてくださると思いますの」
「そうかい。でもアタシが聞きたいのはそんなことじゃないね」
火の色をした前髪の下、グレースの目が鋭いペインティングナイフに変わる。
「世界を傷つけやしないかって、そう危惧しているのさ。アイツが絵を描き損じるのは構わねぇが、この世界を自分の人生と勘違いされちゃかなわねぇよ。間違って穴を開けても、誰も裏打ちで補修しちゃくれないんだから」
「それは……できるかぎりのことは、お伝えしたつもりですわ」
「アンタはいつだってよくやってるさ、チュートリアル。それはアタシじゃなくたって、よく知ってる」
グレースが言わんとしていることはわかる。最近、天界でおおきくなりつつある勇者の悪行への危惧が、転生勇者案内人たる自分にむけられているわけではないという意味だ。そしてグレースはそれでも言わずにはいられないのだろう。
「けど『言いなりの仲間』だなんて、ずいぶんな固有パークじゃないか。ちょっと仲良くなっただけで相手に好意を植えつけられるんだ。信用の先に信頼が、信頼の先に親愛が、親愛の先に婚姻があるってのが正しい姿だ。花嫁を5人も選ぶことはできねぇよ。努力と思いやりを経て、1本の薬指に輪っかをはめるのさ」
「彼がゼウスのような振る舞いをすると?」
「そうは言ってない。アタシはただ、ヘーラーに同情的なだけだ」
「同じじゃありませんこと」
「これは同義語か? ならこんど、ケニングにして使おうか」
気が済んだのかグレースはケラケラと笑う。「結婚式以外でお願いしますわ」と苦笑しつつ、天界にたまった勇者への不満が憎しみに変わらないようにと、心で神に祈りをささげた。
(どうか慈悲を。死してここに訪れた彼らも被害者なのですから)
それでも、送り出した勇者の唱えたケニングが気になる。「我が生涯の1ページを開け」という言葉が、別のものに置き換わっていたのではないか……。
「で、ウラ。アンタの人生に婚姻が必要とされるのはいつだい?」
グレースが帰る間際に必ず聞く、お決まりの質問。いつもこの問いで自分を茶化して去っていくのだ。でも、このいじわるな言葉を吐く彼女の顔が、一番無邪気でかわいらしい。
だからいつもの、お決まりの回答を。
「私はいつだって、神様に一途ですわ」
「もしそんな日がきたのなら、アタシは12の命の全部を使ってでも祝福してやるよ」、そう言って赤い髪の大天使は立ち上がった。「じゃ、またな」、からっとした気持ちのいい笑顔で、部屋を温めてから。
「命を全部使ったら、星座になってしまいますわ」、ウルリカはひとりごち、後ろ姿を見送る。友人が去ったさみしさと、それ以上に彼女が訪ねてきてくれた時間に心地よさの余韻を感じながら。
正午を迎えた高い陽が、その光景をのぞきこんでいた。
2021年6月6日、それはこの世界ではめずらしくもない、よくある1日の姿だった。




