笑うノコギリエイ 後編2
トラックに轢かれかかっている女子高生を突き飛ばした、ところまでは覚えている。正確にいうと、突き飛ばした後トラックの顔面が自分にぶち当たり、視界がかき回され、脳髄に走る電気信号がバチバチと瞳孔を焼くところまでは。
彼女は助かったのだろうか。いや、きっと大丈夫のはずだ。なにしろ自分の人生で最大の決意だったし、最高の行為だったはずだから。そう思いながら目を覚ますと、そこは見慣れない明るい場所。そして眼前にいるのは羽の生えた天使。
息を呑むほど綺麗な、金髪の女性だった。
「ごきげんよう。私は転生をつかさどる女神こと、ウルリカと申しますわ。ぶしつけで恐縮なのですけれど、お名前をお教え願えますか?」
まったくわけもわからないままに、彼は突然の質問を受け困惑する。「え? え?」と声が出て、視線をあちこちへキョロキョロと。
今の自分の状況は、どうなっているんだろう?
どうやら椅子に座らされて、ここは晴れた綺麗な場所で、俺は服を着ていて。それから目の前の女性は美しくて、肌の露出もそこそこ多くて、ええと……なんて具合に脳を働かす。しかしこんな状態でも、服装のせいで強調された女神の胸に目が行くのは男の性か。
「……あ、し、失礼いたしましたわ」
視線に気づいたか、女神は上着で体を隠した。彼女の赤らめた顔が魅力的だったせいで、困惑は気恥ずかしさに。
「こ、こちらこそスミマセン! ええと、俺は滝川田一樹です」
若干声を上ずらせながら、一樹はごまかすように名乗った。見知らぬ人に声をかけられたのに、胸を凝視するとは「とんだ失態だ」と思って。
「いえ、お気になさらないで、イズキ様。あらためまして、ウルリカです。お名前から察するに日本のかたですわね?」
「あ、ええ。そうです」、無味な回答。日本人である以上、日本人と名乗るのに脳の容量を使う必要もない。けれどそんな言葉に対し、金髪の女性は「それはよかったですわ」と手を合わせて微笑むのだ。まるで心待ちにしていた人がきたかのように。
それはもう、天使が笑うかのような笑顔で……という形容は彼女にはふさわしくないが。
ようやく気恥ずかしさをとおりすぎたおかげで、一樹の心は平静を取り戻す。しかしそれは同時に、張っていた気が抜けることを意味していた。
(あれ?「転生をつかさどる」? そういえば俺、死んじゃった?)
現実を受け入れる時、「俺、死んじゃった?」なんて言葉は軽すぎるというもの。だが自身の死という重大な事実が、脳裏にこびりついているのを否定できない。あの速度のトラックにはね飛ばされて、次に意識が戻ったのは、病院ではなく雲の上だ。
急に全身の筋肉が仕事をあきらめて、椅子からずるりと落ちそうになった。
(マジか……ここ、あの世なのか)
「お、お気をたしかに!」、天使はあわてて駆けよって、座ったまま腰砕けになった一樹の体をささえた。彼は彼で天使のととのった顔立ちにのぞきこまれ、ドキッと心臓がAEDを受ける。
蘇生成功、一命をとりとめた。死後の世界で妙ではあるが。
「す、すみません、大丈夫です」、言った直後に「ふうっ」と一息。死というのは思った以上に、体に堪える事象だと理解できた。
「ご無理をなさらないで」
天使の言葉に甘え、一樹は膝に手をついて再度呼吸をととのえる。「まあ、死んじゃったなら、それでもいいかな」なんていう、投げやりな気持ちを心に持って。
(そんなにおもしろい人生じゃなかっただろうし)
思い浮かべるのは生前の自分。彼は就職活動真っ最中の大学生だった。本心で入りたいと思っていない企業へむけて、書いていて楽しくもない履歴書を送る日々。ただの義務感とか社会的な立場の保全とか、そういうことが動機の悲しい作業。そしてそんな努力に対し、繰り返される「今後のご活躍をお祈りしています」の文言。
正直嫌気がさしていた。
(めんどくさいことも、全部なくなったって考えようか。これで肩を落としながら文房具屋へ行かなくて済むし)
そんな彼にも友達はいたし、家族との仲も悪くなかった。お金はあまり持っていなかったが、生活に困窮するほどでもなかった。同時に恋人がいたわけでもなければ、心から打ちこむ趣味があったわけでもない。特別な才能も特別な容姿も持ち合わせていない。
もし彼の人生へ悪意ある誰かが墓碑銘を書いたのなら、「退屈――平凡、ゆえに平和」などと記したことだろう。当の彼だって人生の薄さに、薄々気づいてもいた。
(死んでも別にいいやって、思ってたっけ)
「死んでも別にいいや」の理由は、消え去りたいからではなかった。死んだらあの世か来世で楽しいことにでもめぐり合いたいと、なんとなく、漠然と考えていたからだ。
そう、まるで――
(あれ?)
今の状況のような。天国みたいなところにいって、女神様に出会うような。
(これって……)
ふつふつと湧き上がる、望外の喜びへの期待。もしこれが転生なる現象だとしたら、今自分は生前に夢見ていた世界にいるのではないか?
(こ、これって「あれ」だよな? 本当にそうだよな? 期待していいのか? 脳死の俺が見てる夢じゃないよな?)
「あ! あの!」
彼は急に顔を上げて、女神を驚かす。「どうしましたか」という言葉が返ってくる前に、どうしても確認したくなったことが彼の口から飛び出した。
「俺、まだ続きがあるんですか⁉︎」
「……はい、イズキ様の人生には、続きがございますわ」
「じゃあ、俺は異世界に転生したんですよね⁉︎」
淡い期待を、希望に変えて。
言葉を聞き、女神は微笑む。その口に、一樹が一番聞きたいセリフをたずさえながら。
「はい。それでは『あなたは勇者として、異世界へ転生した』という言葉を、受け入れていただくことはできますかしら?」
「は、はい! もちろん!」
「まあ、それはよかったですわ」
そう、そうだ。これは異世界転生なんだ。そう確信したことで、彼の心臓は鼓動を速めていく。アニメやマンガの中の話が、突然目の前に扉を開けて自分をまねき入れたのだから。
(嘘だろ! 信じられない!)
そこには死に対する悲壮感などなく、甘い砂糖のような喜びだけがあった。
「さっそくで恐縮ですけれど、現状をお話しさせていただきますわ、イズキ様」
そんなものを摂取したせいで、そこからの彼は少し記憶が飛んでしまった。麻薬でもキメたかのような多幸感に見舞われて、せっかく女神が話をしてくれたことがらも、一部しか覚えていられない。案内は1時間以上あったのだが、彼は自分が元の世界に帰れないこと、この世界は現代地球ほど文明が進んでいないことなど、断片的な情報だけを頭の片隅に残すのみ。
しばらく説明を聞いていた一樹に、潮騒のような女神の声が聞こえた。ようやく幸福トリップから帰還したのだ。
「……と、今お伝えしても、すべてをご理解いただけるわけではありませんよね? 少しの間、天界にいらっしゃることになると思いますので、またあらためてご説明いたしますわ」
「ありがとうございます。正直、俺にとって願ってもない話になったので嬉しすぎて」
笑顔を浮かべる一樹とは対照的に、女神は目を閉じ、口をつぐむ。なにかいうのをやめたような所作に、彼はなんとなく、前の世界への未練を聞こうとしたのだろう、という雰囲気を感じとった。
数秒の沈黙の後、彼女は言おうとしていたことのかわりに、「忘れないでいただきたいこと」と前置きして話を続けた。
「転生されたかたは性格が変わる、と言われておりますわ」
「性格が? 転生って、精神的な影響があるんですか?」
「はい。世界を渡る時、死の恐怖に対抗すべく、前むきに大胆になるのだと。イズキ様も例外ではありません。これからあたえられる強い力、この世界では勇者以外持ちえない強力な能力も、おそらくそれを後押ししてしまうのですわ。そして力を振るうことに、つまり生物の死に対して鈍感になることも」
懸念を伝えるような言い回し。力を持った者に欲望のまま力を振るわれる、そんな危惧が言葉の端々を飾る。
「『世界の架け橋は、一方通行のビフレスト』などと言われてもいます。どうか力におぼれぬよう。そして、この世界を踏みにじらないでくださいまし」
「もちろんだ! そんなことはしない!」
「ありがとう、イズキ様」
さみしさや悲しみが香る表情に、少し罪悪感を覚えた。勇者――転生した強い者というのは自分以外にもいて、その先輩がたの中には悪人もいたのだろう。同じ転生者として、申し訳ないような気持ちになる。
しばらく、そこには沈黙があった。一樹が少々気まずくなるような、そんな間だった。どんな顔をしていればいいかわからず、眉をよせてしまう。その表情へ、天使は「いえ、すみません」と声をかけた。ふわりとした微笑みを、その顔に戻しながら。
そして彼女は仕事を再開する。勇者へこの世での人生を楽しんでもらうために。
「さあ、イズキ様。あなたがどのようなかたで、どのような力を得られるのか、気になさっているのではないでしょうか? そこで、魔法の言葉をお渡ししたいと思いますの」
「ああ、わかった。いや、お願いします」
「はい。では『我が生涯の1ページを開け』と、お唱えくださいまし」
「オープン・ステータス」のその一言。それが登場しただけで、一樹のしんみりとしていた心のコップが、冒険心にあふれかえる。
(「ステータス」だって⁉︎ そうか、ステータス魔法か!)
彼の感じていた「お約束の世界」ならば、あってしかるべきもの。自らの状態をしめす魔法であり、願わくは自らの強さを証明するためのもの。
右腕に強い力を感じた。いつの間についたのかおおきな火傷あとが、ここが魔力の源なのだと持ち主に主張する。
「わかった」、彼は力強くうなずいた。
きっとこれは、成功への1歩目だ。いろいろな企業が口からたれた「ご活躍をお祈りしています」の「ご活躍」の部分が現実になる。この先、新しいページを楽しい絵の具で塗りつぶす、そんな日々がはじまるのだ。
強く息を吸い、そして吐いた。
「――<我が未来に栄光あれ>!」
呪文を唱えると血管に風が流れるような感覚。それは退屈だった前世に別れを告げる、汽笛のようにも感じた。証拠に、目の前には1ページ目が開かれた航海日誌のようなものがあらわれる。
「お、おおっ!」
それは光るフレームと文字でできた、宙に浮く本だった。12の星座がならぶページの横へ、それぞれの「能力値ボーナス」に関しての記述がなされた、まさにビデオゲームのキャラクター作成画面だった。
ともすれば、ビデオゲームで一番楽しい場面だ。ゲームを買った後、数時間も進捗が止まってしまう、麻薬のような。
天使がふわりとしたいい香りをただよわせながら、一緒にのぞきこむ。
「イズキ様は『簡易ビルド型』と呼ばれるタイプですわね」
「簡易ビルド?」
「ご説明しますわ。これまた少々長くなりますけれど」
女神は笑顔で転生勇者案内を開始する。嬉しそうな表情に、イズキもつられて頬をゆるませた。
そして10数分後、職業の欄を埋めたことで、彼は『勇者』になったのだ。




