笑うベースボール 33
3塁から足を離し、全力疾走しようとしたノエルが見たもの。それはベースコーチの骨36号が、両腕でおおきくバツマークを描く光景。
つまり「走るな!」という意思表示。
「やっば!」
踏み出した足を突っ張って、脚が折れそうなほどブレーキをかける。重心を踏み出した脚から残された脚へ移動させ、上体をねじりながら3塁へむき直る。
返球はもう、落下地点から本塁までの3分の1を消化していた。そして悪いことに、その線上には両チーム最大の守備力を持つ、リザードフォークのショートもいた。
アミがしていたのは奇妙な動作だ。太い尻尾だけで体を持ち上げている。でもノエルには危険性がよくわかった。
あれはあのまま、尾でジャンプする気だ。本塁への返球を途中でカットし、3塁から飛び出した自分をアウトにしようとしているんだ。
「ぁああっ!」
少年は頭から3塁へすべりこんだ。自分の体が土の地面をこする音と一緒に、「バシッ!」という捕球音、「シュッ!」というボールが空気を裂く音がした。雪山で行き倒れた人のように、片手をのばして3塁ベースに触れたあたりで、3塁手のグラブのあたりからも派手な捕球音が聞こえる。
(……ど、どっち?)
「Safe!」
(よかったぁ……)
危険なことこの上ないプレーだったけれど、まずはアウトにならなかったことへ、ほっと胸をなでおろした。ベンチを見ると、みんなも安堵の表情を浮かべていた。いや、安堵というよりも「背すじが冷えた」なんてため息をついている感じだ。これはちょっと、悪いことをしたのかもしれない。
「スケルトン、ありがとう」
ベースコーチへお礼を言いながら、ノエルは土まみれになったユニフォームをパッパッと手で払った。ズボンが白だから汚れが非常に目立つ。
これは戦いの痕跡だ、そう思うと嬉しくなる。自分も戦えていると、目で見てわかるから。
……もうちょっとましなやりかたがあったかもだけど。
一方で試合は予断許さぬ状況でもあった。もはや外野フライ程度では得点など取れない。あの魔球からヒットを打つか、フォアボールや暴投などのミスを期待するかしかない。
そのどちらも許してくれなさそうな相手へ対峙するのは、魔界の4番バッターになった。今日1本塁打を記録しているフェンリル狼だ。猛打賞の骨53号とならび、相手バッテリーへ最警戒態勢を敷かせる強打者だ。
その彼も「もう一発打ってやるぞ」なんて雰囲気ではない。新たな投球方法を身に着けた勇者に対し、軍事大臣の彼らしく「城壁をひとつ越えたら、もうひとつあったのかよ」と頭をかいていた。
バッターボックスでバットをくるりとまわしながら、唯一の作戦を頭に浮かべる。先の打席で自ら思った「バカのひとつ覚え」、カット戦術だ。それしかない現状に、俺は本当に馬鹿なのかもしれないと天を仰いだ。
1球目、狼はとにかく軌道を心へ焼きつけようと、金色の目を見開く。丸い瞳孔がボールの縫い目すら見逃すまいと、光を取りこむためくわっと開いた。得られた情報はというと……。
(ボールが上へ逃げるように見えるな。どうやって打つんだ、これ)
首を振るしかない。少なくともバットに当てられないと、ひとつ覚えでバカな方法すら取ることができない。そう思ってふと苦笑した横顔が、バックスクリーンに映し出される。
それを見て歓声を上げるのは、感情がないはずなのに、今日はやたら生き生きしているオートマタの観客たち。試合も終盤ということで、常にやかましい。1塁ベンチ上のトントゥたちも、今日なんどめかのひまわりの種をおかわりしながら、ビール片手にバタバタと騒いでいた。
これぞスポーツの雰囲気、誰かがそう言ったら、否定する者などいないだろう。
でも両チームの選手の中で、この喧騒を楽しめている者などほとんどいない。誰ひとりミスの許されない大事な場面、自然と精神は研ぎ澄まされ、観衆の声は遠のき、この広いフィールドでたった1球だけの白いボールだけに集中している。その行方次第で勝負が決まり、自分が勝者側になるか敗者側に落ちるか決まるのだ。
そして、そのボールを握りしめるのは、ほとんど唯一この状況を楽しんでいたイヴォだった。彼には歓声も、敵味方の緊張もよくわかった。なにしろこのフィールドを創ったのは自分自身の固有パークなのだ。ドーム内の熱狂が魔腺に伝わり、血管から血流をとおして脳に伝わり、そこで喜びの感情になって彼の顔に出ていた。
(なんて楽しいんだ)
その表情が不敵な笑みでなかったのは、彼が固有パークの力をフェアなものにしていたから。自分のチームに有利になるようなルールなど制定せず、真正面からぶつかりあう勝負を望んだ。そして今、楽しくてしかたない。9回裏で1対1なんていう均衡の取れた勝負において、1アウト満塁の最大のピンチで迎えたのは、魔界の4番という最高の敵。
(これだけでも魔王に戦いを挑んだかいがあった)
くわえてもうひとつ、彼にとって喜ばしいことが発生している。言わずもがな、新しい球種を覚えたことだが、その裏には彼のスポーツマンとしてのプライドが満たされたからでもあった。
彼は先ほどまでベーブ・ルースの力を借りていた。彼が偉大に選手に違いはないし、力を借りたいと思ったからこそ降霊術を実施したのはたしかだ。しかし時にプライドの高いスポーツ選手――自分こそが一番だという固い信念を持つ者にとって、野球の神様を自身へおろすのは一種の妥協だった。本当は自分の力だけで打者を打ち取るなり、本塁打を飛ばすなりしたいのだ。
そしてイヴォは自分の力だけで新しい球種を手に入れた。苦労をして探索した宝守迷宮で、とびっきりの宝箱を開けた瞬間のような喜びだ。
(この力は一生ものだな。イーダさん、君に感謝しよう)
2球目を振りかぶり、そして投げる。腕をなるべく縦に振り、ボールをなるべく粘り強く持ち、リリースのその瞬間に残った最後の指2本を「まわれ!」との感情とともにぐうっと押しこむ。そうやって最高のバックスピンをかけると、それは魔球になった。魔界の魔女、それも少女が自分に教えてくれた、今までで一番気持ちのいい直球だ。
(そして俺はこの力で、どうしても勝利が欲しいのだ!)
「Strike, Two」
相手が空振りしたから、審判のコールは控えめ。だが、あの主審のオートマタすら状況を楽しんでくれている様子。これも嬉しいことだ。魔界からまねいた妖精たちも、身振り手振りで盛り上げっている。
(さあ、決めてしまおう)
球速は時速150キロ代後半を維持できている。習得した直球もかなり慣れてきた。9回を終えれば魔腺疲労は回復する。その後、この球を177km/hで放るのはどんなに爽快な気分だろう。
セットポジションから踏み出して2つ目のアウトを取らんと、彼は吼えた。「がぁっ!」というその叫びは、雄たけびの得意なフェンリル狼をも飲みこんでいく。
ボールをバットが叩く音。でも問題を感じる音ではない。バットの根本側に当たったあれは、いわゆる「つまった当たり」だ。ふらふらとセカンドの位置へ飛んでいるから、飛距離など出ようはずもない。いやむしろ、内野に落ちるくらいにはのびていない。
となると、あのルールの出番だろう。
2塁塁審が上空を指さした。
「Infield fly!」
その声に他の審判も追従する。そして、次のコールが告げられた。
「Batter is out!」
――インフィールドフライ。
「野球のルールは難しい」なんて話をする時、かならずといっていいほど引き合いに出される特殊なルール。うるう年のように時々あらわれる、誰でも存在を知っているが、その存在理由の説明は少々難しい、そんなマイナールール界の人気者。
無死または1死の状態、かつ走者1・2塁または満塁のような場面において、内野フェアグラウンドへ「野手がエラーをしなければ簡単に取れそうな」フライが上がった時のみ、このルールは顔を出す。インフィールドフライが宣告されると、即座に打者はアウトになる。たとえ野手がボールを取り損ねても。
これは、野手がわざとボールを落とし2つ以上のアウトを取る、なんて行為を防止するためのものだ。つまり満塁の現状において、今セカンドがボールを落としたら、走者には進塁の義務が発生する。なら近場の2塁へボールを投げ1アウト、本塁なり1塁なりへ送り2アウト、それでチェンジだ。このルールは、そんな行為を禁止していた。
だからこの人気者、ミスター・インフィールドフライは気難しそうな顔をしていた。「全力でのプレーこそ至上主義、手抜いてアウトを稼ごうなど許さん」なんて息巻いて落ちてくるのだ。ゆえにセカンドは取らなくても問題ないボールをちゃんと捕球しなければならないし、悪い狼だって頭をかいてベンチへ下がるしかない。
さらに厳格である彼は、3名の走者へ「取られたからにはボールインプレーだ! わかっておろうな⁉︎」と凄む。取られればただのフライと同じなのだから、離塁していればフォースアウトになる危険がある。そんな声に3名の魔界の住人は、それぞれいったんは自分の塁を踏んだ。
歓声がドームの中を埋めつくす。勇者を応援する空気が満ちあふれ、ここにきてヴィヘリャ・コカーリは「そういえば、悪者といえば俺たちだったな」なんてことを思い出していた。
観客たちはよくできたものだ。このルールの意味を理解した上で、大歓声を上げて見せているのだから。状況がわからずにオロオロするのはトントゥくらい。でも彼らはひまわりの種とビールさえあればよかったので、機嫌よくしていた。
(あとひとり。しかし……)
その歓声の中心で、イヴォは自分の右手を見る。人差し指と中指の爪が割れかかっている。
(いや、持たせよう。どのみち投手は俺しかいない)
そんな決意を知ってか知らずか、捕手が立ち上がった。そっぽをむく審判へ「タイム」と要求し、マウンドへ駆けてくる。それを見た3塁の狐男も、遊撃手のトカゲ女も、2塁手の狼女や1塁にいた弱気なオークも勇者の元へ集う。
守備側のタイム、たった30秒の休憩時間。
捕手が口を開く。
「爪、大丈夫?」
「ああ、いける。防御魔法を使う」
イヴォはボールを右手でもてあそび、余裕を演じて見せた。それに対し、3塁手から1塁手が次々に声をかけた。
「がんばれよ」「イヴォ様、がんばんな」「アタシもがんばるから」「僕も、僕だって!」、ただただ簡単な応援だ。けれどそれは「がんばれ」と言っているのではない。俺たちも一緒にいるぞと、そういう態度をしめしてくれているのだ。
マウンドは時に孤独だ。みんなそれを知っている。
「今の俺は、球を投げれば負けない」
勇者は笑って答えた。
その時、意外な声がした。会話へ続くかのようなタイミングで、1塁走者――眼鏡をかけた四大魔獣のひとりが声を出したのだ。夕暮れ時のカラスのように、よくとおる声で1塁側の観客席へむかって。
「トントゥたちよ! ドクからの忠告だ!『あまり飲みすぎるな』とな! ほどほどにしておくがいい」
マウンドに集まった全員がそちらを見た。「なんだ、相手もやる気満々じゃねぇか」、「全然動揺しちゃくれないね」、勇者は仲間のつぶやきを聞き、しかし違和感を覚える。
それは相手の1塁走者に対してではない。1塁塁審の立ち姿に対してだ。
彼はベースを注視している。まるでプレー中、ジャッジの瞬間を待ち構えているように……。
(プレー?)
この時イヴォの心には、遠くで緊急事態を告げるサイレン音が聞こえていた。それは「どんな事態か考えろ」と言っているようだった。今この球場、この9回の裏2アウト満塁の状態は、いったいどんな顔をしているのか、と。
今はボールデッドの状況下にある。捕手のエーズがタイムを要求したのだから。ゆえに今すべてのプレーが切れていて、30秒間の短い休息があたえられているわけだ。
(だが、この違和感はなんだ? なにかを見落としたか?)
その考えは最初、ささいな危惧だった。道端のちいさな石、とでもいうくらい、ちいさな問題に思えた。でも勇者は集中して考える。ゾーンに入った選手のように、0.1秒ずつ考えを深くしていく。
時間を重ねれば重ねるほど、路傍の石は積み重なり、かさを増していった。捕手がタイムを要求した時、なぜ主審はそっぽをむいていたのか。1塁走者はなぜこのタイミングで、あんなことを大声で言ったのか。
この状況で考えられる、最悪の状態はなんだ? なにがこんなに違和感を生んでいる?
(あの時、俺は3塁走者を見ていない)
インフィールドフライが捕球された後、3塁走者の少年が帰塁したのだけは目の端で見ていた。だが直後に視線は、爪の傷んだ自分の右手へ移動した。その後、割れた爪へ「少々なら持ちそうだ」と思っていると捕手エーズが立ち上がった。これで間違いはない。
そのタイミングでタイムがなされた。いや、正確にいうとタイムが要求された。
だが――だがその時、3塁走者はなにをしていた?
少年は3塁ベースの上で、本当にじっとしていただけなのか?
もし彼が離塁して、プレー続行の意思を見せていたら?
もしそれを審判がちゃんと見ていて――
――タイムが認められていなかったら?
1秒、たった1秒の迷い。
「――<突撃>」
「ボールインプレーか⁉︎」
叫ぶと同時、全速力で走り出す。リードを取っていた3塁走者と、マウンドから駆ける自分。目指すはともにホームベース。
本来そこにいる捕手は、先ほど自分を気遣ってマウンドにいる。だからこのグローブにおさめたボールでもって、あの少年にタッチしなくてはならない。
(ああ、そうだ! タイムは認められていない!)
インフィールドフライの直後、3塁走者は正しく帰塁し、そして正しくプレー続行の意思を見せた。その場合、審判は守備側のタイムの要求を拒否する。
プレーが続いている状態なのだから。
「Kurva!」
生前、暴走トラックを見た時と同じだ。放った悪態を置き去りにして、イヴォは突進していた。彼の信じる全身の筋肉が筋力となり、走力を生み、すさまじい速力を発揮して魔界の少年へ追いすがる。
残り5メートル、3メートル、1メートル……。
イヴォは左手を出しながら、空中へ低く身を投げた。はからずもそれは少年と同じ所作で、違うところがあるとすれば、彼は右腕をのばしていたことだ。
(――間に合え!)
ボールを入れたままのグローブが、少年の体にせまる。彼の肩でも背中でもいい。彼がホームベースへ触る前にタッチできれば。
ズザァァ! ふたりが突入した本塁上へ、土が巻き上げられる。球場は、今日さんざん痛い目にあってきた。バックネットや1・2塁間の地面を痛めつけられ、そのたびに誰にも聞こえぬ悲鳴を上げ続けてきた。
でも、この時だけは違った。
舞い上がった土の塊たちは、いっせいに放たれた打ち上げ花火のように、空中でぱっと散って――
「Safe! Safe! Safe!」
少年を讃えた。




