笑うベースボール 31
勇者が心を躍らせる、その理由はひとつでなかった。ゆえに、火に火を足したら炎になるのと同じく、彼はタップダンスを踊りながらフィンガータット――指と腕だけのダンスを決めているかのようにテンションを上げていた。
マウンドで感情を顔に出すタイプではない。でもこの時ばかりは微笑みを浮かべたのだ。
そこにあった感情のひとつは、彼自身の心境。目の前の強敵といかに戦い、どう打ち破るか。考えるだけで腰や背中へ喜びが走り、ついてもいない尻尾を犬のように振ってしまう。散歩を待っていた犬か、給料日にスポーツ店へ繰り出している時か、そんな辛抱たまらないワクワク感があった。
もうひとつの感情は、彼の心の中にはない。彼に憑依した魂のものだ。そこにいる稀代のホームラン王は、同じ時代に活躍した男が打席に立っていると気づいていた。あの油断ならなくて、意地が悪く、ショーマンシップに欠ける……しかし偉大な選手のことを。
(そうか! 彼女はタイ・カッブを呼び出したのか!)
自身におろした霊から言われずとも伝わる。
(それなら容赦のしようもない! 初球は直球勝負と決めた。打てるものなら打ってみろ)
捕手のサインも出る前に、イヴォは勝手にそう決意する。もちろんそこは相棒のこと、ピタリとこちらの狙いを呼んで、脚の間に立てる指は1本。つまり直球だ。ミットは外角低めの位置へ。長打になりにくい、といわれている場所だ。
(――行くぞ)
おおきく振りかぶり、全身の筋肉へ総動員令を発令する。もはやこれは勝負というよりも闘争であり、戦争であり、イヴォの体の中にある筋組織という筋組織を聖域なく徴兵せしめるのだ。
初球、当然の権利のように時速177キロをマークした。フォーシームの剛速球が、まばたきを許さない速度で徹甲弾のように飛ぶ。
対して魔女も、初球から動いた。見送る気など毛頭なかったに違いない。足を踏み出し、体をツイストさせて、バットの先端へそう重くない全体重を乗せるように振った。
カッ! 下側を強打されたボールが、バックネットを虐待しに飛んでいく。緑の網はいいかげん悲鳴の声も枯れはてて、剛速球の激しい余韻へ体をブルブルさせていた。
(なるほど、今までのやつとは違う。疲労を促進するタイプのカット戦術ではない。あきらかに狙っているか)
捕手からボールの返球を受けながら、心地よい悪寒が背すじを駆けた。あの低い球の下側を叩いたというのは、バットを低く振る準備ができていたことをあらわす。下からすくい上げて長打にしようとした意図が感じられた。
(ではこれはどうだ)
2球目は真ん中を狙って投げた。霊の癖である、舌出しを必死に我慢しながら。
110km/hのカーブボールだ。先ほどの直球との速度差で困惑させ、振れば打者の足元へ逃げていく意地の悪い球だ。
(どうだ?)
投球はグイっと鋭く曲がり、捕手のミットにおさまった。
「Ball」
(振ってくれるほど甘くないか)
魔女は目つき鋭く変化球を見送り、いちど打席から2、3歩引き、バットを2回素振りした。その所作はプロ野球の選手そのもので、ただの素振りなのに強者のオーラが出ていた。それに表情は冷静だ。じっくり次の球を待つ、甘い球がきたら絶対逃さない、そう小柄な体から通告しているようでもある。
(おもしろい。最高だ、と言ってもいい)
ついに微笑みが「笑い顔」と表現されるほどにほころんできた。逆にボールを持つ手はかつてないほど力が入り、このままぐしゃっと握りつぶす未来すらイメージできるほどになった。
続く3球目。さすがに力が入りすぎ、高めにはずれボール球。これはよくないと肩をほぐし、4球目を放る。真ん中低めの直球は、カァンと快音を残したものの、ライト線へ切れてファールになった。
はっとした表情で打球を追った勇者だったが、打者に振り返った時には笑顔に戻っている。
(っと、肝を冷やしたな。パワーもあるとは。……『最高』の上の表現は、なんという気分になるのだろうか)
彼といったら、もはやトップギアに入ったままアクセルが戻らなくなったレーシングカーのようだ。太い筋肉がおおう全身へ血管を浮かばせながら、放射する熱量でかげろうを作り続けている。
(ともあれ追いこんだ。遊び球なんて必要ない。ここで決めてしまおう)
捕手の要求はこんども望みどおり。要求は内角低め、ストライクゾーンにぎりぎり入るストレート。まったくよくできた女房だと、イヴォは剛腕を振るい177km/hを打ちこんだ。
しかし、その球は思わぬ結果を見せる。
カッといい音が鳴った直後、真下に飛んだボールは……ボコォっと魔女の右脚の甲へめりこんだ。
――自打球。自分で打った球が自分に当たる、予想していないがゆえ非常に痛い失敗の一種。
「あぁぁっ! 痛ったぁああ、イムぅっ!」
「Time!」
転げながら、痛みを訴えながら、タイムを要求する。スイッチピッチャーばりに器用な行動へ、イヴォも、ついでに憑依した野球の神様も動揺を隠せなかった。
すかさず魔王チームのベンチから、ペストマスクの男が駆けてくる。「骨折かい⁉︎ そうだといいね!」などと喜びながら走る彼は、いったいどちらの味方なのだろう。
(……いや、落ち着こう)
とりあえずおおきく息を吐いて、勇者は加熱しすぎた体からSF映画のロボットのように蒸気を排出した。
一方の魔女だったが、そんなおもしろい光景を見ることもできず、土の上をコロコロ転がっていた。
「痛ったぁ! 痛いぃ! ドクー! ドクー!」
まるで戦場で衛生兵を呼ぶ兵士だ。それも無理からぬ話ではある。この時、彼女の右足の骨、具体的には中指の中足骨にはひびが入っていた。
「うん、僕はここにいるよ。ちょっと見せてもらうね」
ようやく医者を見て安心したイーダは、半べそをかきながら靴を脱がしてもらう。ソックスもはぎとられると、中指のつけ根が真っ赤になって腫れていた。
「いいぃい……。どう? 折れてる?」
「……突き指だよ」
「ちゃんと診て。そして治してぇ」
「うん。<ᚾ、傷を癒せ、ᚻᛖᚪᛚ>」
ほわわ、と淡い光が患部をつつみ、そして砂場に砂山をならすようになでていく。数秒後には赤い腫れも、その痛みもなくなっていた。
「おぉ! すごい!」
「じゃ、僕はこれで」
天使は治療が終わると、患者に対する一切の興味をなくし、スタスタとベンチへ下がる。魔女は複雑な表情で、後ろ姿へ「ありがとう」とお礼を言った。
立ち上がり、気を取り直して打席へ戻る。
(うう、痛かった。……ちょっと打席の後ろ目に立とうかな。また内角を自打球したら嫌だし)
痛い思いをして弱気になった。そんなの選べるほど余裕がないというのに、だ。だからすかさず、力を貸してくれている偉大な選手から喝が入れられる。
――打席で怖がるな――
(は、はい!)
球聖にぴしゃりと叱られて、魔女はあわてて立ち位置を戻した。気持ちを切り替えるため、腹筋へむっと力を入れてみる。痛みにバタバタしてしまったが、あと1球ストライクを取られたら終わり。追いこまれているのだ。
(どうしよう。どんな球がくるんだろう?)
ここは、怒られついでに次の投球を聞いてしまおう。そう考えて「どう思いますか?」と直球を放る。言葉での返答はなかったものの、頭の中にコースが見えた。
内角低めの直球。先ほどと同じコース。
直後、そのコースを寸分たがわずなぞるように勇者の6球目が飛んできた。予想していたからか、あるいは球聖のおかげか、いつの間にか体が反応し、バットが白球へむかって走る。
カッ、ボコォ!
自打球。
「なぁぁん! 痛い! いったい! Time!」
「Time!」
無様な少女は不調を起こした動画再生ソフトのように、まったく同じ動きで地面へ転がる。走塁をしてもいないのに、ユニフォームを土まみれにしながら。
さっきと同じ、右足の甲。
「また骨折かい⁉︎ それとも突き指かい⁉︎ 期待に応えてくれて嬉しいよ!」
さっきと同じ、嬉しそうな医者。
「早く治してぇー!」の叫び声と同時に、さっきと同様手際のよいドクの治療がはじまる。それもすぐに終わり、魔女は再び打席へ立つのだ。
でも痛かった記憶が腰を引けさせる。もう半歩だけ、後ろに下がりたい。
(……だめですか?)
――だめだ――
(ハイ……)
涙目ついでに目を曇らせて、彼女は恐怖の7球目を待った。当然その所作は間近にいる相手捕手へバレバレ。これだけ内角を意識させれば、わかっていても外角の球なんて打てっこないと、勝負を決定づけるため、決め球を要求する。
魔女の目には、振りかぶる勇者が恐ろしく見えた。彼はまた私の内角に投げこんできて、それをカットしようものなら「ボコォ」ってなるに違いないのだ、と。
外角低め、160km/hの高速シュート。いくら球聖の加護があろうと、外側へ逃げていく変化球を、腰の引けた魔女が打てるはずもない。
ボールが遠くをとおりすぎ、バットがむなしく空を切り――自身の三振を悟った魔女が、ズバァン! というミットの音を予感した。
まさにその時。
ビシッと聞き慣れない音がした。発生源は彼女の左後方、キャッチャーの位置。
同時になぜか、イーダは1塁へ走っていた。間違いなく三振を喫したのにもかかわらず。彼女自身が判断したのではない。それはシャーマニズムで呼び出した霊の助けによるものだった。
(今のは――捕逸⁉︎)
捕逸とは捕手がボールを取り損ねること。すなわち今はまだボールインプレーであり、三振した者にも1塁へ進むチャンスがあるということ。
走り出して(正確には霊により走らされて)ようやく、なにが起こっているのかを理解する。
――自分は今、『振り逃げ』をしている。
振り逃げとは、1塁があいている状況で捕手が取り損ね、かつ打者が走塁をあきらめていない場合に発生する。打者には三振が記録されるものの、まだアウトとは認められずにプレーが続く状態なのだ。
(さっきのは私の外角へ逃げるシュート。そっか、捕手は右手にキャッチャーミットを持っているから、左に逃げる球を取り損ねちゃたんだ!)
考えながらも足は止まらない。硬い土の地面をスパイクの刃が噛んだ。どこからともなく――全力で駆けろ!――という男の人の声がして、言われるがままに猛然と1塁を目指す。そして自分の背後から1塁へ飛ぶボールの悪寒を背中へ感じた時には……。
「Safe!」
1塁を駆け抜けていた。
(や、やった!)
若干見苦しいところを見せたが、結果は一人前のもの。ノーアウトで出た1塁走者へ、観衆も歓声で答えてくれる。ついでに観客だけじゃなく、1塁ベースコーチの位置からも賞賛の声がかかった。
「イィーダッ! ナイスラン! ナイス逃走!」
「ありがとうアイノ。球聖に助けてもらったよ」
1塁ベース上に戻って、グータッチをしながら「にへへ」と笑う。救聖へ「助かりました」と、心で頭を下げながら。
――君の勝ちだ、よくやった――
嬉しい言葉。心がほんわり温かくなる。球場の大歓声も嬉しいのだけれど、球聖のひとことはやはり格別なのだ。
でも今は、それを気のすむまで味わっている時じゃない。大物ふたりを降霊させて、魔腺疲労もはなはだしい。タイ・カッブさんは走塁も抜群にうまかったけど、現在の自分ではその力を100パーセント引き出せないだろう。
せっかく塁に出たのに、なんとも名残惜しい。とはいえ、試合に勝つことこそ命題であり、自分が活躍するのは二の次でいいのだ。
「審判さん、タイム。それから選手交代を」
魔女はそう言って自身へ代走を出した。すぐにノエルが呼ばれ、彼女と入れ替わる。彼は泣いていた時と別人のような、凛々しい顔をして1塁へ陣取った。
その横顔を、ベースコーチの潜水艦は頼もしく思った。少々頼もしすぎて、癪に障るくらいだった。いつもは泣き虫で弱気な男子が、今や野球選手の顔になっているのだ。今すぐ『バブルパルス』をお見舞いしてやりたい気分だ。
とはいえ潜水艦も時には空気を読む。普段は空気のない水中にいるにもかかわらず、しばしば息継ぎをするかように、まじめな顔で現状へ当たるのだ。
近づいて耳打ちをした。
「リードは控えめでいいよ。今の勇者は絶好調だから、無理しないことだね。でも盗塁のサインは逃さないように」
「うん、わかった」
返事の声色も明快だったので、アイノは大丈夫と判断して所定の位置へ下がる。問題の絶好調勇者は、タイムの時間を利用して捕手と打ち合わせをしている最中だ。
「――<聴音開始>」
加熱する魔腺へ鞭打って、盗み聞きを開始した。「ごめんなさい。変化球、キレがよすぎて取れなかった」「構わない。魔腺疲労はかなりキツいが、むしろ燃えてきた。それにな――」
(おや?)
あの勇者がへこたれることなどない、それはわかっている。でもあの筋肉男はそれにくわえ、なにかをたくらんでいる様子だ。
「俺に考えがある。ちょっとチャレンジさせてもらう」
捕手は無言でうなずいて、そのチャレンジとやらに了承した。
(まだ一波乱ありそうだなぁ)
口をイーとした顔で、潜水艦は成り行きを見守ることにした。




