笑うベースボール 30
魔女はベンチへむかって歩く。ふぅぅと長く息を吐きながら。
力を借りたサイ・ヤングさん。『サイクロン』のあだ名のとおり、彼の直球はうなりを上げた。魔女は彼の力を最大限利用するため、腕にルーンをひとつ刻んでいた。グローブを外した左手で、それが描かれた右腕を、ぎゅっと服の上から押さえつける。
「ありがとうございます」
感謝を口にした。
今回利用したのはᚼ、すなわち蛇のルーン。魔女が企図したのはバックスピン量の増加だった。弓のᚣとか、弓の原材料になるイチイのᛇとかでもよかったのだが、渦巻く動作を強調したいと考えて、とぐろを巻ける蛇にした。詠唱は「ᚼ、嵐よあれ」。魔術をかける対象は、ルールが禁止しているボールではなく、許されている自分の腕。このあたりのあいまいさというか、術者の都合よく効果を発揮してくれる柔軟性において、言遊魔術の右に出る魔術はない。
契約に応じてくれた彼の力は、魔力で強化したのもあり、とにかく絶大だった。1球目を投げた時点で、イーダが「これはずるでは?」なんて疑問をいだくくらいだった。結果、わずか9球で三振3つ。この思い出は一生ものだ。記憶の棚の一番目立つところへ飾っておきたい。いつでもすぐ視界に入る位置へ。
一方、効果が絶大だった分、代償も絶大だった。
(つ、疲れたぁ……)
体感、自分が耐えられる魔力の半分くらいは使ってしまったようだ。慣れない魔術だから魔腺疲労がおおきいことは覚悟していたが、それでも9球ボールを投げただけでこれ。この短時間でこれだけの疲労は、魔術を覚えたての時以来かもしれない。別の惑星から世界トップクラスの大物を呼べたのだから、受け入れなくてはならないけれど。
テクテクとベンチに引き上げながら、イーダはこの戦いに続きがあることを忘れていない。次の回、なんと最初のバッターは彼女なのだ。サイ・ヤングさんは優秀な投手だが、打者ではない。彼の名誉のために言っておくと、投手としては異例なくらいバッティングも上手な人だったが、それでもこと打撃においては上がいるのだ。だから攻撃時にはその人に力を貸してもらえるよう、もう1枚の契約書を締結しなくてはならなかった。
準備しないと、そうつぶやく彼女には、その前にやらなければならないことが。
「すげぇ直球だったな、監督さんよ。定規でも使ったみたいだったぜ。いつの間にエレフテリアへ信仰心をうつしたんだ?」
「いいねイーダ! すごいまっすぐだったよ! 世の中の魚雷すべてに見習ってほしいよ!」
「ありがとう!」
仲間の称賛を受けること。記録を残したのだから、ちゃんとベンチ内をハイタッチしてまわること。クールにふるまうのはキャラじゃないから、変に格好つける必要もない。えへらえへらとだらしなく照れ笑いしながら、みんなに褒めてもらうのだ。ベンチの空気はそうやって、温かさを保ち続けるもの。
そして手を合わせた者たちの中には、あきらかに様子がおかしい人もいた。キャッチャーの防具を上から下まで身にまとい、わざわざ両手へグローブをつけた、防御力だけならヘルミもかくやという人物。
ふたたび目を覚ました魔王様だ。
「おはようシニッカ。野球で許されるかぎり、最大限の防御力だね」
「いいピッチングだったわ、イーダ。そう、ここは危険な場所なの。この場所は人が集まるやいなや、必ず戦いが生起する異常な環境よ。あなたたちのように無防備でいることのほうが間違っているわ」
そう言いながらキョロキョロあたりを見まわす。「まったく油断ならないんだから」なんてつぶやいているので、またどこかから打球が飛んできやしないかと警戒中なのだろう。この球場でリラックスするのはあきらめたご様子だ。
「うん、そうだね。あ、ひまわりの種はもういいの? 結局食べられなかったでしょ?」
「イーダ、あれは罠よ。宝守迷宮にあるこれ見よがしに置かれた宝箱と同じ。袋をバリっと開けたのならば、その音目がけて矢が飛んでくるの」
疑心暗鬼の塊と化した魔王様は、もうあまり役に立ちそうもない。というよりすでに交代済みで出場権が失われているから、その点においては価値がない。
とりあえず放っておくことにして、イーダは次の召喚、もとい契約の準備を忙しくはじめる。
「あら? こんどは誰と契約する気?」
「攻撃の得意な選手だよ。ちょっと気難しいかもだから、ヤングさんよりも慎重にやらないと」
「そもそも魔界から悪魔の手先が召喚しているのよ? さっきのはうまくいったけど、こんども応じてくれるのかしら?」
「その点において、今回の人はむしろ大丈夫。性格はアレだけど、差別とは無縁だったらしいから」
ふたたびゲッシュ・ペーパーをベンチの上に敷いて、その上に銀装飾された魔石を置く。「そんな高級品、どこから持ってきたの?」「え? 宝物庫のやつだよ。シニッカが『持ってっていい』って言ったじゃん」「忘れたわ。きっと打球をぶつけられたせいね」、間の抜けた会話をしながら、魔石の横にはイチイの枝を。次に呼び出す選手の名に縁が深いものだ。
これで巫術の準備はととのった。
魔女はふたたびドラムを持って、シャーマニズムを開始する。
「――<イチイの樹、ならび立つ地を、統率し、守るあなたは、強くおおきい>」
その人のファーストネーム「Tyrus」というのは、「イチイの樹がたくさんある場所を統率する」なんていう複雑な意味を持っていた。だから供物にイチイの枝をまぜたのだ。ミドルネームの「Raymond」は助言とか保護とかの意味。そして彼の苗字は古ノルド語の「おおきな人」を起源にする。
「――<悪評を、歯牙にもかけず、おのが道、貫きとおすは、まさに球聖>」
魔女の脳内に、ぼんやりとした人影が浮かぶ。まだ輪郭だけにもかかわらず、なぜかその人が細面で、鋭い目を持っていて、油断ならない視線をこちらにむけているのがわかった。
「――<我はイーダ・ハルコ。死してなお、あなたは『追い続けている』と、私は強く確信している>」
まぶたの裏に、奇妙な光景が浮かぶ。さっきまでの輪郭だけの影が実態を持つと同時に、ぼやけていた背景もぎゅっと収縮されていった。そこは20世紀初頭を思わせる部屋の中で、赤いカーペットが敷かれた木の床と、本棚がならぶ壁際、ガラスのはめられた木枠のおおきな窓があった。イーダは自分がその部屋の中心で椅子へ座り、机をはさんだむこう側に相手が座っているのに気づく。
タイロン・レイモンド・カッブ。タイ・カッブの名で知られる、「メジャーリーグ史上、最も偉大な選手」だ。一方で、あまりに勝負への執念が強く、また歯に衣着せぬ物言いから、「最も嫌われた選手」とも併記されてしまった気難しい人でもある。
彼は脚を組み、左手で頬杖をついていた。机の上にある契約書へは、まだサインをしていない。右手は机の上にあり、人差し指をのばしたそれが、ポーカーのコールをつげるように「トントン」と天板を叩いた。
「足りない」と、そう言っているかのような所作。
(や、やっぱりそうくるか)
お金にはシビアな人だったと伝えられている。吝嗇家――極度のケチ、なんて揶揄までされるくらいだ。どうやら遠からず当たっていたようで、でもイーダには備えがあった。
いったん目を開いて、ベンチの下からバッグを出す。片手に重さを感じる革袋を取り出して、供物へじゃらりと追加した。
もういちど目を閉じると、彼はまだそこにいた。いつの間にか手に持った、革袋を両手で開けながら。
(ど、どうでしょうか?)
彼は袋から魔界のオメナ銀貨を1枚手に取り、「なんだこれは?」なんて顔でしばらく見ていた。けれど納得したのか、それをチャリンと袋へ戻し、かわりにペンを手に取ってくれた。
木机の上、紙を走るペンが耳に気持ちいい筆記音を奏でる。サインはすぐに完了し、視界が白く輝きはじめた。
目を開けると、すぐに感じる。四肢が野球をやりたがっている。
「よろしくお願いします!」
――よろしい、ついてきたまえ――
体に憑依したはずなのにもかかわらず、彼はイーダの数歩前に立ちグラウンドを見る、そんな気がした。だから魔女はその広い背中へ、「はいっ!」と元気のいい返事をしたのだった。




