笑うベースボール 29
ここにきて投手交代とはどういう作戦なのか。ベンチで腕を組みながら、イヴォは少々いぶかしんでいた。このまま投高打低の状況が続くのなら、9回終わっても同点である可能性が高い。逆にいえば、魔女の監督は勝負を決めにきているのだ。まさかマウンドに上がりたいがため、抑えピッチャーを買って出たわけではないだろう。
バッターボックスは先ほど交代で入ったライト、イシドロ・ホルダ・ホルヘ。人間種の男性で、出身地はセルベリア。愛人を作った妻に逃げられ、酒に溺れていた男だ。自暴自棄になった彼とたまたま食事をともにし、「汗を流して忘れろ」なんて言って野球をやらせた。そのまま冒険者となり、クランへ参加している。
(イシドロ、終わったら勝利の美酒を飲もう)
さっき口に出して伝えたことを、もういちど頭に浮かべた。我ながら面白味のない台詞だと思う。しかし本心なのだからしかたない。
右手で投げる魔女の1球目。どんな球がくるのか、そしてイシドロがそれを打てるのか。イヴォは注目していた。すると彼女は、なにやら詠唱をしはじめる。
「――<ᛥのᚱ、ᛁのごとき、軌跡描き、ᛣへ駆けぬ、ᛖのごとく>」
(魔術? どういう意図だ?)
それが「ᛥᚱᛁᛣᛖ」という意味であることなど、勇者には思いもよらなかった。
魔女のフォームはオーバースロー。マウンドで振りかぶり、投球が手元を離れる。
と、イヴォは仰天した。
(⁉︎ なんだと⁉︎)
「Strike」
空振りを取ったその球、速度は149km/h。今日の試合において、遅くはないが速いともいえない。ただ、その球筋は177km/hの直球と比較しても負けないくらい、特異でおかしな挙動を見せた。
浮いたのだ。
これはもちろん、物理的に浮き上がったわけではない。投げられた球は空気抵抗によって減速するから、必ず放物線を描く。今回彼女の投げた球だってそうだ。けれど、今まで登板してきた「ノビのあるストレート」の投手とは、あきらかに一線を画しているほど落ちなかった。それは目の肥えたイヴォがとまどうほど。ゆえに、浮き上がるようにすら見えてしまったのだ。
(これはすごいものを見たな)
彼は敵へ感心し、しばし球筋に見とれた。腐るほど動画で見たメジャーリーガーたちだって、あれほどまでの直球を投げていただろうか、と。
無理もない。イーダの投球をデータであらわすと、とある値が飛びぬけていたからだ。彼らは知らなかったが、彼らの死後、投手の直球では『ホップ成分』なる概念が注目されるようになっていた。
ホップ成分とは直球の属性のひとつで、「どれだけ落ちないか」をあらわす数値になる。まったく無回転の直球とバックスピンがかかった直球では、後者のほうが落下しにくい。これは回転によって球上部の気圧が下がり、揚力を生むためだ。無回転の球が自然落下した場合と、バックスピンの球が落下した場合では、落ち幅に差がある。この差が『ホップ成分』というわけだ。当然、値がおおきければおおきいほど落ちない球になる。
日本のプロ野球において、投手の平均ホップ成分は約45センチ。「ノビのある」球を投げる投手ともなると、これが50センチとか55センチとか、7.3センチ程度のボール1個分を超えていた。これでは「浮き上がって見える」のも当然だ。
そしてイーダの投球。マークしたホップ成分量は、なんと62センチ。地球ではプロの中でもほとんどありえないほど、少数回記録されているだけ。彼女の直球は打者の予測よりボール2個半分くらい、上をとおりすぎることになる。
「Strike, Two」
2球目も空振りに終わったイシドロは、あきらかに困惑した様子だ。連続してボールのはるか下を振ってしまっている。感覚的にはジャストミートできる手ごたえだったにもかかわらず。
(……これは厳しいか)
勇者の予想そのままに、三度打者のバットが空を切る。誰が見てもストライクとわかるから、大声で叫ぶ必要がないのにもかかわらず、主審は判定へ「Strike, Three!」と感嘆符をつけた。その直球をほめたたえているように。
(温存していたわけだ。あれはマズい。もう9回だ。この1回であの球に慣れることなどかなわない。いや、延長戦が15回まで行われたとて、あれをとらえるのは至難の業だ)
「どうするか……」
ボソリとつぶやく。チームメートにわからないよう、口元を隠しながら。そしてヘルメットをかぶると、自分のバットを持ってネクスト・バッターズサークルへむかう。1アウトで次の打者は9番のジュゼッピーナ・ジャケッタ。自分と交代でレフトに入った、山羊獣人の女性選手だ。当たり前だが、その次は1番、つまりイヴォ自身になる。
ジュゼッピーナも球筋にはついていけない。「Strike!」、「Strike, Two!」、気合の入りすぎた審判のコールすら耳に入らず、「えぇ……」と首を振るばかり。もともと打撃は得意でないから、面食らってバットを振ることすら忘れている。
「Strike, Three!」
もはや人類の言葉から、ただの奇声へ変わりつつある審判のコールを背にして、彼女はとぼとぼベンチへ下がっていった。
(ふむ……)
イヴォは表情を崩さない。自分が浮足立てばチーム全員へ動揺が伝播してしまう。だから無言のまま左バッターボックスへ入り、どんと構えて魔女と対峙するのだ。
まず足元の土を足の裏でならした。臀筋群、ハムストリング、下腿筋のたぐいを一緒にほぐし、魔力を送る。次に肩の力を抜きながら、バットを1回まわし、両手で持って構えた。そうやって上腕二頭筋や前腕伸筋群にも、血液へ乗せた魔力を送る。最後に大胸筋や腹筋群、広背筋やら腸腰筋群やら、体のすみずみまで意識をまわし、力をこめる準備が終わった。
彼は自分の体へ憑依させたベーブ・ルースの力を、全身へ行きわたらせたのだ。彼なりに――彼の信頼する筋組織たちをとおすという形で。ここであきらめる気などまったくない。準備を万全にととのえるだけだ。
マウンドを見る。小柄な少女がきりりとした視線でこちらを見た。
(さあ、こい!)
勇者VS魔女の勝負。
1球目。それは先ほどイヴォが遠くから見ていた、例の落ちない直球だった。
手元を離れたボールは、さすが若い人間の投げる球。恐れを知らないと思えるほどに無防備な、真ん中高めの直球だ。イヴォならずとも打ちやすいコース。当然体が自然に反応する。
いや、反応してしまった。
「Strike!」
絵に描いたような、見事な空振り。見ている人が気持ちいいと思うほどの。
(やはり浮き上がってくる!)
非常に奇妙な感覚だ。たとえば机の上にあるペンを手に取ろうとして、はるか手前で空振りしてしまったような。いつもはできていること、それも意識などしなくても容易に行えることが、突然遠ざかってしまったような感じがした。感覚と現実がアンマッチをおこしている。
だからあの球は、直球という名の魔球なのだろう。そうとしか表現しようがない。当然、あれを投げているのは魔の者だ。少々人外じみた、魔術の使い手である魔女が投げているのだ。
2球目。これは先ほどより内角へ飛んできた。常識外の速度ではないのに、暴風のように常識はずれなうなり声を上げて。
高さは胸よりやや低い位置。つまり内角高めの直球。ちゃんと腕をたたみながらスイングをすれば、ホームランを狙えるコースだ。彼の好きなコースだったから、ついついよだれがたれそうになった。見逃せばボールだったにもかかわらず。
先ほどより上側をスイングするように心がける。胸よりやや低いなら、胸よりやや高い位置にくるだろう。そして腕を、腰を、足首をまわした。重い手ごたえを予感しながら。
しかしバットは空を切る。
「Strike, Two!」
(まだ足りないのか⁉︎)
無駄に切り裂かれた空気が、文句を言うようにくるくると渦を作って消えた。
あまりのことに、イヴォは鋭くキャッチャーを振り返った。ボールをおさめた彼のミットが、いったいどの位置にあるのか知りたかったのだ。そしてそれを知って愕然とした。
自分のあごの位置。完全なボール球であり、普段なら油断していても見逃したはず。
錯視錯覚はなはだしい。不覚を取った自分へ失望すら覚える。
(これは……本当に上昇しているのではないか?)
いいや違うはずだ、そう思って首を振った。野球の道具、この場合ボールには魔術をかけられない。そして、いくらバックスピンを超高速回転でかけても、投げるのが人間なのだから浮き上がるほどのことにはならない。
(……しかし)
ようやく見えてきた。もう1個分高く振ればいい。次の球筋を予想して、自分のフォームを修正すればいい。
そう思っていると、魔女はすでに投球フォームへ入っていた。テンポのいい投球であり、それはイヴォから考える時間をしっかり奪っていた。
(っ!)
瞬時にフォームをととのえて、奥歯をぐっと噛みしめた。次こそは打つ。目に見える白球の軌跡は偽物だ。それよりもボール2個半分、上を叩くようにすれば――
(――しまった!)
3球目、緩い球。ストライクゾーンのど真ん中をめざして、散歩でもするかのような顔で飛んでくる1球。
バットはもう振りはじめている。ここからでは止まれない。なんとか振るのを遅くして、ボールをカットするしかない。
街の中、無言ですれ違った人が上司だと気づき、あわてて振り返り挨拶をする。そう取り繕うかのように、バットはボールへ近づいて行った。でもその距離は縮まらない。全力で追いすがっているにもかかわらず。
なぜなら上司はいたずら好きで、すれ違った直後に角を曲がると、全速力で逃走したから。きっとすれ違う前からこちらに気づいていて、しめしめ、と思っていたに違いないのだ。
――ドロップ・カーブ。左右ではなく真下へするりと落ちていく変化球。
「Strike, Three!」
(ああ、なにをしている。こんなの基本中の基本だろう)
勇者はあまりに入れこみすぎていた、数秒前の自分へ苦言を言う。相手の球種が直球だけ、なわけはない。変化球だって持っていて当たり前。そしてとっておきの変化球があるのなら、あの時投げずにいつ投げるというのだ。
(同点のままか)
9回の裏にもし点が入れば、点が入った時点でゲームセット。つまりサヨナラ負けを喫してしまう。次の回は絶対に点を献上してはならない。投げるのは自分だ。こんなことおりこみ済みで3人目の投手を買って出たものの、これは肩に力が入ってしまう。
それはよくないことだ。
(……しかし、いい球だったな)
ふたたび力む自分をほぐすため、とりあえず相手をほめることとした。もちろん半分は本心だ。動画にしておけるのなら、繰り返し見たいと思うくらい、気持ちのいい直球だった。
そうやって歩いている時に、彼はふとあることに気づく。
(もしかして私たちは、彼女に賞賛すべき記録を残されたのではないか?)
むむっと思い返し、先ほどの3人の打席を分析してみる。前のふたりと自分、どのような結果に終わったのかを、詳細に。そしてやはり間違いなかったのだ。
――三者三球三振。
メジャーリーグの長い歴史の中、達成した人間は100人ほど。日本のプロ野球では20人に満たない、特筆すべき記録だ。
(ああ、やってくれるな! これは燃えてくるじゃないか!)
ベンチに到着した頃には、彼の闘志が音を立ててメラメラとしていた。スポーツにおける逆境なんて楽しいに決まっている。相手がおおきければおおきいほど、それを打ち倒すという予感へ背すじに鳥肌が立つ。イヴォはそういう男だった。
心配そうな顔のチームメイトが、そろって彼へ視線をむける。それすらも、イヴォにとって楽しい光景になっていた。
だからハッパをかけるのだ。
「さぁ、みんな! やられっぱなしでは癪に障るだろう! だが舌なめずりは10回の表まで取っておこうじゃないか! まずは9回の裏、集中して守りにつくぞ!」
おおきな口をおおきく広げ、今日一番の笑顔をして見せた。気心知れた仲間たちは、その事実へ一瞬にして「おうっ!」という声を返してくれた。
「負けないぞ、イーダさん。人類代表として、君から勝利を奪おう」
これは少々言葉がすぎた。彼が人類じみているかと問われれば、100人中100人が「No」と言うのだから。実際、言葉を聞いていた女房役――捕手のエーズから指摘が入る。「あなたが人類だって、誰か思っている?」
きょとん、とした顔をして、勇者は両手を開いた。肩をすくめながら、「どういうことだ?」なんて言うさまは、まわりで見ていたチームメイトたちを笑顔にする。
「イヴォ様が鏡を見る時は、体についた筋肉を見ているのさ。決して自分が『よし、人の形をしている』なんて思わないんだから」
ショートのリザードフォーク、アミがそう茶化しながら、グラブでイヴォの尻を叩きフィールドへむかった。
「俺らを見習えよ、イヴォ。手足がちゃんと2本ずつだろ?」
よりによって狐の獣人、サードのベルベルまで茶化しにかかる。
「アタシもイヴォが『人類だ』って言い張っているのには異論があるね。だって尻尾がないし」
ついでにセカンド――狼獣人のララも好き勝手なことを言い駆けて行った。
そして。
「ぼ、僕はイヴォさんが人間だって信じているよ!」
オークの1塁手、ジャンボが無垢な瞳でそう言った。
なんだか逆に「人類じゃない」ふくみを残したような言いぐさになって、それにベンチの全員が笑い声を上げるのだった。




