笑うノコギリエイ 後編1
◆ ① ⚓ ⑪ ◆
そこは暗い部屋だった。地下室だろう、ひんやりとした空気に埃が舞い、わずかに差しこむ光を浮きだたせている。
そのわずかな光が、とある男へ心ばかりの色彩をもたらしていた。ペストマスクの両目にはめられたガラスごし、見えたのは屈強な男性。広い肩幅と太い手足は、彼が戦士であることを雄弁に語る。シニッカたちから「貴族だ」なんて聞いていたから、イーダはもっと細身な人を想像していた。剣よりもペンが、馬よりも机と椅子が似合うような人を。
少し苦しい呼吸を我慢しながら、アイノとはさむようにシニッカの横へ立つ。頭にかぶったフードがもぞもぞと音を立て、腰に下げたノコギリが鞘の中でカサカサとこすれた。
「求めに応じていただき感謝いたします」
太いのどぼとけの奥から出る戦士の声で、男は魔王を迎える。「私はモンタナス・リカス辺境伯ヴァランタン・ド・ジラールと申します」
「蛇の湖の魔王よ」
部屋の中心には老人のようなひとつの古い机と、ふたつの古い椅子。地下室の寒さに震えているのではないか、そう感じさせるほど頼りなく見える。今からそれを使うであろう男性が大柄ならなおさらだ。
だからヴァランタンなる男が椅子へ腰かけた時、イーダは少々心配した。ぎしりといううめき声のような音が、彼の椅子だけでなく、シニッカの椅子からも聞こえたから。石造りの暗い部屋で、老人が拷問にでもかけられているように感じてしまったのだ。
(さみしい部屋……。夜にはきたくないな)
本来どんな目的で造られた場所なのか、入口の扉や明り取りの窓を見ればなんとなく察せられる。そのどちらにも鉄格子がはめられていた。古くは地下牢として使われていてのだろう。
そんなところへ呼び出されるなんて、罪人にでもなった気分だった。けれどシニッカは気にするそぶりもない。むしろ建物の持ち主であるヴァランタンのほうが、居心地が悪そうにしていた。それについても、なんとなく予想できる。
相手にはかなり不気味な光景に映っているだろうから。暗い地下室の魔法陣から、魔王と従者が雰囲気たっぷりにあらわれたのだ。3人ともペストマスクを着けているし、そろってノコギリを腰から下げている。視界が悪かったせいでゆっくり歩いたのも相手にとっては不気味だったに違いない。
(この人が悪魔――シニッカを呼び出したんだ。相当な覚悟だったのかな?)
バルテリの事前情報によると、ジラール家という軍人の名門に生まれた彼は内乱鎮圧などで功績を上げ、辺境伯を任されるほどの実力を持っているのだという。つまり国王からの信頼も厚い、歴戦の戦士なのだ。その彼が額に冷や汗らしきものを浮かべているのだから、たぶん今この部屋はどの戦場よりも恐ろしい場所だ。「立場が逆だったら、私だって震えていたのかも」なんてイーダは考えていた。きっと、ここにある色あせた机や椅子と一緒になって。
恐怖に巻きこまれている机の上には、魔力で飾り枠がぼんやりと赤く光る黄ばんだ紙が2枚あった。文字はなにも書かれていないが、押された割り印が2枚1組であることを証明している。シニッカはそれに目線を落とす。いつもと違って、無表情のまま。
ゆっくり視線をヴァランタンへ戻した彼女は、真冬の水がごとき冷たい声を放った。
「誓約を記す。お前の望みを聞かせろ」
やさしい言葉をかけてくれた彼女も、サウナの中で上機嫌にしていた彼女も、そこにはいない。きっと今、シニッカは魔王なのだ。
「娘を……勇者にさらわれた娘を、取り返していただきたい」
「代償を聞かせろ」
なんの情緒もなしに聞く声が、ふたたび地下室へ冷水を打つ。温度がぐぐっと下がっていって、身震いすら覚えそう。どちらかといえば他人事のはずなのに……。
「……私が生まれながらに持っている、大切なものをひとつ」
状況へ緊張を強いられたイーダの前、会話は進んでいく。
「大切なものをひとつ」というのは、ここにくる前シニッカから聞かされていたお決まりの言葉だ。「大切なもの」が命なのか魂なのか、はたまたそれ以外なのかは、契約の最終段階で彼女が決定するのだという。
(最初から命をよこせって言われないぶん、マシなのかもしれないけど……)
目の前の男は依頼が達成されるまで処刑を待つ罪人のような日々をすごすのだ。そう思うと同情の心が芽生えてしまった。
「真意を聞かせろ」
「この望みは本物です」
「聞いたな? 魔法誓約書。記せ」
まっさらだった2枚の紙が鈍く光り、じわりと文字が浮かんでいく。これも聞かされていた。『書記型魔法誓約書』だ。契約に同席し、内容を自動筆記してくれる魔法具の一種。そして契約者の魂をしばりつける、文字で構成されたグレイプニル。
シニッカはそれを手に取り、相手にサインをうながした。
「お前の分を記せ、ヴァランタン。血判か、真名で」
「承知いたしました」
紙にペンを走らせ、彼は真名である『モンタナス・リカス辺境伯ヴァランタン・ド・ジラール』を記した。2枚の誓約書両方に、筆圧のかかった太い文字で。
返された誓約書を受け取ると、魔王は迷いなく指を噛み、血判を押す。イーダの目に屈強な男の身震いが映った。
(これがシニッカの魔王としての振る舞いなんだ……)
彼女が自分の側に立っていなかったらこの男性と同じ思いをしたに違いない。いつの間にか自分も冷や汗をかいているのに気づく。
「では聞かせてもらうわ、ヴァランタン。勇者の情報も、娘さんの情報も、全部ね」
誓約書の片方を懐にしまいながら、シニッカはようやく顔を満足そうにした。「悪魔は契約を好む」というけれど、それはこの世において本当なんだと感じる。
(ついにはじまるんだ……)
こうしてイーダの最初の仕事は、地下牢の暗い部屋の中、冷たい空気とともに幕を上げたのだった。
◆ ① ⚓ ⑪ ◆
晴れた日の昼前、人と屋台でにぎわう街。その男はひとりで歩いていた。石造りの道に革靴の心地よい足音を残し、注がれる暖かい陽の光をぜいたくに堪能し。腰に下げた片手半剣が彼の歩に合わせてはね、上機嫌なリズムを刻んでいた。
ここは異世界。中世ヨーロッパ風の、剣と魔法――ソード&ソーサリーの世界だ。
気分が乗らないわけもない。
「さて、今日はなにすっかな」
笑顔で口元がゆるんだからか、ひとりごとが出てしまう。でも彼は気にしない。どこかの屋台でうまいもんでも売っていないか、あわよくば「この世界」ならではの食べ物なんかがいいな。そう思いながら右手をポケットへ。先立つもの――お金は大切だから。
じゃらり、重い金貨が指に価値を主張する。
「あ……こんどは両替しとかないとな」
果物を買う時、その金貨で支払おうとしたのを思い出す。金貨というのは大商人や貴族同士の取引で利用されるもの。庶民の生活では普段見かけない。そんなものを屋台で使おうとした自分の世間知らずは、果物屋のおかみさんを驚かせ、仲間をあきれさせてしまった。
事前に「両替しておいてね」と教えてくれればよかったのに。
「『このトラブルメーカー!』とか言われても。俺、まだこの世界慣れてないし」
仲間のひとりが言い放った「トラブルメーカー」という言葉。今や自分のトレードマーク(ないし愛称)になりつつある、本来はいい意味ではないにもかかわらず、言われるとなぜかちょっとだけ嬉しいもの。
なんとなく、彼には理由がわかっていた。「トラブルメーカー!」の台詞が出てくるときは、決まって自分がなにかをやらかした時。しかも不名誉な行いではなくて、この世界から見れば常識はずれのことをした時。
たとえば転生時に得た能力がこの世界でどのくらい強いか試した結果だったり、害獣に油断しないで立ちむかった結果だったり。
「ま、慣れるまではしょうがないよな」、そういう彼は、少々性格の悪い楽しみかたであることを承知していた。要するに優越感だ。強力な力を持った自分は、この世界の常識じゃ測れない。そんな状況が具現化した時、自分は「トラブルメーカー」と呼ばれるのだと。
とはいえ自分がやらかしてしまうたび、律儀にもツッコミを入れてくる仲間に対して、感謝の気持ちと一緒に、歯の浮くような感情を覚えることもあった。照れくさいような、恥ずかしいような。ある意味過剰にほめられている気がするのだ。
むろんそんなことで、慎重になる彼ではなかったが。
(あいつら、いつになったら慣れるんだろう?)
他人事のように考える。仲間は、とくにその中のひとりフルールは、必ずといっていいほど強く突っかかってくる。「アンタ! ちょっとは加減しなさい!」だの「なんでいちいちトラブルを巻き起こすの!」などという言葉と、時にげんこつをそえて。
「小言、多いんだよなぁ……黙ってりゃ美人なのに」
フルールの紫がかった赤い髪と、クリッとした青いジト目。街中ですれ違ったらついつい見てしまうくらいには魅力的な顔立ち。そこへ頬をぷぅっとふくれさせると、残念な美人のできあがり。
「まあ、その顔はその顔でかわいいけどな」、思い出しながらつぶやいた彼だったが、コツン! 頭のてっぺんに走った衝撃へ、叱りつけられた生徒のように体をビクッと硬直させる。
(フルール⁉︎)
恐れて見上げる視線の先、そこにあったのは青い目ではなく青空と、くるりと円を描いて飛ぶカラス。フルールの姿はどこにもない。よく考えたら自分より背の低い彼女が頭頂部を殴れるわけがないのだ。さすがの彼女も、ジャンプして脳天へチョップを食らわすようなツッコミはしてこない。
彼はほっと力を抜いた。しかし視界の隅へなにかをとらえる。
(んん?)
視線を下にむけた。足元には見事に割れたクルミ。おそらくこれが、頭頂部を襲った張本人。常時展開している防御魔法のおかげで痛みも怪我もないのだが、こんなものを落とすなんて頭上のカラス以外にないだろう。
腹を満たすための道具にされたようだ。
目線をふたたび空へ。黒い鳥は旋回し、自分を見おろしていた。なんだか馬鹿にされているようで、無性に腹が立ってくる。
「なにすんだよぉ~!」、腕を振り上げ叫ぶ彼。
「なに騒いでんのよ」、強い口調のいつものツッコミ。
こんどこそ本物の青いジト目と目が合って、彼は「うわっ!」という言葉を吐いた。
「ひどい! 『うわっ』とはなによ!」
「ふ、フルール。なんでこんなとこに」
とりつくろう間もなく「な・に・よ!」と胸を突かれる。もうこれは、頬をかいてあわてて謝るしかない。と、そこで彼には妙案が思い浮かんだ。すぐさま実行にうつし、「フルールのことを考えていたもんだから」と歯の浮くようなセリフを放つ。
「え? あ、そうなんだ。ふーん」
彼女は目をそらし、少し照れくさそうにする。
(ふぅ、ヤバかった。フルールがチョロくて助かった)
劇的な効果があった様子。まずは胸をなでおろす。なにかと突っかかってくる彼女が「チョロい」存在でいてくれるのは、そうでないより気楽で快適だ。
けれど少々罪悪感も。彼女が自分のことを憎からず思ってくれていることくらい知っている。その感情を利用してしまった。
ちょっとした罪滅ぼしをさせてもらおうと、昼ごはんのひとつくらいおごってやろう、そう決めた。「フルール、昼飯は食ったか?」
「ううん、まだだけど」
「じゃあ一緒に探そうぜ。なにがいいか迷っちゃってさ」
「そういうことなら、ついてきて! おいしそうなお店を見つけたの!」
彼女に腕をつかまれて強引なエスコートを受ける。
二重になった革靴の足音が石造りの道を叩いたおかげで、腰の片手半剣はさっきよりも陽気にリズムを刻んだ。




