笑うベースボール 24
するどい打球が二遊間を抜ける。時速にするなら何キロ出ているのか、球が芝生を打ちつけて、土のついたままの草を高く放り上げた。センターを守る狼は猛然と前進しながら白球をグローブにおさめ、1塁へ矢のように投げる。なんとか長打――2塁打以上のヒットはまぬかれたようだ。
投手である潜水艦アイノは、ほっと胸をなでおろす。悪い結果の中では最高の結末に、自分は運がいいのかもと。
(勇者もスイッチバッターだったなんて)
勇者が打席に立った際、その位置が左打席――1塁に近い側へ入ろうとしたから、当然アイノも左手で投げることに決めた。しかし勇者は審判に声をかけ、逆の右打席に立つ。スイッチピッチャーとスイッチバッターが対戦する場合、投手が先に投げる腕を決めなければならないから、文句を言うことすら許されない。で、(今日の投手の中では)球速の遅い自分にとって、逆の打席へ立たれることは被弾の危険性が増えることを意味する。右投げには左打ち、左投げには右打ちが打者有利だからだ。
(いやぁ、危なかったぁ)
勇者へ放った3球目、ひざ元を狙うツーシーム。投球は完璧に近かったけれど、苦もなくバットを繰り出す敵の姿へ背すじをゾッとさせられた。飛んだコースが悪かったのなら、勇者は今頃2塁かそれを超える位置にいただろう。なにせ足もめっぽう速い。
次のバッターも左打ちなので、アイノはそのまま左手にボールをにぎる。構える時は捕手に横をむけるから、自然正面に1塁のイヴォが見える形だ。リードはおおきく、脚への自信がうかがえる。これはあきらかに盗塁をしてくるだろう。
(うーん、ピンチ)
まだ1塁走者を出しただけにもかかわらず嫌なものを感じていた。アンダースローの投手というのは盗塁阻止が得意ではない。どうしても投球モーションがおおきくなる。走者はすきを突いて盗塁しやすいのだ。くわえて捕手のオンニも肩が強いわけではないから、走った相手を2塁上でアウトにすることも難しい。
(……ま、いっか)
潜水艦は考えた末、考えないことに決めた。なにせ彼女は飽きっぽい。海の中では何時間もじっとしていられるのに、陸にあってはその100分の1すらあやしいものだ。心配ごとへの思考は5秒ほどで限界をむかえ、頭の中は2番打者をどうやってとっちめてやるかにシフトしてしまう。
そんなだから、痛い目を見る。
いちおう1塁の勇者へ配慮して、クイックモーション――速い動作で放った1球目。ボールが手を離れたと同時に球場へ歓声が沸き、捕手のオンニは体をこわばらせる。
初球から勇者は走った。固有パーク内で許されている最大限の速度でもって。
「Strike!」
ボールは低め、ストライクを取った。けれどオンニにとってなんの助けにもならなかった。
「くっそ!」
飛び上がるように立ち2塁へ投げるも、「Safe」のコールが無常に響く。簡単に、実に簡単に、潜水艦と夢魔のバッテリーは盗塁を許してしまったのだ。
アイノは口をとがらせる。
(なんだよぅ。チョロチョロうるさいな)
自分が同じ立場だったら同じことをしただろうに。彼女は、やるのはよくてもやられるのは嫌で、だから機嫌を損ねた。振り返って勇者をにらむ。顔の上半分は般若、下半分は口をとがらせたままのひょっとこ面。折悪しくカメラがそれをバックスクリーンへ映し出したので、『妖怪ひょっとこ般若』の面構えは会場へざわめきを立てた。
「ふんっ! いいもんね!」
ふてくされたように吐き捨てて、打者へ視線を戻したアイノは、さらに機嫌を悪くした。オンニのサインは「1球外せ」。勇者に連続で走らせないよう間隔を取れ、そういう指示だ。
(Negative!)
潜水艦は首を振る。これにはオンニもほとほとまいった。勇者が3塁まで行った時、アイノはそれへ背中をむけて投げることになる。となると牽制球を放るのが容易ではない。
(悪くすれば、3塁から本塁まで盗塁されかねないっスよ。相手の足はヤバイ速さなんだから)
サインを出し直し、ストレートを要求。でもそれにも首を振られた。結局彼女が投げたい変化球を低めに。その投球モーションがはじまると、案の定、勇者は3塁へ飛ぶように走る。
今しがたよりもさらに速く感じた。筋肉にうるさいあの勇者のこと、今も大腿筋とか大臀筋とか、腓筋とか上半身のいろんな場所とか、そのへんのやつらを総動員し疾走しているのだろう。ストライクになったボールをミットから取り出した時には、すでに腹筋をこわばらせながら見事なスライディングをはじめていた。
(あぁ、全然間に合わないっス)
だから言ったのに。いや言ってはないが伝えたのに。こんどは投げることすらできやしない。2球で2盗塁なんて無様すぎる。
不満に満ちた「この状況どうすんスか?」とでも言いたげな顔で、オンニは投手へボールを返す。受け取った投手はまたもブータレた顔。さっきよりも顔のしわが深い。
(うわぁ、ひでぇ顔っス)
深海魚みたいな面をして、アイノは勇者をにらんでいた。その顔もバックスクリーンに映ったから、選手も観客もみんなして「あ、この子だめな子だな」との確信をいだく。投球のほうは一級品だが、走者の処理が苦手だと。
唯一、3塁手のヘルミは「だめだな」なんて顔をせず、バックスクリーンを見て微笑んでいた。やんちゃに遊ぶ親戚の子を見守るような、慈悲深い顔をして。勇者を横に置いていたから、そこへ切り替わった画像にあわせ、彼女もスクリーンに入る。おかげでスタジアム内にいる男性的な魂を持つ者たちは、女神のような慈愛の表情をうかべる彼女の頭部と、男の夢たる首から下を目に焼きつけた。そして思うのだ。「ああ、目の保養ができた」などと。
勇者側のベンチでもそれは同じ。こりずに鼻の下をのばす三つ編みドワーフへ、好プレーしかできない女たるショートのアミがつっこみを入れる。「ああいう体がお好みで?」「い、いや違う。吾輩はあの慈悲深い表情に目を奪われたのだ」、的確な指摘に苦しい言い訳。「なるほどねぇ」と言うアミは全部お見とおしだ。
まあ、アミがお見とおしの部分はドワーフの思考に対してだけであったのだが、それを知るのは10秒後。
3塁では次の投球にそなえ、イヴォがおおきめのリードを取った。投手はこちらに背をむけている。なら本盗――本塁への盗塁を狙ってやるのも手だと判断した。もしすきがないならそれでもいい。投手の気を散らしてやれば、打者への援護になるだろうから。
「お見事です」
そんな彼にベヒーモスから声がかかる。盗塁のことをほめられたと思い、「私の走塁に対する賞賛、敵ながら光栄だ。受け取っておこう」と返した。でも美女の目線は彼の顔にむいていない。もっと下、足のあたりをしげしげと観察している。
「いえ、走塁もそうなのですが、すごいハムストリングです。筋肉質なのは生まれつきで?」
「体格は親からさずかったありがたいものだ。筋力は鍛えたもの、しかしこれも遺伝の影響が強いだろう。両親もアスリートだった。私を産んでくれたことに感謝してもし切れないくらいだ」
口数の多くないイヴォだったが、野球と筋肉に対しては真摯。ゆえに油断なく投手を見ながらも、多めの言葉を持って返答とする。
「よいご両親をお持ちで。その利き足だけ発達した長趾伸筋も生まれつきですか?」
マニアックな部位への質問。
「利き足だけ?」
イヴォは目、手、脚ともに右利きだった。ゆえに脚にかんして少し気になった。通常、太くなりやすいのは体重をささえる軸足――つまり左脚だと記憶している。だからバランスを取るためほんの少しだけ、右脚へのトレーニングは多くしていた。発達がその逆ということは、もしかしたら鍛えかたを間違えていたのかもしれない。
(練習メニューを変えたほうがいいのか?)
心の中で、みずからの長趾伸筋へ語りかけた。
――直後、飛来する白球。視界の左隅。
(しまった!)
態勢を低くして3塁へ頭から飛んだ。両手をのばして着地すると、勢いそのままベースをつかむ。
しかしそれより早く、ヘルミのグローブがイヴォののばした左腕を叩いた。
「He's out!」
――牽制死。それは罠だった。
勇者は知るはずもないのだ。潜水艦とベヒーモスが性格破綻者同士で仲のいいことも、ゆえにふたりしか知らない秘密のサインがあったことも。
無理もない。「魚顔をしたら、牽制球を放るからね!」なんてこと。
「してやられたか」
「ごちそうさまです」
ついでにヘルミが慈愛の表情をうかべていた理由も知りようがなかった。なにせ彼女は勇者をだませることに、口の中へ蜜をうかべていたのだから。
この小ずるいプレーによって、前の回から続いていた勇者チームへの流れは、ふたたび魔王チームへと傾いた。4回の表は3者連続三振に終わり、その裏の攻撃がはじまる。
が、今日の試合は流れがコロコロ変わるもの。治水にかかわる職の者が見たら、手のつけられなさに嘆き悲しむこと請け合いなほど。
4回の裏、ヴォゾヴァ・ハラドバ中継ぎ投手ノジュスは、ヴィヘリャ・コカーリの攻撃を三者凡退で返して見せた。
スコアボードが微動だにしないまま、試合は中盤戦へと突入した。




