笑うベースボール 23
「頼んだよ、ノエル。落ち着いてね」
「うん、わかった」
ヴォゾヴァ・ハラドバの投手交代のタイミングで、ヴィヘリャ・コカーリも選手の交代を行った。厳密にいうと、ルールに追加してもらった「代走専用交代枠」を活用することにしたのだ。あまり足の速くない骨53号にかわり、「衝角」たるノエルが1塁を陣取る。
(気楽にやっていいんだよ)
心で思った台詞を、どうせなら口に出してかけてやればよかったと思いながら、イーダは相手投手の投球練習を見た。バッテリーごと交代したから、捕手も新顔になっている。ウーカシュ・コヴァルスキという名を持つ熊の獣人だ。立派な体格は投手へ安心感をもたらすに違いない。少々コントロールがずれても、後逸――捕手が投球を取り切れずに後ろへ転がしてしまうことなどないだろうから。
ただ、鷹の鳥人ノジュスがそれを必要にしているとも思えなかった。
(速球は150キロ、いいノビだな。コントロールも正確。でも本当に脅威なのは、あのエグい変化球)
全力投球じゃないにもかかわらず、その変化は非常にするどい。ぐぐっと曲がる、というよりもスコン! と落ちる印象だ。打席に立ってもないのに、ボールが消えてしまうと思うくらい。理由はおそらくあの腕の異常なしなりだろう。バードフォークなのに固有パークの影響で翼が背中にない。かわりに残された両腕が、翼のようなしなやかさで白球を投げている。
(次の投手も苦労しそう。頼むね、アイノ)
これまた声をかけてあげたかった内容を心でつぶやき、魔女は親友を見守る。そこに、ちょっと楽しみもあった。彼女は左投手に対し、どちらの打席に入るのだろうと。
(おぉ! やっぱり右打席!)
スイッチピッチャーなのだから、スイッチバッターであろうことはなんとなく予想していた。若干の差ながら、打ちやすいほうの打席を選んだようだ。1塁ベースランナーの位置から見ると、体の正面はこちら側。だから目が合って、潜水艦がニッ笑うのが見え、なんとも頼もしい気持ちになる。
投球練習は終わり「Play!」の声。潜水艦はバットをぐるぐるまわした後に、定位置へビシッと構えた。一緒に「にへら」と笑っていた顔も、しんとした無表情へ。相手投手の左手に注目し、アイノは白球の軌道を分析することにした。
(的速100から155km/h。手を離れる時には地上高180cm程度。ミットにおさまる時には90cmから50cmほど。ただし変化なき時にかぎる)
投げられた直球はツーシーム。時速140キロ代後半くらい。外角低め、自分のひざ先55センチの距離を目指す。
(ストライクか)
「Strike!」
(これなら振っちゃってもよかったな。失敗失敗)
そんな自省もそこそこに、潜水艦は心の中へ例のディスクを、ほわん、と浮かべた。「<Angriffsscheibe>」のつぶやきと同時に、心臓へ刻まれたのは襲撃盤。目標を狙い撃つ時に使う水測装置の一種。もちろん魔道具なんて持ちこめないから、ただイメージしているだけ。けれども浮かべたのが頭でなく心だったのは肝心なところだ。
直線距離や直線速度を測る襲撃盤には、変化球のような曲線を分析する力がない。でも今、彼女は自身へ魔術を行使していた。魔術詠唱をトリガーに、自身へ分析能力を付与したのだ。続いて「<聴音開始、電波探知開始>」とダメ押しをする。この世でその魔術の意味を理解できるのは、彼女以外なら魔王と魔女くらいなもの。ともあれアイノは敵の投球を分析しはじめた。
2球目が投手の手を離れる。回転しながら捕手を目指すボールに、アイノは全神経を集中させる。襲撃盤がくるくるまわって、聴音機が風切り音をつぶさにひろう。電波探知機は一コマ一コマ、その位置座標を潜水艦へ通達してくれた。
「Strike・Two!」
ふたたび投げられたツーシーム。ひざの高さぎりぎり、内角いっぱいのストライクゾーンへ決まる。さっきより6km/h遅く、そのぶんゆらゆらと落ちながら変化した。もし手を出していたら空振りかゴロに終わっただろうと思うくらい、非常に打ちにくい球だった。
次の球がなにか予想もつかないけれど、潜水艦は無表情のまま、次に打ってやろうと決める。
(うん、あまり時間はかけられない。私の本分は投手。ここで魔力を消費しちゃうと後に響くもんね)
ふたたびバットをくるりとまわし、定位置で構え相手をにらむ。ふっと息を吐いたのは、捕手に聞こえるおおきさだった。でもそれでいい。こんな所作をしたのなら、相手は「打つ気満々だな」なんて思ってくれるだろうから。
事実バットを振ろうと考えていたので、手の内がバレたことになる。そうなると相手は、まだ見せていない変化球をストライクゾーンからはずれるように投げてくるだろう。カウントだってノーボール2ストライクなのだから、次の球は必ずゾーンを外してくる。
投手は振りかぶり、投げた。体の影からその右手が姿をあらわした。それを全力の探知モードになった潜水艦が見逃すはずもない。とくに人差し指と中指をおおきく広げ、その間へボールをはさむなんていうおおげさな手元なんかを。
Splitter。Forkballとも。打者の直前で真下に落ちる、これぞ魔球といった具合の変化球がくる。
(――Rohr eins)
それに無言でタイミングを取った。バットを振りおろし、左脚へ重心を移動させながら。
ついで振り抜く。
(Los!)
ゴルフでいうところのパンチショット――低い球を打つ技法のように、バットを縦にまわすと、全力で下から上へ突き上げる。バットは芯でボールをとらえ、パン! と破裂したような音を立てた。打球はセンターとライトの間へ飛んでいく。誰がどう見てもヒットになる当たりだった。
「よし!」と思ったのは打者の潜水艦だけではない。1塁でその打球を見た代走のノエルもまた、自分の俊足が生かせるチャンスへガッツポーズをした。
「――<突撃>!」
魔術一節、彼は衝角となる。走る姿が、そのちいさい体からは想像できないくらいダイナミックなものへ変わり、空気を裂いて疾走をはじめた。強く蹴られた地面が無数の土くれを巻き上げて、その一粒ひとつぶが震えながら舞う。これだけ高く飛ばされたら、きっと地面との再会は情熱的なほど激しくなるだろう。
(3塁までは進んでやる!)
器用に歩幅を合わせた彼は、2塁ベースを右足で蹴った。ぱっと振り返り、白球の行方を追いながら。ボールはまだ地面へついていない。いや――もしかしたら、このままつかないのかもしれない。
センターを守るロドス・エルフの男。まだ名前も覚えていないそいつが、ラムアタック顔負けの俊足で落下点へ突進している。
(えぇ⁉︎)
追いつくのか、いや、追いつけるのか? もし彼がノーバウンドで捕球したら、自分はいったいどうすればいい?
経験の浅いノエルが判断することなどできなかった。今までだって自分で物事を決めることなんてほとんどなかった。仕事は魔王様に言われたことをやっているし、食べるものだって宿の女将が用意してくれたものを口に運ぶだけ。自分で考え身を振ることなんてできやしない。
(こ、骨さん!)
でも彼の美徳は、そんな自分をちゃんと理解していること。つまり頼る相手がいるのなら、ちゃんと頼れること。急ブレーキをかけたあと、3塁ベースコーチの骨36号へ視線をやる。
両腕で、おおきなバッテン。「まわるな戻れ」の明確な指示。
「うわぁぁん!」
あっという間に涙目になって、ノエルは身をひるがえした。2塁をまわってすぐのところから、きた時よりも気合の入ったスプリントで1塁ベースを目指していく。同時にあきらかな大歓声。どうやらボールは捕られたのだ。証拠に視界の左隅では、エルフの男がグローブからボールを取り出して、ロングボウのように体を反らせているのが見えた。
「あわわぁっ!」
彼も魔界の住人がゆえ、その逃げ足たるや天下一品。ベンチで見ていたフェンリル狼が「速ぇ……」と無味な感想をつぶやくほど。地面との衝突を生き残った土くれたちにとって災厄でしかない。再び巻き上げられた上、空中ではノエルの残した涙・鼻水とランデブーする羽目になったから。
「ょわぁん!」
ずざぁっと派手にヘッドスライディングをかました衝角少年は、1塁手の元へボールが返る前になんとか帰塁をはたした。白球はすぐ近くまできていた様子だ。
危なかった。もうほんの少しだけ判断が遅れていたのなら、3アウト目を取られて攻守交替になるところだった。心臓がバクバク音を鳴らして、顔は食べられずに半年ほど経過してしまったニシンの燻製みたいなしわを浮かべる。
そんな彼を気遣ったのか、魔女の要求によりタイムがかかった。プレーが禁止されるボールデッドの状態だから、おかげで深呼吸をする余裕が生まれた。死とはなんとも怖い響きだけれど、またさっきのような恐ろしい目に遭うくらいなら死んだままでいてくれと懇願してしまう。
「ノエル、けがはなさそうだね。よく戻ったよ」
ベースコーチのイーダがきて、服についた土をぱっぱと払ってくれる。「こ、怖かったよ、魔女のお姉ちゃん」震える声でそう言ったノエルに、いつもだったら魔女は「ふひっ」なんて鳴いただろう。でも、今はとても心配な様子。
(……心配かけちゃった?)
いつもと違う魔女の雰囲気に、ノエルはちょっと悪い気になった。だから「大丈夫だよ」と言ってみる。僕はまだいけるんだよと、ガラにもなく強がって見せた。
「うん、心配しないでね」
なのに魔女は浮かない顔で、というより少々心ここにあらずな表情で、相手の投手から目を離さない。投手の側は投手の側で、捕手となにやら話をしている。ご丁寧にも口元をグローブで隠しながら。
ようやく気持ちの落ち着いたノエルは、ちょっと変だなと感づいた。
「どうしたの?」
その疑問にも魔女は「大丈夫」としか返さない。なにかをごまかすような印象さえ覚える。
「Play」
そしてそれは、相手投手の奇妙な行動によって、形となってあらわれた。ノエルという少年にとって、最悪の形でもって。
ボールインプレーが宣言された直後、投手ノジュスはゆっくり振り返る。バッターボックスにはクリッパーが入っているにもかかわらず。そしてこれまたゆっくり、2塁へボールを送球した。駆け寄った二塁手が、ベースを踏んでそれを捕球する。
2塁塁審のオートマタは、その一連の光景をつぶさに見ていた。そして二塁手が捕球したボールを見ると、人差し指でノエルを指さす。そしてそのまま腕を90度曲げ、手を握りこぶしへ変えて言った。
「Out」
「え?」
なにが起こったか理解できた者など多くはない。ヴィヘリャ・コカーリではイーダだけ、敵であるヴォゾヴァ・ハラドバにおいても3分の2の選手が頭へクエスチョンマークを浮かべている。球場の観客にいたっては、ざわめきを立てるだけ。
「ね、ねえお姉ちゃん。アイノがアウトなのはわかるけど……僕もアウト? なんで?」
「う、うん。それはね……」
3アウトで攻守交替。イーダはノエルをともなってベンチへ戻ると、アウトの理由を説明した。
「ノエルは2塁をまわった後、1塁に戻る時、ひとつ忘れちゃったことがあるんだ」
「ええっ⁉︎ ぼ、僕、なにをしたの⁉︎」
「もういちど2塁ベースを踏んで戻るのを忘れちゃったんだよ。空過っていうんだ。相手がわざわざ審判へ見せつけるように、ゆっくり2塁へボールを投げたのもそれが理由」
それはアピールプレイというルールにのっとって行われた。守備側のチームが、走者――この場合ノエルのルール違反を審判へ主張して、承認を求める行為のことだ。審判というものは、走者が正しく走塁をしていなかったとしても、誰かに教えることができない。あくまで公平な立ち位置をくずさないから。ゆえに守備側は走者をよく見て、次のプレーが行われる前にアピールをしなくてはならないのだ。
一見わかりにくい状況に、主審はバックネットの下に設けられた審判席へ戻ると、マイクを使って観客へ説明をした。「1塁走者が2塁をまわり、その後1塁へ帰塁する際、本来もういちど踏むべき2塁ベースを空過した。アピールプレイが行われ、これが認められた」との内容だ。客席のざわめきは半分がため息へとかわり、もう半分が歓声にかわる。
「そんな……」
ノエルの顔はみるみるうちに曇っていった。いつもの梅雨空のような目が雨足を強め、「うぅっ」という嗚咽と一緒に雨粒になって目の端からこぼれる。
せっかく自分にあたえられたチャンスを、自らのミスでだいなしにした。それはとても、とてもくやしいことだ。彼の短い人生の中で、これほどまでに後悔の念を強くしたことなどない。時間が戻せるなら戻したいと、そう思うくらいに。
ヴィヘリャ・コカーリのメンバーは、ノエルの肩をたたいてから守備位置についた。「気を落とすなよ」とか「問題ない」とか、かける言葉はそれぞれだったけれど、今のノエルにはどれも辛く聞こえてしまう。すばらしいパフォーマンスを見せているチームメイトたちにくらべ、自分はなんてお荷物なんだと感じてしまっていたからだ。
4回の表がはじまってもまだ、ノエルは顔を上げられない。肩を震わせベンチに座り、涙のすじをほほへつたわせるばかり。ただ、救いもひとつあった。決してひとりではなかったことだ。
よりそう魔女はあえて声をかけずに、ならんで座ってノエルの肩をだきしめていた。彼女にしてはめずらしく「尊いから」なんてよこしまな理由を忘れ、ただ温めてあげなきゃという義務感でそうしていた。転生直後、自分もさんざんやってもらったことだ。恩返しのような気持ちもあったし、ここで彼を離したら魔界の住人としてはずかしいなんて思いもある。
打席に立つのは勇者イヴォ。目を離している場合ではないのに、イーダはしばらくそうしていた。
投手アイノが1球投げた時、ようやくノエルが口を開く。か細く消え入るような声で、「ごめんなさい」と。
「ノエルでだめなら、他の誰でもだめだったよ」
代走に出したのは私、1週間の練習中に教えられなかったのも私。そう言葉をつなげて泣く少年をはげます。即席チームでここまでよくやっているのだ。誰かのミスを責めるなんてこと、できるわけがない。
「…………」
少年からの返事はなく無言。でも、彼は顔を上げて服で涙をぬぐった。さっきよりもちいさい、アリの鳴き声のようにささやかな音量で「ありがとう」と言って。
話をしているうちに、アイノは勇者にヒットを打たれた。観客席が湧き、ピンチが訪れた。監督はそれを見ながらも、ノエルの肩を離さない。ぎゅっと力を強めてやって、大丈夫なのだと態度でしめす。
そこまでしたからだろう。少年に気持ちがつたわった。彼は真っ赤になった目で魔女を見て、鼻水をすすりながら口を開く。
こんどはちゃんと聞こえる声で。
「監督、僕、もういちど走塁のことを知りたい。もう失敗したくない」
「うん、まかせて。次の出番までおさらいをしよう。私はノエルを頼りにしているんだから!」
さっそくルールブックを開くイーダと、一緒になってのぞきこむノエル。後ろの席から骨36号も首をのばす。
ドクはその光景を見て、となりでノビる魔王を見た。そしてぼそりとつぶやき笑う。
「一時的にならだけど……魔王様がいなくてもさ、僕らはちゃんと戦えるみたいだね」




