笑うベースボール 19
やる気を取り戻したウリッセ――勇者チームのドワーフのキャッチャーは、ミットをバシンと叩き、気合を入れ直す。そこへ、すらりと足を運び打席へ入ったのは、魔王チームの3番バッターだ。
今までのふたりと違い、右打席、つまり捕手から見て左側へ。冒険者なら誰しも聞いたことのあるビッグネーム、緑の皮のベヒーモスことヴィルヘルミナ・オジャ辺境伯だ。
「よろしくお願いします」
声に、彼女を見た。どこの欲望にまみれた彫刻家が創ったらこうなるのか、ドワーフである三つ編み捕手からしてみても圧倒的な体のライン。もう見ているだけで幸せになれる、見る麻薬の一種。神が彼女を禁止していないのは、神が司法権を人々へ渡してくださったからに違いない。これは役得である。とてもよい。
いや、よくない。三つ編みがホームベースへつきそうなくらいに鼻の下がのびてしまっては、顔にかぶったマスクの長さが足りなくなってしまうではないか。
邪念雑念ここに極まり、ウリッセは状態異常「魅了」を得た。さっきまでの戦士の顔はどこへやら。酒場でビール片手に顔を赤らめる酔っ払いのような表情に。
それに気に入らないのは投手のジュラだ。もうどうしようもなくなったやつの目を覚まさせてやるのが今の自分の役割であると、構えるグローブの中でボールを握りなおす。人差し指と中指を立て、折り曲げたそのシルエットはラプトルの爪。その間へ白球をはさみ、とある変化球の準備をした。とても、とても怖い顔をしながら。
3秒後、ウリッセはジュラのその表情に気づく。あれはなににむけた怒りか、もはや邪竜のような形相になっていると。しかし気合があるのはよいことだと勘違いして、彼は足の間にはさんだ右手でサインを送り、ピッチャーへ球種を問うた。
指一本、直球。恐竜は首を振る。これはおかしい、あの表情では直球以外にないと思っていたが、いったいなにを投げるつもりなのか。
指二本、これはカーブのサイン。しかし投手は首を振る。彼の得意な変化球なのにこれも違うのかと、ウリッセは少し不安になってきた。
指三本はシンカーのサイン。スクリューと同じ軌道、つまり投げた腕の側に曲がって落ちる変化球の中でスピードのあるものだ。カーブとは左右逆方向の変化になる。しかしそれすらも首を振られたことで、三つ編み男の汗腺から一斉に汗が噴き出した。
(残る球種は……Forkball⁉︎)
ジュラはコントロールがあまりよくない。その中で、真下にストンと落ちるフォークボールは暴投をまねきかねない危険な球種だ。ゆえに「今日はフォールボールはなしだな」と試合前に話していたではないか! それをなぜ……。
でも投手の意思は固いようなので、泣く泣くキャッチャーミットを低めに構えた。あの球は取るのが難しい。
恐竜が足でマウンドをえぐり、吼えるようにして腕を振った。予想どおりあきらかに低すぎる上、妙な力が入ったのか落差が少なく速度も異常に速い。それは狂ったようにまっすぐ飛んできて、ホームベースの上で低くバウンドした。そのまま勢い止まらず、時速100キロを維持したまま、絶妙な高さにはねてウリッセへせまる。蹲踞する彼の、その足の間へ。
パッカン! いい音、急所に直撃。
「っあぉぉぉんっ!」
絶妙な悲鳴。
小太鼓のような小気味いい音が鳴り響いたのは、別にどこぞの世界律が「愉快な効果音でも入れてやろう」と気を利かせたわけではなく、ファールカップ――急所を守るための防具へボールが当たったからだ。
「Time!」
異変を感じた主審は即座にタイムを宣言した。両腕をバッと開き、バシッとポーズを決めながら。
通常、選手が負傷したとしても審判はタイムを宣言できない。プレーが切れてからタイムを宣言するのが正しい手順なのだ。ただし例外もある。
――選手の生命に危険がおよんだと判断した場合、審判は即座に試合を止められる。
オートマタの主審は、捕手が命の危機にあると(勝手に)判断した。過去、勇者たちの練習試合で主審を行ったさい、当たってはならないところに当たった選手が長いこと悶絶していたのを見ていたのだ。あの時の表情は、彼が苦痛から逃れんとするあまりに、天界からの使者を呼んでいるようにすら見えた。だから今日、告死天使様がご降臨あそばれるよりも早く、みずからの手で事態を収拾せんとしたのだ。
そして主審はシュババっと片膝立ちになり、その右手をさっと患部へかざし、するどく言い放つ。
「<Heal>!」
別になんらかのコールをしたわけではない。彼の行動は回復魔術だ。勇者イヴォが気を利かせ、もしもの時に傷を癒すよう審判たちへ能力をあたえていたのだ。
「ぐぇぅぉぁ、あっ⁉︎ ああ、痛くない!」
完全にからまったスパゲッティのように混乱するウリッセの脳が、正常に戻るたぐいの魔術ではなかったが。
そこから2分程度、少々の混乱を収拾するためにタイム――ボールデッドの時間は続いた。その間、塁上の悪魔種たちは顔を青ざめさせおとなしくしており、打席のベヒーモスは興味深げにしげしげと負傷者を見ていた。
状況落ち着き、主審はすっと立ち上がる。
「One Ball、No Strike。――Play!」
三つ編み男の顔色が土気色からもとに戻ったので、状況もボールインプレーに戻る。当の捕手はそこでようやく、恐竜投手が自分に怒っていたのだと気づき反省をした。
で、気づいたのだ。自分の気負いがすっかり姿を消していることも、投手が意外にも冷静で、なおかつ闘志満々であることも。
(ええい、ふぬけは吾輩だけだったのか!)
自分に気合を入れるため、そしてそれを相棒へ伝えるため、ドワーフはミットとこぶしをバシンッ! とぶつけて「やってやろうではないか!」のジェスチャーをした。ひりひりする右手をそのまま足の間へ。立てた指の本数は3。要求は打者の内側に食いこんでいく変化球、シンカーだ。そして内角低め、ストライクゾーンぎりぎりにミットを構える。
投手はうなずき、そしてふっと笑った。その表情はすぐに竜のそれに変わり、襲いかかる獣がごとくマウンドを蹴った。
時速130キロくらいの投球。今まで投げたものにくらべれば、それはとてもおいしそうな速度に違いなかった。動体視力のよい4大魔獣の一角が、それを見逃すはずもない。
しかし振られるバットがボールをとらえる直前、白球の軌道は猛獣の爪のような弧を描いて落ちる。捕手にはその光景がよく見えていた。魔獣がそれをも視覚でとらえ、バットの軌道を変えたことを。そんな人外のスイングをしてなお、シンカーの変化量が上まわっており、バットの芯でとらえることは難しいだろうことを。
短い音がカッ! と鳴って、打球はするどくショートの方向へ飛んだ。そこを守るリザードフォークの遊撃手の、左側3メートル、高さ2メートルの位置を矢のように走る。完全なるヒット性の当たりだ。ヴィヘリャ・コカーリのメンバーは、全員がスコアボードへ1点ないし2点が刻まれるのだと確信していた。
打球はとおりすぎる……通常ならそうだ。事実、打球が抜けると判断した2塁走者のクリッパーも1塁走者のサカリも、全力で次の塁へ走り出したところだった。
だが、ショートの位置を守るのはヴォゾヴァ・ハラドバで一番守備のうまい女。リザードフォーク、オリヴィア・アメリア・アーチャー。通称はアミ。ゲームがはじまる以前から、魔界の面々に警戒されていた二遊間のひとり。
彼女は太い尾と太い両脚で地面を蹴り、猛烈な速度で打球へ飛びついた。瞬間移動したように見えるほど機敏な動きだった。そしてノーバウンドのままボールはグラブへ。バシンと皮を叩くいい音がする。
「Catch!」、審判のコールでまずは1アウト。
ふたたび尾を地に打ちつけて、体勢を崩さずに着地した彼女は、そのグローブを走ってきたクリッパーへのばす。華麗なる守備の動作でもって、あっという間に走者に触れた。
「On the tag、He's out!」、すかさず審判が2アウト目をコールする。
老練な司書が「まいりましたな」と白旗を上げほどの手際のよさ。だが彼女にとって、それは仕事の終わりを意味しない。
グローブへ右手をねじこんでボールを取り出すと、するどく1塁へ送球した。まっすぐにのびた白い軌跡でもって、飛び出していたサカリのわずかなすきをとがめるために。魔界のカラスは仰天した。あの打球が抜けたのなら俊足を生かし、2塁といわず3塁を、ともすれば本塁をも陥れようとしていたのだから。
いかに彼の脚を持っても届かないほど、ひとりの女が繰り広げた守備は見事なもの。帰塁のために頭からすべりこむも――
「He’s out!」、この回、最後のアウトコール。
――Triple play。守備位置の番号を加味して表現するのなら、「6・6・3のトリプルプレー」。地球のプロリーグでは、ひとつの国につき1年に1回も発生しない、宝くじのような現象の一種だ。
球場は大歓声に沸き、先ほどまでヴォゾヴァ・ハラドバを支配していた「嫌な流れ」は、一気に追い風へと姿を変えた。
「ぃよおーしっ!」
恐竜が両手を叩きつけて咆える。そして遊撃手アミへ、離れたところからグータッチをするように、勢いよくこぶしを突き出した。そうされた側のリザードフォークはあくまで冷静。片眉を上げながら、片手を上げてニヤリと笑う。
大喜びで守備位置からベンチに撤収する勇者チーム。ハイタッチをあちこちでかわし、ムードはあきらかに上昇気流をつかんでいた。次は自分たちの攻撃だ、さあやってやろうじゃないか、なんて言いながら。
それを遠目に見るイーダは、冷や汗を浮かべていた。野球にかぎらずスポーツというのは、リズムであるとかムードであるとか、そういう目に見えない概念が力を持つ競技だ。それは「流れ」なんて表現されるようなもの。「流れがきている」時、得点は入りやすくなる。
(次の回、あきらかに相手が有利だ。一方、私たちはチャンスをものにできず下降気流気味)
ベンチへ歩きながら、監督としてどう振る舞うべきなのかと考えた。アウトになった3人へビシッと苦言を言うべきか? いや、それだけは絶対にない。あれは相手の守備がうますぎたのであって、3人がミスをしたなんて口が裂けても言えやしない。
(かといって、はげますのもなんか違うよね)
歩きながら考える。スープのように温かい言葉は、きっとなぐさみにはなるだろうけど、彼らがそんなものを欲しているように思えなかった。まだ1回が終わったばかり、ホッと一息つくには早すぎるだろう。心が強い彼らのこと、このタイミングで癒しを必要としている人なんて、ベンチにはシニッカ以外にいないのだ。
(……シニッカか)
ベンチの上へうつぶせに転がされた、カールメヤルヴィの魔王様。はみ出した片手をだらりとさせて、彼女は絶賛気絶中。
(シニッカなら、なんて言うのかな?)
本人の意識がないのをいいことに、イーダは頭の中で彼女の口調をまねてみた。「あらあら、とんだ災難ね」とか? いや、言いそうだけれど、監督の言葉としてはなんの狙いもなくてだめだ。「トリプルプレー! はじめて見たわ!」……、喜んでどうする。「1球でアウト3つ、付加価値の高い1打ね」、いやなに言ってんだ私は。皮肉はよそう。
考えているうちに、魔女の足はベンチの短い階段を下っていた。目の前には打席から帰ったヘルミ。その後ろにはサカリとクリッパーも。
「すみません、監督さん。まんまとやられてしまいました」
「すまない、イーダ。もう少し慎重になるべきだっただろう」
「申し訳ございません。次ページをめくるのが早すぎたようですな」
困り顔で、ちょっとだけ無念そうな3人の顔。どうやら思った以上に心理的ダメージがありそう。
そんな表情を見たから、イーダはそれと逆のバランスを取るようにニコッと笑う。ついでになにかを思う間もないまま、彼らへ言葉を口にした。
「おもしろくなってきたね」
(……あれ?)
ほんの一瞬の沈黙、後に「ははっ!」、ベンチの奥のほうで狼が笑った。「ああ、そうだな! 相手はこの3人が流されちまうような激流だ。一筋縄じゃいかないってことだろ? いいね、燃えてきたぜ」
「倒しがいがありそうでスね。やっぱ勇者はこうじゃないと」
そうやってベンチはにぎやかになった。笑うベースボールチームは、「俺たちにはなんの問題も発生していない」ことを振る舞いで表現していた。
イーダは疑問に思い、すぐにその回答を得た。なんで「おもしろくなってきたね」なんて言ったのか。それは彼女自身も逆境を楽しんでいたからだ。きっと勇者という強力な敵と、くりかえし戦っていたからだろう。もしくは転生時と先日の天界で、2度も死を経験したからなのかもしれない。
「さ、守備に入ろうか! アイノ、マウンドまかせたよ!」
「|承知したよ《Aye, aye, Ma'am》!」
トリプルプレーという逆境を、むしろ歓迎することにして、ヴィヘリャ・コカーリのナインは駆け足で守備に散る。
足取りは軽快そのもの。
彼らは今日、ベースボールを楽しもうと決めた。




