笑うベースボール 17
「マウンドに上がる潜水艦」。文字に起こすと字面がすごい。でもまあそれも慣れっこで、イーダはアイノの投球練習を見ている。
小柄で細い体を目いっぱいに躍動させながら投げる、彼女のフォームはSidearm。シニッカならびに多くのピッチャーの投球フォーム、腕を上から下へ振るOverhand throwと違い、腕を横に振って投げるちょっと変わったスタイルだ。
サイドスローは速球を投げるにはむいていない。けれど、左右の角度をつけられるおかげで変化球が強い。とくに横方向へ変化するスライダーとかシュートとか、横方向への変化プラス下に落ちるスクリューボールとかカーブとか、そういったものを得意にする。球筋を見ていると、コントロールもよさそうだった。
(……渋い。でもアイノらしいな)
シニッカが本格派なら、アイノは技巧派になるだろう。いたずら好きな性格と、恵まれてるとはいえない体格。くせ者であるところの潜水艦らしい投球術だといえる。
イーダは彼女が投球練習をする姿に、ちょっとだけ見惚れていた。生前野球を見ていた記憶の中では、サイドスローの選手というのはオーバースローの選手よりも少なかったと思う。くわえて彼女の場合は左投げ。明確にレアな選手といえ、地球だったらどんなチームにも重宝されるほど。それが今自分のチームでマウンドへ上がっているのだから、感動してしまい目が離せない。
(すごいなぁ……あれ? アイノのグローブなんか変だな)
姿に注目していた魔女は、潜水艦が右手にはめたグローブに違和感を覚えた。通常、グローブというのは左右が非対称だ。右利き用であっても、左利き用であっても、そのほうが捕球しやすいから。でもアイノのそれはシンメトリーをたもっているように見える。あんなシルエットのグローブは見たことがない。
「練習終わり! はじめていいよ!」
数回投げこんだところで、アイノは審判へそう告げた。主審は首を左にまわして、3塁ベンチ側の勇者チームを見やり、次の打者へバッターボックスへ入るよう目で督促する。
待機していたのは狼獣人の女、サラー・ラウラ・ミュラー。愛称はララ、ポジションはセカンド。つややかな毛並みと俊足が自慢の2番バッターだ。人間種にくらべ長い口吻を保護するため、ヘルメットは頬当てが前にのびている。それをぐっぐっと両手でかぶりなおして、彼女は左打席(ピッチャーから見て右側、キャッチャーから見て左側)に立った。
で、ぶるるとひとつ武者震い。いや、半分は緊張感からくるただの震えだ。
(ば、バルテリ様がセンターにいらっしゃる……)
この世の狼の頂点に立つ、青い毛並みのフェンリル。うわさを聞いたことこそあれど、目にするのははじめてだった。彼は自分たち獣人もふくむどの狼より速く駆け、そして強い。「音に聞こえし」とはまさにこのこと。彼の伝説は語り草になっていて、それが今日目の前にいるのだ。
さっき整列した時には、もっと近距離にいたから心臓が止まるかと思った。鳥肌が立ったせいで、つやのよい毛がまるで風の吹く草原のように立ち上がってしまったほどだ。
(いいえ、しっかり! しっかりしなくてはだめ! せっかくイヴォの役に立つチャンスなんだから!)
実は彼女、イヴォに命をひろわれていた。半年ほど前まで、彼女はいわゆる傭兵崩れだった。盗賊、盗人、強盗のたぐいと大差ない生活は、彼女に身の危険と満たされない心をもたらすばかり。そしてついに賞金首になり、冒険者の介入を受けてしまったのだ。
その冒険者は異常なほど強く、彼女をリーダーとする数名の集団は敗北が必至となった。でもそいつはちょっと変わり者で……たしかこんなことを言われた記憶がある。「心から熱中するものがあれば、金をかせぐ手段などなんでもよくなる。どうだ、私と一緒にチームを組まないか?」
続く「ベースボールの」という言葉には、頭にクエスチョンマークをうかべてしまったが、かくして狼獣人サラーはヴォゾバ・ハラドバへ入団を果たす。ちなみに今日ここにきているメンバーのうち、3人はその当時の部下だった。
(さぁ、イヴォのかわりにアタシが出塁を!)
対峙する黒い髪の潜水艦、すなわち4大魔獣の一角が胸元へ両手をあわせる。グローブの中、左手でボールをまわし、縫い目をたどって投球準備。サラーは眼光するどくその姿を視野にとらえ、サイドスローからくるであろう投球へ身構えた。
クイックモーション気味にグローブから左手をとりだした潜水艦。上体をぐぐっと前に倒した反動で、左腕を背中側へ高くかかげる。そしてその先端にある手は――なんと地面すれすれをはうように走りながら白球を放った。
(なにそれっ⁉︎)
だまされた。さっきまでの投球練習ではサイドスローだったはずだ。なのにあの黒い髪の少女は見たこともないようなフォームでボールを投げた。あっと思う間もないままに、低い位置から浮き上がったボールはストライクゾーンへ吸いこまれる。
「Strike!」
主審のおおきな声がしても、ララの心は現実をのみこめない。わけのわからない投球へ、どう対処したものか考えもおよばない。
――Underhand pitch、ないしSubmarine。日本だろうがアメリカだろうが、ベースボールのピッチャーとしては一番少数派である投球方法。ボールは時に地上数センチという低さから浮き上がるように飛んでくる。その上、左打ちの打者の背中側、つまり死角に近い場所から投げられるため、慣れていないときわめて打ちにくい。球速自体は速くないものの、それを帳消しにしてなおあまりあるメリットを持つのだ。
(あ、あんなのどうやって)
あっけにとられて口を開く彼女は、アイノにボールが返球されて、すでに投球モーションへうつっているのが見えた。2球目の浮き上がる球が放られたのだ。ハッとしてバットを振るも、高さもタイミングも完全に外されてしまう。
ズバン! キャッチャーミットにボールのおさまる音がした。「Strike・Two」、審判のひかえめなコールも聞こえた。カウントはノーボール・ツーストライク。追いこまれた、というやつだ。
(まずい! せめてバットに当てないと!)
まんまと心理戦にひっかかってしまったララは、気負うがあまり全身の筋肉をこわばらせてしまった。必要以上に肩が張り、バットの先端位置がずいぶんと持ち上がってしまっている。
それを見逃してくれる敵ではない。とくに近くでなめるように観察しているキャッチャー・オンニは、これではコンパクトなスイングができないことをしっかり見抜いていた。
(ご愁傷様でス)
蹲踞で座る足の間へ右手を入れ、指を2本立ててやる。アイノに対するサインであり、それは「変化球を投げろ」の意味だ。そしてキャッチャーミットを打者の内角低め、ストライクゾーンよりも外側のひざ元に構えた。この位置ではデッドボールが怖いものの、コントロールのよいアイノであれば問題ないと判断したのだ。
アンダースロー投手たる潜水艦が、3球目を元気よく放る。低空から膝上まで浮き上がったボールは、ストライクゾーンの真ん中やや右下を目がけているように見えた。打者もそれをよく見ていたようだ。硬くなった体を懸命によじり、なんとかバットに当てようとスイングを開始する。
でも打球はちろりと舌を出して逃げていった。いったん浮いた球筋は、ぐにゃりとサラーの側に曲がり、内側に切りこみながらバットを空に切らせてしまう。
変化球『Screwball』だ。投げた腕の側に曲がりながら落ちるもので、人によってはSinkerと言ったりもする。サブマリナーたちの得意とする球のひとつであり、事実アイノの決め球――もっとも信頼に足る球種でもあった。
「Strike・Three」
これでスリーストライク、バッターアウト。1回の表、アウトカウントは2。オンニはボールを投手に投げ返しながら、その結果へ自然とうなずいていた。
(ひと試合の中だけじゃ、あの投げかたに慣れるのは難しい。アイノからヒットを打つのは至難の業っスね)
3番バッターはララの元部下であったベルナール・アルベルト・ユーベル。愛称はベルベル。オレンジ色に輝く毛並みの彼は、狐の獣人だった。ポジションはサード。防御系の魔術が得意で、打たれ強さには定評がある。
そんな彼もまた、ララと同じく緊張していた。ヴィヘリャ・コカーリといったら大陸に名だたる暗殺集団だ。それがイヴォによって頭である魔王を傷物にされたのだから、きっと恐ろしい報復が待っているに違いないと信じて疑わなかった。
(ぶ、ぶつけられたらどうしよう)
フォーティファイ・アーマー、すなわち防御魔術は発動済み。けれど相手は潜水艦だ。いや、そもそも潜水艦とはいったいなんだ? 海の中に潜む大蛇の一種ではなかったか? 冒険者ギルドでそんなうわさを聞いたことが……。
「Strike!」
「あっ!」
その潜水艦はテンポよく投げこんでくる。さっそくひとつ、ストライクを取られてしまった。
(くそぅ! 負けるな俺! ここは野球場、化け物も俺も平等なはずだ! 同じ人型なんだから!)
気合を入れなおして構えを正す。まずはあの不思議な投球を、目に焼きつけなければならない。
敵投手は投げる時、いったんおおきく下に沈む。その体勢からはね上がる力を水平方向に変換して、白球を矢のように放ってくる。
「Strike、Two!」
(今、塁に出ている人間はいない。その上ツーアウト。なら無理して打っても後が続かない。よし、この打席は観察に徹しよう)
心を決めて、彼はバットをほんの少しだけ短く持った。打球の飛距離は下がるが、ボールを打ちやすくする工夫だ。バットに当てさえすれば、ファールにできるかも。そうすれば、ささやかながらも観察する時間は長くなる。
アイノの3球目、それは外角低めによくコントロールされていた。遅い速度ながら、するするっと地面からはい上がってくる。腕をのばせばカット――あえてファールにすることも可能だろう。
当たれ、と願いながら奥歯を食いしばり、ベルベルは投球へバットをのばす。できれば2、3回はカットを繰り返し、少しでも相手を研究する時間が欲しい、そう思いながら。
が――ボールはまたしても舌を出す。真横、ベルベルから遠ざかる方向へ、すべるように曲がっていった。
――Slider。投げた腕と逆方向へ、横すべりするように動く変化球。潜水艦なるピッチャーは、先ほど投じたスクリューと逆の変化球も持っていることになる。
キャッチャーミットが鳴る音と、バットがふぉんと宙を切る音。ストライク・スリー、スリーアウト。これで攻守交替だ。
「くそっ!」
ベルベルのくやしがる姿に、捕手オンニはキャッチャーマスクの下でちろりと舌を出した。できれば今日、このまま圧倒的な投手力でもって相手を制圧したい。そのためには、敵に的をしぼらせず、アイノの投球術を100パーセント引き出す必要がある。
(せいぜいうまくやりまスか)
手におさまったボールを満足そうに見た彼は、それをボールボーイに放ってその場を後にした。他のヴィヘリャ・コカーリも守備位置から離れ、駆け足でベンチへ下がっていく。アイノとオンニはグータッチ、他の者は駆け寄って投球をほめながら。
そんなみんなを、イーダは笑顔でむかえる。開始早々とんだアクシデントがあったけど、どうやら事態は悪くなってない。むしろ投手アイノという潜水艦本人しか知らなかった特別な才能が、マウンドで暴れだしたのだから、好転したのかもしれない。
……ノビているシニッカには悪いけど。
「よくやったよアイノ! すごかったよ! オンニもナイスリード!」
ニコニコしながらアイノとハイタッチ。「でしょ!」なんて得意顔の親友が誇らしい。
両手放しで祝福を。私たちはちゃんと戦える。
「さあみんな、攻撃の準備だ!」
勢いのよい監督の声に、ベンチのみなが「おうっ!」と応じた。勢いづいたそのままに、1番バッターが打席にむかう。
1回の表をヴィヘリャ・コカーリは無失点におさえ、試合は1回の裏がはじまった。




