笑うノコギリエイ 前編6
あきらかに様子の違う場所へきた。
道はずっと狭くなり、その脇は街道のように切り開かれていないから、木々が覆いかぶさってかなり暗い。左右の森へ迷いこんだら二度と戻れなさそうだ。木々のすきまから見える空の太陽までも灰色の雲の仮面をかぶっているし、草地では馬車の残骸と馬の死骸が恨み言をつぶやいている。背の高い草の間には、朽ちた剣らしきものや、切り裂かれた皮鎧だろうものまで見え隠れしていた。
そしてその脇に、ぽつりぽつりと転がる人の骨。
この場所は戦場になったのだろうか。古くは街道として使われていて、馬車が旅人に泥をはねないようゆっくり往来するような、にぎやかな場所だったはずだ。でも今は時が永遠に止まったかのようにずいぶん物悲しい。
今日の外出へ「害獣退治」という表題をつけられたイーダは、残酷な物語がはじまるのを覚悟していた。
(これ、人が死んでいるんだよね……)
テレビや教科書の中で見た紛争の映像を思い出す。穴の開いた壁、遠くに聞こえる銃声、子どもをかかえて泣く人たちが目の前にいるようで……胸のあたりが現実にしめつけられた。これをやったのがどんなやつなのか想像もつかないが、あまり会いたくないのはたしかだ。
馬車は悪路で速度を落としたから、じらされているようで恐怖が徐々におおきくなった。悪いことに雲の量も増し、視界も灰色へ覆われていく。生まれてはじめての「戦闘」なるものへ、緊張感を湧き立たせるように。
しばしの後、事態はアイノの声で動いた。
「2 o'clock、100 yard、seven」
「止めろ」
バルテリが馬車を止めさせ飛びおりる。槍持ちの死体労働者がそれに続き、御者も荷台の上で腰の剣を抜いた。
「イーダ、少し残酷な景色になるぜ。全部見ろとは言わねぇから、我慢できなかったら目をつむれ」
「……わかった」
「50 yard」
「それから、四肢を同じ数にしておきたかったら、そこから動くな。俺たちが守ってやるから」
「うん……」
後ろ姿しか見えない狼男が、真剣な顔をしていることくらいわかっている。御者のほうのゾンビが手綱を片手に剣を構え、目の前に壁を作ってくれた。
「目標視認――Class、Bandit」
アイノの声と同時、ガサガサと茂みをかき分けてあらわれたのは、下卑た笑みの男たち。汚れた衣服を身に着けて、欲望に目をぎらつかせている。
「人間の盗賊⁉︎ 害獣って!」
イーダは戦慄した。まさか相手が人だったなんて思いもしなかった。その人たちのことを「害獣」と呼ぶことも。
「ようよう! 兄ちゃんひとりで女ふたりを相手にするなんて、そいつは少ぅしぜいたくがすぎやしないかい!」
「人によく似た鳴き声しやがる」
皮肉を返したバルテリが、手のひらと拳を合わせた。
「――<獣化せよ>」
グラリ、視界が青色にゆがむ。それは渦を巻いた毛の塊のような、生きた水のような、おおきな影だった。一瞬の時間の後、イーダはそれがなにか理解した。
人を丸呑みできるほどおおきな口、それを飾るようにならぶ白くて長い牙。4本の脚が地面へ爪を突き立てて、青い毛並みがまるで炎のようにゆらめいている。
そこにあらわれたのはまぎれもなく巨大な狼――フェンリルだった。
「な! なんだぁてめぇ⁉︎」
問いに対する答えはない。かわりにバチン! 歯と歯が合わさる音。
青い獣のあごが一瞬で赤く染まり、真っ二つになったやかましい男がドチャっと地面に転がった。
「こ! 殺せぇぇっ!」、他の盗賊たちが飛びかかる。けれど、バチン! バチン! 音がするたびに新しい死骸が宙を舞い、地に落ちた。
(な、なんなの……?)
目の前で起きていることを理解できない。おおきな狼が牙を振るい、盗賊たちは次々と真っ二つにされていて……。そこには死があるはずなのに、脳がそれを処理できない。
叫び声も宙を舞う肉片も、大地を汚す血液も。フェンリル狼も、盗賊たちも。現在目の前の舞台に登場している、それらひとつひとつへ個別に遭遇したのなら、きっと恐怖という名の実感が心身を支配しただろう。でも今は違った。全部がいっぺんにやってきて、死を演出している。
どうしたらいいのか、どう感じたらいいのか。イーダにはわからなかった。
「てめぇら! 生かして帰さねえ!」
と、近くでおおきな声がした。イーダははっと我に返る。反射的に声のほうへ顔をむけると、血走った目の2人の盗賊が、視界の中央を占拠していた。
馬車の手すりに手をかけて、今にもこちらへ斬りかかりそうな勢いで。
「ひっ!」
強い殺意を感じ後ずさろうとした。しかし恐怖で脚がこわばり、うまくいかない。完全に立ちすくんだ状態で、彼女は盗賊の振るう錆のついた刃を見ていた。それで体を切り刻まれるという恐れに、体の血の気が逃走をはじめる。
死を感じた瞬間――聞こえたのはザクリという音。自分からではなく、目の前の相手から。
片方の盗賊の体へ槍と剣が突き刺さっている。イーダは自分の横からのびたそれが、ふたりのゾンビの持ち物だと理解するのに時間がかかった。もう片方は顔面にナイフを数本突き立てられてくずおれる。投擲者がアイノであることについては、気づくことすらできなかった。
「あっ、ああ……」
経験したことがないのだ。
命を狙われることも、命が簡単に失われる光景を目の前にしたことも。
――バチン! 最後の音がして、あたりは急に静かになった。
「はぁ! はぁ! あぁ!」
足がもつれる。力が抜ける。よろめき、しりもちをつき、イーダは荒い呼吸をした。めまいがして、四肢が震え、そしてひどく気分が悪い。
(私たちのこと、殺そうとしてた!)
少しでも敵のことを知っている者なら、そんなわかりきったことを思い浮かべたりはしなかっただろう。でもイーダは違うのだ。犯罪率の低い国で生まれ育ち、戦争というものは教科書やインターネット、TVの中にしかなかったのだから。彼女は殺意を持った誰かが自分の前に立つことなど想像すらしたことがない。
それに日本では人間のことを害獣あつかいすることもなかった。それが盗賊という犯罪者であっても。
(どうして⁉︎ どうしたら⁉︎)
脳内は混乱している。今ここにはなにがある? 死体、血、戦い、悪意。自衛と駆除、盗賊なる害獣、人権の侵害。どこを探しても倫理や道徳はいない。
「イーダ、大丈夫だから」
状況をのみこめない彼女の肩に、急に細い腕がまわった。強く動揺していたから、驚いてビクッと体を震わせてしまう。
肩をだきかかえてよりそってくれたのは、潜水艦の少女だった。
「ひ、人が死んでる! 害獣が、人で!」
「ううん、これね、人間じゃないんだよ」
「……え?」
アイノはイーダの考えを読んでいたかのような物言いをした。落ち着いた声に、少々の苦々しさをまじえて。
「落ち着いて、イーダ。比喩じゃなくて、こいつらは本当に人間じゃないんだ」
「ど、どういうこと?」
馬車の前方に目をむけると、人型に戻ったバルテリの足元にいくつもの死体が転がっている。馬車の足元には2体の死骸があることだろう。
手すりに残された血痕が、槍持ちと御者の持つ武器に残された血のりが、人が死んだことを声高に叫んでいるのに……人間じゃない?
「こいつらはね、盗賊型害獣。魔王様いわく『湧き出る害獣』。この世界が勇者のために用意した、やっかいで最低な贈り物」
まだ戦士の顔が残るアイノは、忌々しそうにそう言った。
「この手のたぐいの害獣は、世界中にいるんだ。海賊だったり、ゴブリンだったり、人食いウサギや人狼だったり」
ギシっと馬車がゆれる。バルテリが帰ってきた。すらりとした長身へ背すじをのばし、戦いの直後だというのに呼吸も乱さずに。
「多かれ少なかれ、どの国のどの人種もこいつらを共通の敵としているぜ? 勇者様の中には、こいつらが俺らの手先だと思っているやつも多い。……イーダ、大丈夫か?」
のぞきこむその顔は、やさしい獣の、いつもの顔だ。
「う……うん」
「……全部見てたのか?」
「……たぶん」
「根性あるな」
そんなことはない。現に今もいっぱいいっぱいだ。
馬車のまわりから死んだ人の臭いがただよってきた。体臭を数倍濃くして、そこに血を足したようなすえた臭いだ。それはまるで、飛び出した内臓に巻きつかれているようで……。
ああ、この臭いはだめだと感じた。人じゃないって言われても、耐えられるものじゃない。
「うくぅ! うぷっ!」
「我慢すんな」
振り返り、死体がないであろうほうの馬車の手すりにしがみつく。すぐに胃の中のものが口へ逆流してきた。げえげえと喉が鳴り、目から涙が落ちていく。
小説で人が死ぬシーンはなんども読んだ。テレビでも漫画でも見た。でもそれはすべてフィクションであり、目の前で起こったことじゃない。
今日ここで発生したのは、本物の死だ。イーダの目には、涙のむこうに人の死がこびりついて見えた。バルテリに両断された男の体が、ゾンビたちに串刺しにされた男の顔が。
いくら涙を流しても、それは消えてくれない。「人ではない」と言われたって。
世界は残酷だった。死が目の前にあるのは、ひどく怖い。
「うぐ……うぅ……」
――「でも」と彼女は思った。混乱する脳内へ、重要な事柄をようやく思い出したのだ。
今日ここへきたのは、誰の決断だったのか。誰が外に出てみたいと言い、誰が魔王の提案に乗ったのか。「残酷な光景になるぜ」とも言い聞かされていた。
すべては自分が選んだ道だったのだ。
手に過剰な力が入り、つかまれた手すりがちいさなきしみ音を上げる。なんでそんな力をこめているのか、自分でもわからない。
目から口に入る涙は、塩味よりも濃い苦さをしている。恐怖と、後悔と、自分へのふがいなさが入り混じった味だ。
(私は……私はなにも――)
自分はいったいなにをしに、ここにくるつもりだったのか。
(――なにも覚悟ができてなかったんだ)
物見遊山では済まされない。……いや、済ませたくない。
「戻ろうぜ」
馬車がゆっくり踵を返す。草生す轍に蹄の音。
遠ざかる害獣たちの死骸は、この道を嫌な場所にし続けるだろう。
(……私はここで、うまくやっていけるのかな。こんな光景に、立ちむかえるのかな……)
潜水艦の温かい手になでられながら、イーダは人型の死を苦く噛みしめながら王宮へ帰った。




