笑う天使たち 32
ウェンダルなる勇者が待ち合わせ場所にこないだろうことは予想していた。ウルリカやグレースから聞いた話では、そういう手合いではなさそうだったからだ。裏のある性格からするに、もしかしたら生前は犯罪者だったのかもしれない。そんな者が人との約束を守るわけがないのだ。
彼、ラオリー・ライリー・リード――竜人の勇者アールがスヴァインサンドへきたのは、天界を去る直前に女神ウルリカから依頼を受けたからだ。
彼女いわく、その勇者は悪人である危険性が高い。隠し事をしているようだし、時々油断のならない目をするらしいのだ。しかし彼女の役割はウェンダルを地上へ送り出すこと。たった2、3日の短い時間で、世界になるべく順応できるようチュートリアルをほどこして。
(人の性格はそうそう変わらん。数日のカウンセリングで悪人が善人になるのなら、世界の犯罪や戦争などいずれなくなるだろう)
正直、女神に同情した。無理難題を生きがいとしてあたえられている気がしたのだ。アールは神を肯定しているし信仰心も持ち合わせていたが、それでも「彼は時に残酷なことをする」と心を曇らせてもいた。
しかし女神の心は強い。道徳値マイナス100の人間がきてもあきらめはしない。せめてマイナス90にして地上へ送り出そうと努力する。そもそも追い返すことも殺すこともできないのだから、義務を放棄せずに取り組むのが世界にとって最善の方法だ。
その姿に尊敬の念をいだいた。だから「ウェンダル様は精神的に未熟です。が、私は彼の死を望みません。アール様、ぜひお力をお貸しくださいませ」と言われれば「もちろんですとも」と返すほかない。女王に対し、外出の理由に「山と言われれば川と返したくもなりましょう」と述べたほどだ。
ルーチェスターの王都からレッドドラゴンを駆りものの数時間、彼はルーチェスター海外領土の港町に到着した。そして街におりる前、郊外の草原で嫌なものを発見した。ウェンダルが待ち合わせ場所にこないことは予想ずみだったものの、眼下にある光景は予想外。ついつい「ふむぅん」と眉間へしわをよせてしまう。
そこにあったのは醜悪なるバグモザイクの球体。直径3メートル程度にまで広がった星頭メイスの先端を思わせる形状のもの。
(もしやこれは……)
彼は赤竜を降下させた。発生した気流にあおられて、地面の草が悲鳴を上げる。生まれ育った大地と別れを告げた若草が、別の地面と出会ったあたりで、アールは「ふぅぅ」と深いため息をついた。
モザイク柄の内側に、テレビ中継ならモザイク処理をかけておいたほうがよさそうな物体を発見したから。
地面へ立ち近づいてみる。無数に発生した水晶と水晶のすきまから、赤いマントを羽織った肩やブーツをはいた足が見えた。その狭い空間に、耳障りな羽音を立てるハエの姿も。獲物を見つけて喜んでいるのだろうか。
首をまわして相棒へ聞く。
「……レッドドラゴンよ、生存の可能性があると思うか?」
問いへ、巨竜は「カカッ!」と失笑するように鳴いた。「世の中の可能性という可能性すべてを肯定してみる気か?」などと皮肉を言われた気がする。
わかっている、そう言うかわりに片手をぺろりと上げて応えた。あまりに奇異な墓標だったから、予想しえない異世界の法則かなにかが働いて、「よもや生きている」なんて状況にならないか期待しただけだったのだ。
十中八九死んでいることはわかっていたし、実際ここにあるのはご遺体だった。
「……いやはや。これではウルリカ様も働き甲斐がないというもの」
長い首を振ってつぶやくしかない。あるいはそんなことをしている暇があったら、今のうちに祈りをささげておくべきか。もうしばらくしたら死臭でたまらなくなるだろう。
「ともあれ……」
祈るかわりに懐から白紙の本を出す。彼は仕事を優先することにした。スケッチを取って報告書にするのだ。腰の小物入れからはペンとインク壺を。どかっと地面に腰かけて、まったくどこから描いたものかとバグモザイクの輪郭を見る。
と、黒い塊のむこうから、飛んでくる黒い鳥が見えた。翼をならべて2羽、おそらくあれはワタリガラス。もちろん普通の個体ではない。
しばらくの後、2羽のカラスはひとりの悪魔となってアールの前に立った。
「ひさしぶりだな勇者アール。これは……君のしわざとは思えないが」
「サカリ殿、お元気そうで。いかにも、これは私のせいではない。あなたがきたということは魔王のしわざか?」
それは私にもまだわからない、首を振った黒い男は、やはりはぁっとひとつため息をついた。
「1枚噛んでいるかもしれんし、そうではないかもしれん。私は勇者が地上へおりたのを見て偵察にきた。だから彼女と会っていないのだ」
同じく筆記用具を取り出した彼は、眼鏡を片手でくっと上げ、さっそくスケッチをはじめている。さらさらと描くさまは、さすが、魔界の偵察係だけあって慣れた手つきだ。
「なにか巨大な魔法でも使おうとしたのですかな? にしては少々、制御がお粗末といえる。こんなことになるとは予想していなかったのでしょうな」
「同感だ。かなり奇妙な状態に見える。魔力の暴走でも起こさなければこうはならんだろう」
彼は絵を描きながらバグモザイクの外周を器用にまわる。なにか気づいたことがあったら共有してもらえないものか、アールがそう声をかけようとした時には輪郭のむこう側へ。「そちら側はいかがですかな?」、首をのばして聞いてみると、返ってきたのは「ほう……」という意味深なつぶやきだけだった。
ぐるりと一周したカラスは、逆の側から竜人の視界へ戻る。……その手に手首をひとつ持って。少しだけ機嫌よさそうに見えるのは、気のせいではないだろう。
彼はそれを差し出すように見せながら言った。「君には悪いが、これは私が持って帰る。スケッチを描くのなら私が帰る前に」
「……仏さんのものですな? お持ちいただいて結構。ああ、いちおう状態だけ書き取らせていただきたい」
あまり気持ちのよいものではないが、任務は任務と納得して、アールは手首に視線を落とした。
指が2本しか残っていないから一見するとどちらの手かわからなかったが、それはやけどあとのある左手だった。がっしりとして長い指の形は、持ち主が成人男性だったことをしめす。状況からするに勇者のもので間違いない。
とはいえ他に見るべき部分もなかった。指輪をしているわけではないし、籠手や手袋を着けているわけでもない。触ってみても特別なものは感じられない。張りを失った死者の体が、いつ触れても慣れない感触を指に返してくるだけだった。
得るものがないと気づき、竜人はサカリへ礼を言って手を離す。
「ありがとう、これくらいで結構です。どうもここのところ、お会いする新顔の勇者は死んでおられるかたばかり。次は酒を酌み交わせる機会など得たいものですな」
「ああ、そうか。ギジエードラゴンの主、エリックの時も君が立ち会っていたな。君は我々ヴィヘリャ・コカーリにとって幸運の象徴かもしれん」
おどけて言うカラスに竜人は苦笑して「御冗談を」と返した。魔界の勝利のシンボルにされるとは、まがりなりにも勇者――魔王と対となる彼にとって、それこそ悪い冗談だ。そんな彼を冷やかそうと草原へ風が吹きつける。カールメヤルヴィの方角からいたずらな顔をして。
そしてその風がバグモザイクの球体に当たると、狭いすきまをとおり抜けた風が低いうなり声のような音を立てた。それもかなりの音量で。狼の遠吠えとほら貝の中間のような、不吉を予感させる空気の振動は、静かな夜に発生すれば港町まで聞こえるだろう。
近くで聞いたふたりは目を丸くし、顔を見合わせる。
「……この中にいる男が怨嗟でも叫んだのか? スヴァインサンドに新たな名物が生まれたな。『後悔の明けの明星』とでも名前をつけてやろう」
悪魔のほうはぺろりと唇をなめた。死んだ勇者が不吉なランドマークになったことに、口の中へ蜜を見つけたからだ。
「親が子を叱る時に引き合いへ出されましょうな。『悪いことをすると、ああなるぞ』と」
竜人は横長の口へ歯をイーっとして顔をしかめた。




