笑う天使たち 31
5月10日、天界から戻った翌日。旅は終わりを告げて魔界での日常が帰ってきた。故郷に帰れば変わらぬ暮らしが待っているもの。座りなれた椅子を立ち部屋を出て、歩きなれた階段を下ると、段数を体がしっかり覚えていた。かかとから足を踏み出しつま先をつけると、カカンと2回音が鳴る。上機嫌に鳴る即席打楽器だ。最後の一段をおりるまで、そうやって心地よいリズムを刻む。終わった時には魔界での生活のリズムも取り戻したかのように感じた。
足どり軽く門を出て、王宮から北へ20分。今日はめずらしく晴天の下、リンナ湖にある浴場へ。世界広しといえど貴重なケロ――立ち枯れした松の高級木材を使ったサウナ室はそう多くない。しかもここにはテラスや休憩室、食堂、なんとなれば宿泊できる環境だってととのっているのだ。イーダはリンナ浴場がフォーサスで一番のサウナ施設だと信じて疑わない。でも、今日の主役はどうやらサウナに関するあれやこれやじゃなさそうだ。
なにしろカールメヤルヴィにようやく春がきたのだから。
冬の魔界と別世界に思うほど、生命の色にあふれたリンナ湖。ここの春は日本と違う。梅が咲き桜が咲きなんていう、徐々に春の来訪を告げる形では訪れない。草木は文字どおりいっせいに目を覚まし、灰色だった景観をあっという間に鮮やかな緑色へ染めた。「今この瞬間から春なのだ!」と言わんばかりに、ほんの数日間で劇的な変化があったように思える。とくにこの1週間は不在にしていたから、なおのことそう感じた。
(これは絶好のサウナ日和♪)
さっそくサウナに入って体を温め、テラスで寝椅子に寝転がる。ぼうっとしながら湖を見ると、魔界へきた日と同じ緑鮮やかな光景が瞳孔の奥へ染みこんでくる。なんだか懐かしい気もしてきて、哀愁と平和が心身をそっと癒してくれた。
さらさらと抜けていく風が、湖の音とともに景色を目に運んできて。
水縹――明るい水色の空と境界線を作るのは、松やトウヒたちのの織り成す、青柳や松葉色。冬でも葉を落とさない針葉樹であるこれらも、1本1本の葉の形が力強くなった。森の輪郭は1か月前よりも豪華になって、樹冠を生き生きと天へのばす。
それに混じって、湖の一角を占拠する白樺の森。群生が常であるこの落葉樹も、今は若葉と花の時期。文字どおり若葉色の葉っぱの脇へ、モール紐を思わせる特徴的な花をたれ下げている。それを発見した魔界の魔女は、顔をだらしなくゆるませる。彼女のお気に入りの木が、変わった花をつける植物だったと知ってうれしくなったのだ。実は白樺の花を見るのもはじめてだった。
木々の足元にはVuokkoという花が、星の形の白い花弁をよせあって絨毯のように広がっていた。ヴオッコは別の場所へ赤や黄色の絨毯も広げている。浴場からほど近い木の下にあるのは青紫の個体。SinivuokkoのSiniは、シニッカと同じ「青」の意味だ。彼女がここへ寝転がっていたら、さぞ絵になることだろう。……逆に目立たないかもしれないけれど。
(ああ、暖かい)
そんな春の光景は、そこにいる者へ楽しみをもたらしていた。なにも魔女だけではない。いつの間にか浴場へ侵入したトントゥもコーヒーに舌鼓を打ちながら湖をながめていたし、冬眠から目覚めたネコヘビ一家はさっそくネズミを探しに出かけている。太陽すらも春の湖へ微笑みながら穏やかな陽を放っているほど。肌に届いた光はわずかに触覚を刺激して、見えない毛布で全身をつつみこんでくれる。浴場では脱力こそが絶対正義だという、当たり前のことに気づかせてくれてもいた。
はらり。
イーダの額になにかが落ちた。手に取ったそれは桃色の花びら。フォーカスを落ちてきたほうへ合わせると、枝を広げるのは魔界唯一のエゾヤマザクラだ。
もちろんここに桜の木が植えてあることなど、とっくの昔に気づいていた。桜は幹の形が特徴的だから見逃しようもなかったのだ。でも花を見たのは今日がはじめて。というよりも、今回はこれを見にきたといっていい。だから晴れてよかった。背景の青空もウインクしてくれていると感じる。
シニッカいわく、エゾヤマザクラは北海道なんかの寒い地域に見られる桜なのだそう。慣れ親しんだソメイヨシノよりもずっと寒さに強く、そして濃い色の花をつける。枝ののびかたや幹の立ち姿も、どこか野性味にあふれて見えた。
(異世界で桜……なんてぜいたくな)
1本だけしかないのは、15年ほど前に天界で購入した枝をここに植えたかららしい。ソメイヨシノと違って秋には種をつけるから、シニッカはどこかに桜の山を作りたいなんて言ってもいた。王立桜公園なんてできたら、この時期はみんな花見に興じるだろう。魔界の人はなにかと理由をつけては酒を飲む人が多い。むしろ理由がなくても飲む人ばかりだから、酒宴の理由をこれ以上増やすのはよくないのかも。「魔界の怪我の大半は酒がらみ」なんて揶揄されているほど飲むのだから。
「あら、トントゥ。いらっしゃい」
色があるなら桜と逆、青く澄んだ声がした。顔をむけると体へ湯気を上げる魔王様。気づかないうちに彼女もサウナにきていたようだ。白く透き通った肌を上気させながら機嫌よさそうに歩いてきて、となりの寝椅子へ寝転がる。
「シニッカ、今日はここ一番のサウナ日和だよ。もうほんとヤバいよ」
語彙もヤバめになった魔女へ、ふふっと微笑む魔界の王は、自身も満足げな息を吐いて、安息なる時間へ身を横たえた。「それでなくても、今日はとてもいい気分よ、イーダ。さっきいい知らせだけを受け取ったから」
「知らせ? なんの?」
「勇者の件よ。片がついたの」
「えっ? まだ昨日の今日だよね?」
「ええ、まだ昨日の今日なのにね」、そう笑って魔王はぺろりと舌を出した。視界の端へそれを見た魔女は、彼女の口の中に「蜂の巣を見つけた熊」がいる理由を聞くことにした。
◆ ① ⚓ ⑪ ◆
さかのぼること1日、つまり5月9日。
その港町はスヴァインサンドといった。スヴァインはラヴンハイム共和国系の男性名であり、サンドは砂地をあらわす。過去、砂浜しかなかったこの地を、港町へと発展させた功労者にちなんでつけられたものだ。
しかしそこはラヴンハイム共和国のものでなく、ルーチェスター連合王国の領土となっている。10年前、ラヴンハイム共和国はカールメヤルヴィ王国ならびにルーチェスター連合王国と戦争し、敗北を喫した。その時の賠償としてルーチェスターへ併合されたのだ。冬にはしばしば流氷によって閉鎖されてしまうこの港町は、そこからカールメヤルヴィへ続く太い道により、蛇の国の重要な輸出入拠点になっている。
その日、勇者ウェンダルは遠目にその街を見ていた。先ほど地上へおり立ったばかり。もしこれがビデオゲームであれば、序章の開始を奏でるオープニングソングがまだラッパを鳴らしていることだろう。
彼がここにいるのは、ウルリカからこの地へおりることを勧められたためだ。ルーチェスターには経験豊富な先輩勇者がいるから、まずは彼と合流し基本的なルールだけでも教わるべきだと言われていた。勇者は強力な存在が故、通常は一緒にいないよう言われていた。まわり――とくに国家の首領たちが警戒するからだ。しかし冒険最初の数日間、世界の歩きかたを教えてもらう程度ならいいとのこと。他ならぬチュートリアルがいうのだから間違いないのだろう。
しかしそのチュートリアル――老婆の小言のような時間が続くのは苦痛にも思えた。すでに彼の関心は、あの街でなにができるのか、どうやって簡単に金をかせげるのかにむけられている。想像どおりならこの世界の人間は、現代地球人よりもずっと朴訥なはず。自分の持つ人をだます力へ、不可視の固有パークを組み合わせればどれだけ効率よく儲けられることか、そう思うとすぐにでも街へ入りたかった。
「めんどうくさいチュートリアルだったが、おかげで得るものも多かったな。彼女に感謝しよう」
他の勇者との合流を拒否するような、皮肉混じりの言葉をつぶやいた。自分の固有パークのうち邪魔なほうはすでに消滅している。強制的に力加減を実施するおせっかいな頑固者は霧散して、『偽物の仮面』――見た目を変えたり隠したりする能力を自由に行使できる。それはウルリカたちのあずかり知らないことだ。
自分の面倒くらい自分で見られる。勇者は待たないと、そう決めた。
次に彼はひとりごとの標的を魔王へ変えてほくそ笑む。
「よう魔王。お前は俺を陥れ、勝ったと思っているだろう。俺から力を取り上げてやったと。だがそれこそ俺の思うつぼだったんだ。詐欺のやりかたも知らないお前は、本当に悪魔の王なのか?」
記憶に刻むため口に出した。いつか魔王と戦うことになるだろう。その時、くやしがるあの女に言い放ってやるためだ。
「もちろんとなりの魔女も、俺の顔を忘れちゃいないだろう。お前が蹴りをくれたこの顔は無事だ。お前の顔も今は無事だが、俺によって見るも無残になると約束しよう」
そして思い出すだけで腹の立つあの女。どこの生まれか知らないが、どこの生まれかわからなくなるほど凄惨な死をあたえてやりたい。
(さて……)
ひとしきり悪意を吐いたウェンダルは、さっそく仕事にうつることとした。どんな仕事だろうと、まずは現状の確認から。今自分の持つ各種資源――金銭だったり能力だったりを頭に入れて、うまい具合に立ちまわるためだ。
左手を顔の高さに掲げ、彼は転生勇者お得意の現状把握魔法を唱えた。
地上へおり立った勇者が、必ず実行する儀式のような魔術を。
「<詐欺の原資をすべて見せろ>」
自身の数値化された能力、取得している技能、覚えた魔術、所持品やその他もろもろ。魔術としてのStatusは「社会的地位」と訳されるべきではなく、コンピューターにおけるハードウェアないしソフトウェアの状態や状況をあらわすものに近い。それこそウェンダルたち地球人が慣れ親しんだビデオゲームでおなじみの概念だ。
ひとたび魔術を唱えれば、使用者の体をくまなく走査して数字に落としこみ表示する。そうやって即座に応答して見せる。勇者にとって受け取りやすい形に加工までして。
ただ今回だけは違った。
正確にいえば、応答は正常だったのだが、そこへよぶんな物がついてきたのだ。
――バキバキバキ!
鮮血が舞い、視界が黒いモザイク柄で埋まる。
「なぁっ⁉︎」
左手首のまわりから出現した黒水晶『バグモザイク』が、急速に発達して腕へと噛みついた。同時にズルズルと際限なく魔力が引き抜かれる感覚も。魔腺疲労と傷口とで、左腕は燃えるように熱くなる。
「がっぁ! や、やめろ!」
ミシリミシリと音を立てて、鋭利な刃が体を覆う。上腕を、わき腹を、太ももから足までも。
「ああぁっ! クソッ! 止まれ!」
成長は止まらず、胴体のいくつかの場所へぐずぐずと食いこんできた。頭へせまるそれをおさえようとした右手も簡単に貫かれた。手の甲から顔面へせまる死の切っ先に、ウェンダルは首をねじ曲げて抵抗をした。
しかし、すべては遅すぎた。いや、最初からチャンスなどなかったのかもしれない。
目の端に映った噴水のような影が自分の首から噴き出た血しぶきだと気づいたところで、勇者は抵抗など無駄だと悟った。
(な……なぜだ。なぜ……)
今際の際、彼が思うのはこうなった理由。どうして自分は死にかけているのか。いったいなにがこんな事態を引き起こしたのか。
思い当たる節はひとつだけ。
(……ま、まさか、『頑固な力加減』が?)
薄れゆく意識の中、ウェンダルは思い出した。自ら手放すことをよしとしたひとつ目の固有パークに、とある一文が書いてあったのを。
――しっかり注意深く君を見て、すべての魔力を制御してくれる――
魔力すべて。それはステータス魔法なんていう消費魔力の少ない魔術もふくむ。
つまりこれは暴走だ。
誰も制御する者がいないのだから。
(あぁ……だまされた。嘘だろう、こんな……)
「誰にだまされたのか」を自覚する間もない。魔王なのか、それともこの力をもたらした顔の見えない誰かなのか。
その答えを見つけられないまま、彼は息を引き取った。なにもかもあきらめた表情を、無数の黒水晶でズタズタにされて。
その最後は「どこの生まれかわからなくなるほど」凄惨なものだった。




