笑う天使たち 29
魔女のイーダが使った『ᛟ』のルーン魔石は、塔を魔女の住処にした。導線へ強く働きかけられた魔力が、嫌な予感とともに勇者の背すじをなでる。
「なに⁉︎」
「<閉めろᛟ>!」
ご主人様の命令へ、入口の上にあったおおきな鉄格子が反応をした。鉄と石がこすれて悲鳴を上げ、ガシャァンと激しく地面へ刺さる。魔女の塔は閉鎖され、外へ出るには塔の上から身を投げるしかない。
堂々と立つ白樺の主は、黒い帽子をかぶり直した。
「ロンドン塔って知っているかな。監禁するのによく使われたんだ」
カニングならこんなことを言っただろう、そう思ってシニッカのような言いまわしをした。
「なるほど、息がありましたか。……あの錬金術師のしわざですね?」
「ウェンダルさん、その堅苦しい話しかたは不要だよ。私はもう、あなたの本性を知っているから」
不思議とイーダに怒りはなかった。キリッと眉や口の端を上げるだけだ。いちど追いこまれてからの彼女は強い。冬の湖の上でも、春近い草原の戦場でも。迷いなく全力で走るのだ。
だから次になにをすべきかもわかっていた。
手をかざして唱える。
「<我が手に戻れ、ᚠ>!」
こんどは魔石の力を使わず、自身の魔力だけでルーンを放つ。いったん手に入れた小動物――彼女が編んだいばらの籠に入った、彼女の家畜であるラタトスクを手元におさめるため。
「っ⁉︎ くそっ!」
魔法でできた投網は霧散し、中身が一直線にイーダへ飛んだ。勇者が手をのばすもむなしく、リスは帽子のつばに軟着陸をはたす。そしてあわてふためくように、高い三角形の影に隠れた。
「君はさ、リスさん。悪い勇者のところよりも、魔界の魔女の近くにいるべきだと思うよ。きっといくぶんか安全だからね」
言葉が通じるとは思わないが、心なら通わせられるのではないか。予想の答えは正解だった。帽子をゆっくり上げてやると、器用にもその中へ隠れたのだ。勇者におびえるラタトスクは、こちら側が安全な場所と判断してくれた。
帽子をかぶり直し、目標を確保した魔女へ、つばでも吐くかのような悪態が聞こえる。
「ああ、クソ女。俺はお前の勝ち誇った顔へ、膝を入れてやりたいと思っている」
「その想いに答える魔界の定型句は『If you can』だよ。もしくは『Jos voit』かな」
できるものならやってみろと強く出た。こういう手合いにはひるんだら負けだと心の中で声がする。塔の上では敵にまわった本能がこちら側に立ち後押ししてくれていた。イーダは闘志――詩的な言いかえでいうところの「闘いの沸騰」をぐつぐつさせて、勇者の姿を正面へ見すえた。
「リスさん、ちゃんとつかまっていてね」
そして片腕を真上へかざす。剣を掲げる戦士のように。
「ああ、やる気かよ。なら相手してやる」
離れていてもわかる。勇者のこめかみに血管が浮かんだ。彼は次こそ殺す気で、なりふり構わず雷撃をするだろう。
敵には圧倒的な魔力があり、自分には少ない。彼女にはそれがわかっていた。ゆえに――
「<のびろᚦ>!」
全力で逃げる。
掲げた腕からいばらが真上にのびて、階段へ横たわりとげを突き立てた。「<戻れ>!」の合図で収縮し、館の主を高速で引き上げる。
「なっ⁉︎ 逃げるかクソ女!」
いばらのロープで持ち上げられて、螺旋階段へひらりと着地する。ブーツのかかとがカツンと鳴ったらすかさず手を上げ上階へ。イーダは同じ要領で、上の階、また上の階へと進んでいった。魔腺が過熱していくけれど、限界まで距離をとらなければならない。バチン! と爆ぜる電撃が、階下から何本も飛んできているのだ。
(ラタトスクに当たっちゃったら、なんて考えないんだな。リスを殺したら彼の負けなのに。これは相当頭に血が上ってる)
とはいえいたいけな小動物を盾にするのは気が引ける。ここは被弾を避けるべきだろう。
20メートルほど上昇したところで、魔女は魔術をやめて走ることにした。すでに魔石は空っぽで、魔腺疲労も感じていたから。後2回も使えば魔術は品切れ。丸腰で戦うわけにもいかない。
効果の残る「駆けるたてがみの脚」を存分にふるって、螺旋階段を駆け上がっていった。屋上まではまだ半分以上もある。魔術の助けがなかったら、拷問になり得る苦行だったろう。それに電撃がどんどん正確になってきた。ただただ一定の速度で走ったらいい的になると、緩急をつけながら上昇していく。
目の前によぎる電光が壁を激しく打ち、その残滓をくぐり抜けると足元で雷撃が弾け……。
(まずい、よけきれないかも)
電撃は執拗に、飽きもしないで襲ってくる。至近へ打ちこまれると感電するような感触もある。それが足首へ、背中へ、首の後ろへダメージをあたえて、魔女の息を荒くしていった。
(ウェンダルさんは……)
勇者が今どこにいるのか、雷撃の間隙に下を見ると……まずい。
(速い! もう追いつかれる!)
男は自分よりもはるかに優速だった。彼は螺旋階段を駆け上ることなんかせずに、円柱の内側を蹴り上がってせまってくる。
「終わりだ女ぁっ!」
そして今まさに、こちらへ飛びかかって宙を走る。両腕へバチバチと魔術をまとうのは、おそらく渾身の一撃をくわえんとしているからだろう。
――だからイーダは飛びおりた。服のすそからすっと落とした、白樺の枝をその場に残して。
「なにっ⁉︎」
(お願いね!)
あの枝は魔術で避雷針にしておいたものだ。ウェンダルは強力な攻撃をしてくるはず。直撃を避けるだけでは不十分だ。枝分かれする雷撃の先端に貫かれただけでも昏倒してしまうかもしれない。
「くそっ!<Blitzkugel>!」
魔女の背中を直径3メートルもある雷球がかすめていった。ウェンダルはたしかに魔女へ両腕をむけていたのだが、避雷針――ヤモリのヤドリギが「そうはさせん!」と雷を誘引した。
(ありがとう!)
背中へ痛みを感じながら、イーダは心でお礼を言って、そして落ちていく。内臓が浮き上がる感覚と、加速で狭くなる視覚。運動方程式にいわせれば、人が死に得る高さだった。衝撃吸収魔法――スレイプニルの脚もどこまで通用するかわからない。
しかも魔術は残りふたつと少なくて。
「<ᛒ,ᚩᛁᛖ:ᛣᛁᛚᛈᛁ>!」
それでも迷わず魔法を放った。自分のもっとも大切なルーンで、もっとも信頼に足る白樺の魔術を。
ヘルミの防御魔法には到底およばない。けれど十分だ。地面へ激突する両脚に片手をそえる。着地と同時にあらわれたのは、緑の魔法の円形盾。石畳が小太鼓を強く鳴らしたようにタァンと小気味いい音を立て、バチとなった魔女とリスを受け止めてくれた。
「扉を開けろ!」
ご主人様の命令へ、おおきい鉄格子が重厚な音を立てる。開ききるまで待つ必要はない。後は入口へ駆けるのみ。そしてふたたび門を閉めるだけだ。
魔女は最高のクラウチングスタートを決めるため、思いっきり足を踏みこんだ。勇者を閉じこめ、その間に勝利をもぎとるつもりで。
収縮させた筋肉を解放し、一陣の風になろうしたその刹那――ピリリと鼻腔を刺す臭い。
(っ⁉︎)
悪寒が全身を緊張させた。踏み出した足を横にして急ブレーキをかけると、なにもないはずの地上階に見えないなにかがいると気づく。
(これは……?)
「ああ、勘がいいな」
追ってきた勇者もまた、地上へ着地した。肩でおおきく息をしているのは、彼もまた魔腺疲労を覚えているからだろう。なら時間はあると予想し、イーダは足を止めてウェンダルへ話しかける。
「……なにかしたね、ウェンダルさん。あなたの雷撃みたいな、こげた臭いがするよ」
「動かないほうがいい。そして両手を上げることをおすすめする。お前は罠の中にいるんだ」
罠との言葉へ、魔女はなるほどと納得した。どうやら不可視のなんらかの魔術を張り巡らせているのだ。だから濃い魔法の臭いに気がついた。匂いではなく臭い――望ましくない香りがするのも、害意を持つのが原因だろう。
(罠か……。ちゃんと分析しなきゃ。この罠がどういう形をしていて、どんな特性を持つのか)
勇者が攻撃してこない、いや、おそらくできないほど疲労しているのは僥倖だ。雷撃の連射で無駄づかいをし、その上先ほどの強力な魔法を放ったのが響いたのだろう。もしくはここに展開された罠で大量の魔力を消費したのかもしれない。
(彼は冷静さを取り戻したかな。「動かないほうがいい」ってことは、たぶんラタトスクを気づかっているんだ。殺しちゃったら負けだって思い出したんだろう。……それなら罠は致死性のものか)
呼吸を整えているウェンダルをじっと見ながら推理を進めていく。
(間違いなく雷魔法でできた地雷原みたいなやつだろうな。きっと高威力の。だとすると即席避雷針じゃかわしきれない。連鎖して発動しちゃうこともあるだろうし)
問題への対処には正しい手段が必要だ。円の面積を出すのなら、公式と円周率を知っておかなければならないのと同じ。もう少し敵の魔術の詳細を把握し、正確なアプローチをもってそれを打開しなくては。
自分一人で分析するには限度がある。でも、名案もあった。
(よし、ここは本人に聞いちゃおう)
「なにもしてこないんだね。ならあなたの罠なんて恐れるに足りないよ。私が立ち止まったのは、罠を感知する能力が高いから。実際、そろそろ形も見えてきた」
ちょっと工夫して嘘を交えた。彼がようやく思い出してくれた「ラタトスクを殺してはならない」という、相手唯一の弱点をとがめるためだ。いたいけな小動物を人質に取るようで、魔女というより下衆っぽいなと苦笑が漏れた。
いいことに、それは敵の目へ「余裕」と映ったのだろう。ウェンダルは怒って、そしてあわてたように吐く。
「っ⁉︎ 馬鹿かお前は!……そこにあるのはMinenquelleだ。生物に反応して雷撃をくわえる、お前なんぞ消し炭になるほどの罠だ」
(……機雷?)
――聞き覚えのある単語。
船へ甚大な被害をもたらす爆発物で、水中へ係留される兵器の一種。
しょりっ、しょりっ。
帽子の中でラタトスクがもぞもぞして、イーダの頭頂部を尻尾がなでる。
「――っ、んふふ!」
「なにがおかしい!」
なんてばかげているんだろう。そしてなんて貴重な経験だったんだろう。
ここは剣と魔法の世界なのに、自分を救おうとしているのは鋼鉄の船の知識だ。それも普通の人は知らない、というよりも誰が知っているんだという、ひどくマイナーな装置の名前だ。
(被害甚大機雷戦。機雷が嫌うは消磁線)
ああ、いたずら好きな友達を得てよかった。
「――<ᚦ、機雷除けよあれ>」
最後の魔術をつぶやいた。自分の胴体にいばらが巻きつく。機雷除けのおまじないがされた、今この場ではもっとも頼りになる鎧が。
「な、なんだそれは?」
「さようなら!」
踵を返して猛然と駆けた。機雷の爆発を予感しただろう勇者は、この逃げ去る背中へ雷撃を放てないだろう。
「扉を閉めろ!」
そして外出した主人は来賓を丁重に閉じこめた。落ちてくる鉄格子の下をくぐり抜け、減速なんてなしに最初の場所にむかう。
「ああっ、Scheiße! どうして起爆しない! なんだってんだ!」
仮面を脱ぎ捨てた犯罪者を、ひとり独房に残して。




