笑う天使たち 25
新たなぶつかり合いを決意したウルリカは、魔王の「変な死にかたをしたら記録に残っちゃう」などという心配へ言葉を返す。
「その前に考慮すべきことがらが、たくさんあると思いますわ」
「たとえば?」
「私の次の攻撃などが、そこへ分類されると思わなくって?」
キッと眉を寄せる。4枚の翼をはためかせると、呼応するように周囲へ電光がバチバチと音を立てた。2回、3回、はばたきのたびにそれはおおきく鳴る。まるで投石紐を勢いよくまわして、高速で投射せんと加速させるようだった。
「――<死者は息をせず、ゆえに息は生命である。ἀήρは人と出会い、πνεῦμαへと姿を変える>」
魔術詠唱が開始されると、大気が命あるかのように大天使をつつんでいった。渦を巻く風が砂粒の輪郭をなし、その中心にいるウルリカへ空気を集める。それは4枚の翼を持つ者の呼吸を経て、気息――神秘的な聖なる力となり収束していった。翼をおおきく振る彼女の構えは、巨鳥が「我ここにあり」と宣誓しているかのようだ。
それを見て、魔王は片手で槍をまわした。体の横で2回、そのまま体の後ろに持ってきて2回。それを逆の手で後ろ手にバシンと握り止めると、半身になって天使の詠唱に応える。
「――<桑の木は原っぱをなし、桑の木は原っぱとなる>」
派手な風を巻き起こす天使の正面で、彼女はじっと静かに魔法を編んだ。襲いくる猛禽の脚へ噛みついてやろうと、虎視眈々とにらみつける竜のようでもあった。
まるで巨鳥フレースヴェルクと竜のニーズヘッグだ。ラタトスクが見たら「ついにはじまった」と心を躍らせただろう。
2体の獣はたがいに魔素を吸いこんで、魔腺で収束させ魔力を練る。世界律が許すかぎりの強い力を使って魔術を行使するため、魔法の息を限界まで吸いこんだ。
肺を魔力でいっぱいにして、満たされた杯の口を閉じる。ふたりは同時に呼吸を止めて、むすんだ口へ奥歯を鳴らす。
凪いだ空気が暴風を予感させて、静寂が豪雨の前触れを告げて。
天使と魔王はたがいに咆えた。
「――穿て<Κεραυνός>!」
「――<ᛣ、ᚾᛁᛖᛚᚪᛁᛋᛖ>!」
閃光と衝撃。
そして爆発的な雷鳴。
ウルリカは雷霆の名を叫び、その力を解き放った。稲妻が空気をズタズタにして、音を置き去りにし破壊のかぎりをつくさんとした。黄金色の枝葉を方々へのばし、石床を打ちつけて砂煙を発生させる。それは近距離で観戦を決めこむドクとグレースにも影響をおよぼす。まるでおおきな釣り鐘が鳴らされる際、その中に入っているかのような衝撃があった。
だがそんなもので目をそらすふたりではなかった。鼓膜が雷鳴に麻痺しかけ、視界が雷光にくらんでも。片方はペストマスクの両目のガラスごしに、もう片方は赤い前髪の間から、その一瞬を見逃すまいと両目を見開いていた。
ゆえに魔王のやったことへ、片方は口の端を上げ、片方は舌打ちをする。
なぜなら――どう雷撃をかわしたか、青い髪の少女は斧槍を手放して天使の懐へ潜りこみ、隠し持っていた短剣をわき腹目がけて突き入れていたのだから。
「くっ!」
間一髪、ウルリカの左腕がせまる切っ先の前に立ちはだかる。刃が柔肌に深く侵入する直前、ガラスの割れる音がした。後ずさった大天使の左腕には傷ひとつ残っていない。ただぶらぶらとゆれているのが、世界律によって傷が防がれたことと同時に、その箇所が精気を失って使い物にならなくなったのを物語っていた。
彼女の敵は、この機を見逃す蛇ではない。「<ᚠ>」すなわち財産のルーンを唱え、片腕を真後ろにのばし手を開く。地面へ突き刺さっていた財産たる斧槍を呼び寄せて、しかとつかむ。
そしてそのまま、後ずさる敵の頭上へ振りおろした。
たっぷり帯電したその槍先を。
「――<ミョッルニル>!」
「――防げ<Αιγίς>!」
ドシンと錨が落ちたような、重い音が響き渡った。神話の雷槌が神話の盾を襲ったのだ。衝撃で石畳は痛めつけられ、溝から血煙のように土煙を吐く。ふたたび閃光と轟音が塔の上を支配して、そこにいる空気たちへ悲鳴を上げさせた。その大合唱の中で光るのは、集中した魔力で赤熱化した槍の穂先と、それを受け止める魔法の盾。青く輝く分厚い魔法盾の中心に、赤く輝く槍先がじわじわとめりこんでいく。
この世界では鉾より盾が強い。神の決めた世界律でそう定義されているからだ。とはいえそれも、両者が同等であった時の法則。この時振るわれた鉾は盾よりもずっと重い。
右腕を突き出して耐える大天使と、左腕へ体重をかけて突きこさんとする魔王。氷が張った湖面へ突き立てられる、加熱した斧。水蒸気が勢いよく立ちのぼり、熱気で空気がふくらんでいく。強力な魔法の正面衝突に、酸素も窒素も二酸化炭素も悲鳴を上げることしかできない。石造りの丈夫な塔ですら、相次ぐ衝撃におびえているのだ。
「詰み王手よ、ウラ」
歩を食いしばるチュートリアルの目に、いよいよ割れはじめた盾のむこう側から、魔王がニコリと笑うのが見えた。もうこれ以上は持たないだろう。足場もガタガタとぐらついて踏ん張りがきかない。真っ赤な槍先――しかも斧状になった破壊力の高い部分で、自分の肩口を切り裂かれる未来が見える。
敗北は必至。――ならどうするか。
「いいえ、引き分けですわ」
ニヤリと笑い返した直後、ガラスの割れる音が右肩から右耳へ入った。盾はついに破壊され、敵の攻撃が肩口へと届いたのだ。すぐに意識を切り離されるだろう。もちろん優秀な世界律が冥府の王に取り計らって、死を気絶にしてくれる。だからここで死ぬことはないし、怖くもない。
怖くないなら冷静でいられるし、冷静なら気づくこともある。
たとえばこの戦場のこと。
大技の応酬によって、塔の構造的強度が限界を迎えていることなんかを。
「からめ<Ἥφαιστος ἅμαρτον>!」
意識を失う最後の瞬間、天使はすべての力を使って魔術を行使した。ヘーパイストス――ギリシャ神話の鍛冶神がこさえた、不可視かつ不断の鎖を顕現させる。床から出たそれは魔王の背後をとおりまた床へ。じゃらっと音を立てながら、ふたりを地面へしばりつけた。
「ぎゅっ……うう。あら、まずいかしら?」
天使とひとくくりにされた魔王は、苦笑混じりのつぶやきを放る。それが終わると同時に、ガコンとどこかの床が抜ける音がした。
ひとつの石が告げた合図へ、塔を構成するすべての石材が反応した。となりの石、そのとなりの石、そうやって伝播していく速度はスレイプニルよりも速い。堰を切ったように崩壊は連鎖を起こした。
屋上が一気に崩れ、地上になろうと猛スピードで地面を目指す。その勢いで高い壁のあちこちが限界を告げながら崩落していく。
宙に浮く感覚とともに、天使は耳元でささやかれる声を聞いた。
「悪い子ね、ウラ」
(あなたほどではなくってよ)
がらがらと崩れ落ちる塔の残骸の中、特大の墓標へ埋もれる前にウルリカは意識を手放した。
◆ ① ⚓ ⑪ ◆
もうもうと立ちこめる土煙の中、ささえを失った強制交戦場は、グレースとドクを乗せてゆっくり降下していた。鼓膜がおかしくなるほどだった音は、だいぶ落ち着きを取り戻している。しばらく視界は戻らないだろうが、塔の崩壊自体は完了したようだ。
ようやく会話が可能になったので、グレースはとなりにいるペストマスクへ聞きたかったことをたずねた。「ウラがケラウノスを放つ前、魔王はなにをしやがったんだ? なにやら詠唱してたじゃないか」
「素数でも数えていたんじゃないかい?」
一方の魔界の天使だが、今回は答えを言わないことに決めた。話したところで戦局が変わるとも思えなかったが、黒い髪の少女はまだ戦っているのだ。彼女の能力につながる情報なら、黙っておいたほうがいい。とくに魔王があの時使った「おまじない」は、イーダからあたえられた知識だったのだから。
さきほど魔王は『桑の木』と『原っぱ』のケニングを2回ずつ唱えた。すなわちそれは「くわばら、くわばら」。冬、雷鳴が聞こえた時にイーダがふと口にした、日本における雷避けのおまじないだった。ドクも魔王も知的好奇心のおもむくまま「それはなんだい?」と質問したのだ。
まじないの由来は日本の故事だという。生前優秀だった貴族が非業の死を迎えたさい、雷をもたらす化け物になり各地へ落雷をもたらした。ところがどういうわけか、桑原という地名の場所にはその手が届かなかった。ゆえに後世の人々は、雷雨がせまってきた時に「くわばら、くわばら」というおまじないを口にするようになったのだ。
幸いなことに、この世界にはマカイオニカイコを育てるため、マカイクワという桑の木が自生している。だからフォーサスにおいても魔術が効果を発揮するだろうと期待できた。
(魔王様、さすがうまい戦い方だったな)
今日彼女はいくつかの魔石を持っていた。勇者マルセル・ルロワの対抗召喚で手に入れた、8面体の特上なものだ。あの魔石は「こめられた魔力を利用する」使い方もできれば、「使い捨てにして強力な魔術を行使する」こともできる。
魔王はまず、槍へ言遊魔術をかけ避雷針にした。次にイーダから譲り受けた酒杯のルーン『ᛣ』を使い捨てにして、雷を蓄積できるように斧槍を『バグダッドの壺』にした。地球における世界最古の電池のことらしい。剣戟を交わす際、感電を防ぐ狙いがあった。
防御の仕上げに桑原のまじないによって自身へ雷除けの魔術をかけると、相手の特大雷撃を吸いこむよう斧槍へ命じた。Nielaise、つまり「飲みこめ」と。ウルリカが放ったケラウノスの雷撃は大半がバグダッドの壺へ吸われてしまい、木が枝葉をのばすように広がった残りの部分も桑原には落ちなかった。
最後にためた電気を使い、雷神ソールよろしくミョッルニルを振りおろした。それをドクは両頭蛇のようだと思った。両方頭の蛇が片側から物を呑めば、もう片側から出すなんて芸当もできるだろうと。
「はぐらかしやがって。次はアタシに素数ってやつの勉強をさせる気か?」
石像のように立ちすくむビオンをしばらく見ていたグレースは、「素数でも」の言葉以上に返事がないことへあきらめの表情を浮かべた。
「素数はね、1よりもおおきな自然数の中で約数が1と自分自身のみである数のことだよ。この時約数は正でなければならないけれど。たとえば2、3、5、7、11――」
「やめろ、聞いてねぇ」
話をしているうちに、塔の残骸の一か所――崩れずにいたおかげでまだ地上高10メートルを維持している部分へ、魔法陣が引っかかって止まる。土煙はまだ完全に晴れていないものの、折り重なった大量の石の中に、金色と青色のなにかが見えてきた。
埋もれていたらどうやって掘り起こそうか、そんな心配をしていたグレースは、ひとまず大仕事はまぬかれたなと安心した。
「あれなら簡単に引っ張り出せそうだ。しかし完全なる相討ちだな、ありゃ。ぴくりとも動きやしない。起きたら石がベッドじゃないってことを教えてやらねぇとならねえな」
「魔王様はよく昼寝しているよ。ウルリカにもその習慣が?」
「あいつはうっかりすると、昼下がりに永眠しやがるからな。去年がそうだった」
「医者として忠告するけれど、それは習慣にしないほうがいい」
アドバイスありがとうよ、言ってグレースは終わった戦いから、終わっていない戦いへ関心をうつす。「で、あのイーダってやつは強いのか? 勇者ウェンダルと1対1ってのは分が悪いように思うぜ?」
「勇者の生存確率を教えるかい? 彼女が勇者暗殺任務に同行した時の」
「聞きたいね」
「ゼロだよ。みんな死んだ」
目も合わせずに言う。ペストマスクをかぶる彼の表情は見えない。けれど今までの真偽がわからない受け答えにくらべ、その声には芯がとおっている。少なくとも赤い髪の大天使にはそう聞こえた。
「魔界らしくやっかいなやつか」
「魔界らしいし、やっかいだろうね」
高い塔に囲まれた場所で、ひとつの戦いが終わった。
ゆえに決着はもうひとつの戦い、勇者と魔女の対決に持ちこされた。




