笑う天使たち 23
四肢どころか尻尾をふくめた五肢を目いっぱいに使って、その生物は必死に逃げる。彼の名前はラタトスク。緑がかった毛なみと口からでまかせが自慢のいらずらリスだ。普段は世界樹の樹上にいる巨鳥フレースヴェルクと世界樹の根をかじる竜ニーズヘッグの間を行ききして、おたがいがおたがいの悪口を言っていると伝えけんかをあおっている。そうやって相手が怒るさまを見るのが好きだったのだ。
しかし罰は当たるもの。大天使グレースにあおられて飛びついたはいいものの、差し出された固いリンゴに前歯を取られ、捕らえられてしまった。まんまとたぶらかされた彼は、今やゲームの駒となり涙目で逃走するしかないのだ。先ほど赤髪の大天使にネズミあつかいされて悔しいが、今はそれどころじゃない。
高い塔の壁面へ頭を下にしたまま走る彼は、巻きついたツタからえいやとばかりに身を投げて、となりの塔の窓へ飛びこんだ。とんっとんっとちいさな足を鳴らし、リズムよく塔の中に入ると、意外にも内側は中空だ。眼下には延々と螺旋階段が広がっている。ここを下って地上階に出られれば隠れる場所も多そうだが、下に行くほど暗くなるその景色は不気味で、背中の細い毛がざわざわと逆立ってしまう。
とはいえ躊躇する時間など彼には許されていない。
背後でガリッ! とおおきな音。追手がすぐそこ――こちら側の塔の窓枠に手足をかけた音だ。
「見つけましたよ!」
男の声がするのを聞く間もなく、ラタトスクは階下へ突進した。「<Stromschlag>!」のかけ声と同時に、今自分のいた場所がバチバチと音を鳴らし、色があるなら黄色のなにかがそこにいる空気を痙攣させる。
あれは知っている。森に堆積した落ち葉の下を潜って進むと、時々あらわれるやつだ。毛の表面をひどく不快にさせて、体をビクッと震わせてくる、なにやらよくわからない現象なのだ。今後ろにいる男は、ちいさくかわいい者の代名詞たる自分へ、それを放っていじめようとしてくる悪いやつに違いない。
「逃がすか!」
叫び声を聞いたラタトスクは、不快光線の来襲を予見して思い切った作戦に出た。下るのではなく、上ればいいのだ。
ぴょんっと四つ足ではね上がり、足元に発生したバチバチを交わす。そのまま体をねじって壁へ着地。壁面へちいさな爪を引っかけながら、するする登って遠ざかる。
壁を走るなど、不器用でうすのろな人間どもにはまねできないだろう。声が出せるのならケタケタと笑い、上にある別の窓へ一直線だ。いったん外に出て外側の壁を下れば、翼のない人類など恐れるに足りない。
右前脚が窓枠に到達したので、彼は前歯を見せて振りむいた。人間が自分を見上げ悔しそうにしていたなら、尻尾を振って馬鹿にしてやろうと思いついたのだ。――が
「甘い!」、眼前にせまる男の手。思ったよりもおおきくて、力強そうな5本の指。リスは「ぶちゅっ」と握りつぶされる自分を想像し総毛立つ。カリカリと這うように窓枠を移動するが、勇者の手が先まわりして自分の前へドスンと落ちてきた。
巨人は壁を蹴って飛びあがり、片手で体を固定しながら、窓枠に取りついたのだ。
「もう逃げないでもらえます?」
もう片側の手があらわれて、リスは体をわななかせる。恐怖におののくとしかいいようのない表情。もし勇者がヘルメットカメラでその光景を撮影していたら、動画サイトへ投稿するコンテンツのサムネイルにふさわしいものだった。
万事休すと思われた時、リスの緑の体を黒い影が覆う。勇者とは逆の方向、窓の外側からだ。
最初にあらわれたのはふたつの足。男の頭部へ正確に進んでいく。ついで脚。それが見える頃には、脚部先端は男の顔面へみしぃっとめりこんでいた。
腹が見えて胸が見えて、顔が見えて帽子が見えて。
「とぉりゃぁっ!」
窓枠に両手をかけた魔女が、両脚蹴りで勇者を階下へ突き落す。動体視力のよいラタトスクには、それがスローモーションのように認識できた。ついでに運動神経のよい彼は、運動エネルギーを失っていない魔女がバランスを崩すのも予想できた。
「ぁぁあっ!」
窓枠つかむ両手を支点に、まずはくるりと半回転。遠心力で手が離れ、次はぐらりと1回転。
ドサリとベチャリの中間くらいの音を立て、魔女は階段部分へ落ちる。約2メートル幅の狭い空間に、かろうじて体を残して。
「痛ったぁ!」
背中を強く打ちつけたから、もんどり打って数段下る。そしてしばらくおとなしくなる。痛みをこらえていたのもあるし、もしかしたらどこか骨でも折れてないかと自分の容態を探ったのもあった。
どうにもしまらない結果になったが、それはそれ、これはこれ。30秒前に高さへ尻ごみしていた者は、大胆にも塔の間を飛んで窓枠をつかみ、勇者へ蹴りを入れたのだ。一部始終を誰かが見ていたら、本当に同一人物なのかと疑ったことだろう。秘密は当然魔法の力、自身へ唱えた『ᛝ』のルーンだ。
スリーズルグタンニの額にもあったその文字は、北欧神話の豊穣神フレイ、またはその別名たる英雄ユングヴィを意味する。戦士が戦いの前にᛏと唱え、必勝を祈願するのと同じ調子で、英雄たるᛝの名を借りて、勇気をもらい突撃したのだ。
その効果は十分すぎるほど。恐怖をあおる本能は、高さを楽しむ狂気へと変わり、高所で自撮りするインフルエンサーのごときハイテンションを魔女へもたらした。動画にしたら閲覧者の下腹部をぞわりとさせただろう。世界律という命綱があるとはいえ。
ともあれ今回の彼女はけがをせずにすんだ。
(だ、大丈夫そうだ)
手をついて、ゆっくり上体をおこし、脚に力を入れて立つ。見事なドロップキックに若干満足げな顔をしながら。
(勇者はどうなったんだろう。かなり手ごたえがあったけど)
いいや足ごたえかなとくだらないことを考えながら、そろりと階下へ首をのばすと、ウェンダルらしき影が暗い空間へ倒れているのが見えた。もぞもぞ動いている様子。どうやら気絶はしていない。
(早くラタトスクを捕まえなきゃだね)
たしか窓枠で硬直してたはず、思い出して顔を上げ、そこにいるはずの小動物を刺激しないよう、ゆっくり窓のほうへ振りむく。でも、そこにはなにもいない。ぱかっと見開く窓だけが、渾身の攻撃へ目を丸くしているだけ。
「どこだ⁉︎」と泥棒を追う刑事の顔で、かじりつくように窓枠へ身を乗り出したイーダ目に入ってきたのは、自分の左側、塔の外壁を逃げ去っていく犯人の姿。これはなんともやっかいな逃走経路だ。壁面を走って追いかけるわけにもいかない。
「ううむ……」
考えることいくばくか、ふと視界にあった緑色の植物へ目を落とした。それは塔をいろどる最低限の飾り、無数に巻きつくツタだった。
「いけるかな?」
片手でつかみぐっぐっと引いてみると、意外にもしっかりした手ごたえが。これはいばらのルーンの出番だろう。魔力の消費は激しそうだが、そこは用意周到に魔石をちゃんと持ってきている。
「<ᚦ、ツタへ体力よあれ>」
少々無理やりだが、細い植物が切れにくくなるよう魔術で補強を入れた。
「ようし!」
行くぞ! と口にするかわりに、魔女は窓から飛び出した。びゅうっと風を切り体は宙へ。なにもない空間へ放り出された両脚が不安におののくも、イングの力がスリルという名の脳内麻薬を分泌し、魔女の心を無敵にしている。
腕に巻きつけた太いつるが、いったん塔から遠ざかった彼女をふたたび引き戻した。そして彼女は壁面へ片脚をかけ、キックスケーターの要領で前に進んでいく。ツタがのび切るタイミングがくると、「てやっ!」といったん手を放し、次のツタをつかんで太くする。
ターザンがロープを渡るかのように、イーダはアクロバティックな追跡を演じた。
目指す先は、見えはじめた緑の尻尾だ。
◆ ① ⚓ ⑪ ◆
リス混乱しながらも、ついに逃走の最適解を見つけてヒヒヒと笑う。塔の中には階段があるが、外側にはない。壁へ巻きつくツタは細く、やつら鈍重な人間どもをささえるには不足だろう。
この逃走経路は世界樹を住処とする、いたくかわいい生物にのみ許された道なのだ。不気味な男や黒い帽子の魔女がここを走ることなど、主神オージンが許しはしない。これは普段からちょっとしたいたずらによって、世界樹へ笑い声を提供してきた自分へのご褒美というやつだ。
ああ、ちいさき者へ生まれてよかった、なんてご満悦な1匹は、こんどこそ大丈夫だろうと壁面で足を止める。よく走ったから、高い塔へ吹きつける風が、火照った体に心地いい。
「見つけたぁぁ!」
ぎゃぁぁ!――彼が人間語をしゃべっていたらそんなふうに叫んだだろう。驚愕と恐怖が同時にきたら、生物なんてのはすくみ上るか叫ぶかしかできない。
追手は黒い帽子の女。ああ、忘れていた。魔女は空を飛べるのだった。
実際には飛んでいないイーダに気づきもせず、彼はもうやめてくれと懇願しながら、ふたたび猛ダッシュする。
彼の名前はラタトスク。緑がかった毛なみと口からでまかせが自慢のいらずらリスは、黒い瞳に涙を浮かべながら、終わらぬ逃走へ引き戻されたのであった。
きっとそれはオージンが、彼の行きすぎたいたずらにもたらした罰だったのだ。




