笑うノコギリエイ 前編5
飯田春子あらためイーダ・ハルコが転生したのは、転生後の世界においてかなり北側の地方だった。だから9月も初旬だというのに肌寒い。今頃日本では「残暑厳しい」なんて言葉が飛び交っているのだろうけど、ここでは「秋深し」もしくは「向寒の折」なんて言葉をあいさつ文へつけるのだろう、そんなことを考えていた。
彼女は今、馬車にゆられていた。進む道には奥歯をならべたようなのような石畳。石の表面は巨人によってやすりがけされたように平らだが、アスファルトにくらべれば段差も多い。そこをサスペンションすらついていない馬車が車輪を転がすせいで、凹凸をひろってガタガタとゆれる。三半規管が拒否反応をしめしそうだったので、イーダはつとめて遠くの景色をながめていた。幸いなことに、街道は広くて見晴らしがいい。道の両脇が数十メートルずつ切り開かれているからだ。野盗――ハイウェイ・マンへ、隠れる場所を提供しないため、そう整備されているのだという。
(いい景色だけど、なんか見慣れないな)
広がる景色は、もうすでに日本とだいぶ違った。少なくともイーダのいた本州とはまったく違う。過剰なほどあちこちにある湖と、どこまでも広がる森のせいだ。その光景に学校の地理の授業を思い出す。たしかあの問題は「日本の森の特徴を、海外と比較する形でひとつ挙げよ」という内容だった。その時には「マニアックな視点だな」なんて思ったけれど、海外というか異世界の森をながめていると、あの時記入した回答は本当に正しかったんだと思う。
(……山がない)
日本の森の特徴は多々あるが、たとえば欧州にくらべると、山に張りつく形で存在していることが挙げられる。平地ではなく山あいに存在するという意味だ。日本という島国は、山岳が多く平地は少ない。当然広大に広がる森なんて、北海道くらいにしかない。
カールメヤルヴィ王国は高い山のない国だ。富士山やキリマンジャロのような冠雪が美しい山のランドマークはありえないのだ。一方で湖が非常に多い。「カールメ」が蛇、「ヤルヴィ」が湖をあらわしているから、言葉を知っていたら国名から想像もついただろう。聞くところによると、国民ひとりにひとつプライベート湖を割り当ててもあまるほどらしい。
水面も平面なら、森の梢も平面を形成する。でも非常にすっきりしている景色だからこそ、引き立つものもある。
荷台のへりを片手でつかみ、イーダは後ろを振りむいた。青々とした景色にそびえるのは、天を衝く半透明の世界樹。この国最大のランドマークにして、おそらくこの世で一番高いところ。あれを見たら、エベレストだって姿勢を低くし恐縮するだろう。
(見飽きないなぁ)
毎朝起床すると、眠たい目をこすりながら部屋の扉を開けて廊下へ出る。するとすぐに視界へあの巨樹が飛びこんでくるから、意識は一瞬にして覚醒する。ここにきて3回目の朝を迎えているが、毎回その衝撃を受けるのだ。そして自覚する。「ああ、私は異世界にきたんだな」
そうやって物思いにひたる彼女へ、おおきめの石がガコン! と衝撃をもたらした。ねじった首がぴきりと嫌な電気信号を発し、イーダはしかめっ面で姿勢を戻す。
(痛い……)
首をさすってふうっとため息。ついでに脚をぐぐっとのばす。まだ午前中だが、体にはちょっとした疲労感が残っていた。
命をひろってもらって文句があるわけではないが、異世界4日目のイーダは少々疲れていた。それは多すぎる謎のせい。世界樹もそうだし、さまざまな種類の人類だってそう。なんとなれば自分がここにいる理由だって謎のままだ。対抗召喚で呼び出されたことはわかるのだが、それがどんな現象なのかわからない。いったいなんという法則が自分の体へ働いて、どんなエネルギーによって転生なんていう摩訶不思議な結果をもたらしたのだろうか。
しかも先ほど聞いた話だと、実は自分が死んでから3か月も時間が経過しているらしいのだ。死んだのは6月初旬、だからもう9月初旬。一応の理由は説明してもらっている。
対抗召喚は転生勇者があらわれるのと同時に開始される。しかし魔界の対抗召喚機は天界で発生する勇者召喚と違い、損傷した体の修復に時間がかかるのだという。地球とこの世界をむすぶ『ビフレスト』なる橋の上でゆっくり修復されて、ようやく4日前にこの世界を踏めたとのこと。ワインやウイスキーの熟成期間だったとでもいうのだろうか。
(だから夕方に死んだのに、こっちでは午前中だったのかな)
天蓋のない荷台の上、自分の体をあちこち見てみる。
(両脚も両手も、ひどかったなぁ)
他人事のように考える脳に、トラウマを残す両脚がピクピクと拒否反応をしめした。痛々しい両手の火傷あとが、ほんのり温かい。でもそれ以外には健康そのものだ。学校に通っていた時に感じていたけだるさも、時々自分を悩ませていた頭痛もない。転生直後に受けた説明に「体は健康に戻っている」なんてのがあったけれど、ついでに肩こり頭痛のたぐいも治してくれるとは……。ありがとうのひとつも言いたくなった。もしうまい具合にその機能だけ取り出せたなら、お医者さんになれるのかもしれない。3か月もかかってしまうけれど。
その期間へ思いをはせると、同時に無視できない存在がいることを思い出した。
(勇者って、今なにをしてるんだろう)
対となる勇者は自分より3か月前に世界におり、今頃冒険をしているはずだ。仲間のひとりでも手に入れて、魔王を倒すための旅を続けているのだろうか。それともまずはこの世界を楽しむため、あちこち旅行に出ているのだろうか。
その考えこそが、彼女が馬車の上にいる理由だった。
「外に出てみたい!」
昨日の夕食時、シニッカにそう伝えるとあっさり了承してくれた。王都カールメヤルヴィから南へ行き「害獣退治の見学でもしてきなさい」とのこと。たしかに世界の一面を見るにはちょうどいいと思った。
だからこうして馬車にゆられている。アイノとバルテリと、ふたりの死体労働者と。
「…………」
生き生きとたてがみを振る4頭の馬を、生きてはないだろう土気色の死体労働者が手綱取っていた。ぼうっとした顔で口を開け、ちゃんと前を見ているのか疑わしく見える。その横に座るのは、槍を手にした別の個体。彼もまた無気力に太陽を眺め、本当にあの槍を振るえるのかはわからない。
「あの……この人たちもオートマタの一種なの?」
きっとそうなのだろうけど、とは思うも、イーダはバルテリへ声をかける。なぜ人の亡骸を使う必要があったのか、人型だったらそれでいいのか、非難するつもりはないのだけれど、なにもゾンビにしちゃうことないのにと思った。
声をかけられた青い髪の彼――フェンリル狼と名乗った男は、端麗な顔へ微笑みを返し、なんのことはないというそぶりで答える。
「ああ、そうだぜ。腐103号と105号だ」
(――名前!)
骨だから骨、ゾンビだから腐。魔界の命名規則は容赦ない。せめてジョン・スミスとか、太郎とか花子くらいの手心がほしいものだ。
その腐さんたちは、名前のわりに臭いもしなければ、内臓が飛び出たり血や体液に覆われていたりもしない。ただ骨さんたちにくらべると、黄緑色になった肉があるぶん、生々しくて……。
腫物でもさわるかのような視線で、イーダは御者台のふたりを見た。すると槍持ちの105号さんが、手をゆっくりと頭へのばす。その先を目で追いかけると、頭頂部にはちいさな蝶が止まっていた。なんでまたあんなところで羽を休めようと思ったのか。「ああ殺されちゃうよ!」と悲劇を予想しながら固唾をのんで見守ると、予想ははずれ。
彼は蝶を人差し指へ器用にうつす。
(よ、よかった……)
そのまま逃げないよう慎重に、カタツムリが歩むほどのスピードで手を運んだ105号さん。彼は蝶をとなりの103号さんの頭へそっと移植した。ずいぶん人間臭い(人間がそうするかどうかは置いておいて)行動だ。「これあげる」という声すら聞こえた気がした。一仕事終えた彼はだらんと腕を下げ、また太陽をながめる。
ほっこりしたイーダたちを乗せて、馬車は「害獣注意」の看板のあるわかれ道へ。旧道だろうか、轍が草で消えかかっている狭い道へ折れると、バルテリがアイノにロープを手渡す。
「もう半刻もすれば害獣のいる場所だ。イーダはまだ戦えない。アイノ、お守りを頼むぜ?」
「うん、了解したよ」
馬車の手すりに結わえられたロープを手に、アイノはふわりと浮き上がる。なんだか空中を泳ぐようで、潜水艦というのは本当なんだと思った。
「――<Hydrophone>」
つぶやいたのは魔法だろうか。しかしサウナでシニッカにされた時と違い、白樺の風が吹いた感覚はない。
バルテリが小声でささやいた。
「イーダ、アイノは『聞き耳』中だ。これからしばらく、おしゃべりはなしだ。怖いだろうが、大丈夫さ」
無言でうなずく。
これから起こるであろう荒事を想像し、心がちいさく音を鳴らした。




