笑う天使たち 21
魔法契約書に書かれた3つ目のルール。それが代償だ。悪魔召喚時には「命」ないし「お前が生まれながらに持つ、大切なものをひとつ」と書かれるそれも、今日は少し違う文面となっていた。
ヴィヘリャ・コカーリが負けた場合、3名のうちいずれか1名を捕虜に取られる。狙いは当然シニッカだろうとイーダは予想したものの、それならばなぜ文章を「魔王を捕虜とする」にしなかったのか不思議だった。
けれどそれは、すぐにわかった。
「ビオン様、私たちはあなたに戻ってきてほしいと思っていますの。天界のアスクレーピオスか、あるいはパラケルススかと称賛された、稀代の医者たるあなたに」
「僕は堕天使だよ。だから天界には戻れない。ほら、翼も黒くなってきてるでしょ?」
「よく言うぜ。自分で塗っているくせにさ。ともかくアタシも賛成だ。魔王は憎いが……地上のことを考えりゃ、賢明な選択肢じゃないかもしれないしな」
そう言う大天使たちは、魔王とドクターを交互に見る。イーダはそこに、彼女らの迷いを見て取った。
(これって、どちらにするか決めかねているのか。そりゃそうだよね。本当は魔界の王をすっぱ抜きたいんだろうけど、私闘の報酬としては地上への影響がおおきすぎるもん。世間体としてもよろしくないよね……)
なら、どうやらもともと天界にいて、評判がよかったらしいドク――ビオン・ステファノプロスを捕虜にするという選択肢が現実的なのだろう。彼の離脱は魔界にとって激痛だ。転生勇者対抗召喚機も、最強の防御魔法スクロールも彼なしではありえないのだから。
「もしくは――」
しかしイーダはもうひとつの選択肢を予想していなかった。大天使ふたりと勇者の目線が急にこちらをむいたので、もはや熟練の域に達した特技「目をそらす」を瞬時に発動させた。
(なんで私を見るの⁉︎)
「そちらの魔女がどれくらいの価値かによっては、選択肢になりえますわ。プラドリコでレージ様を倒した張本人だというお話は、天界にも届いておりますの。そうでしょう? イーダ・ハルコ」
自分の名前を敵に呼ばれて、イーダはぶるると身を震わせた。ルンペルスティルツヒェン――正体を隠す魔法は、正体を知っている者には通用しない。事前に情報を調べられていたのだろう。
(バレてる! どうしよう!)
べつにこの期におよんでどうのしようもなかったのだが、魔女は強く動揺していた。隠していたミスを発見された新人会社員が必死で言い訳を探すように、なにか言わなければといらないことを思いついた。
(お、落ち着け! 落ち着こう! そうだ!)
自分を落ち着かせるため、彼女が頼ったのはルーン。心で「テュール! テュール!」と2度叫ぶ。プラドリコの冒険者たちが決戦前に行っていたおまじないで、北欧神話の軍神『ᛏ』の名を借りた勝利への祈願。それを彼女はこともあろうか世界樹の上で実施したのだ。
幸いなことに魔腺や魔力への意識も集中もはしょったため、それが魔法的な効果を生むことはなかった。そうでなければ、偉大な軍神の名を借りたことと世界樹の上という絶好のシチュエーションがシナジー効果を生み出して、大量の魔力を消費し、戦闘前に魔腺疲労で退場していたところだったろう。
魔法が姿をあらわすかわりに、彼女の心へささやかな虚栄がおとずれる。一般的には強がりともいう。それを心臓の毛細血管のすきまに発見した混乱魔女は、両手でしっかり握りしめ、よせばいいのに口を開いて大天使へ返答をした。
「私があなたたちの支払いにふさわしいのなら、そうだろうね」
(なに言ってんだ私は!)
暗に「そっちこそ負けた時の心配をしとけ」と言った、そう取られただろう。でなければ赤髪の大天使が片眉を上げ、「へぇ、そうかい」と怖い顔なんてしない。
もちろん、その予想は当たっていた。天使たちの目には、外見こそ小柄で目立たないが、ペストマスクの下に傲岸不遜な笑みを浮かべる油断ならない敵と映った。昨年まで姿かたちもなかった魔界の魔女は、フェンリル狼やベヒーモス、フギン・ムニンのかわりに従者へ選ばれるほどの実力なのだろうと。
チロチロと舌を出し入れし、楽しそうに笑みを浮かべる魔王の顔とあいまって、大天使と勇者は戦意を増した。
「魔王の従者と聞いていましたけれど、なるほど。相手にとって不足なしですわね。よろしくてよ」
彼女らも戦いに賭ける代償がある。そうやすやすと負けるわけにはいかないのだ。
大天使たちが支払うのは、勇者の固有パーク――通常は勇者最大の能力とされているもの。ゲッシュ・ペーパーにはウェンダル本人の提案により、『頑固な力加減』という名前まで記載されている。彼は昨日、「魔王は勇者を『世界へ遠慮なく力を振るう者』と認識している」と聞いた。それならば「自分は力加減できますよ」というポーズを取ることで、相手が少しでも躊躇するのではないかと思ったのだ。もちろん期待などしていない。どちらかといえば、相手が躊躇しないのなら自分も容赦しない理由になると、天使たちに対する立場表明の意味合いが強かった。
その彼が口を開く。
「自己紹介をしておきましょうか。俺はウェンダル。先日トラックに轢かれて死んだばかりです。しかし運がいいことに2回目の生を手に入れた。重ねて幸運なのは、あなたたちと戦う機会を得られたことです。これを逃す手はないと思っています。勝利を手にするチャンスをね」
「私が魔王シニッカよ、勇者ウェンダル。こっちのふたりはドクとイーダ。不運にも死んだあなたが、この世で幸運をつかめたことを、私は嬉しく思う。誰にとっての幸運になるのかは別にしてもね」
牽制を入れあうふたりへ、その場にいる誰もが鋭くなっていく空気を感じた。鞘に入った剣が抜き放たれ、刀身からただよう鉄の匂いが鼻から脳へ届いていた。
「俺はあなたが大陸に名をはせる強者だと聞いています。勇者を幾人も倒していることも。でも今まで倒れた先輩たちは、力を目いっぱい出せないという制限下で戦っていた。だから油断が生まれたんだと思っています。その点、俺は違う。いくら力を出しても世界を壊すことなんてありません。たとえばそこのリスをバラバラにしてしまうこともね。ゆえに容赦なく戦える。勝つのはこちらです」
ウェンダルは少々嘘をまじえた。ラタトスク相手には手加減が必要だ。そうしなければバラバラにしてしまう。けれどこれは相手に対する牽制であり、ゆえに自分をおおきく見せる必要があった。
「いい台詞ね。けれども、あなたが口にした台詞の最後の部分にエコーをかけてもらえれば嬉しいわ。あなたの耳で聞くために。それと知っているのなら思い出しなさい。神話においてニュンペーのエーコーがナルキッソスへかけた最後の言葉を。ナルキッソスがどう死んだか、なんの語源になったかもあわせて」
対峙する青い髪の女は堂々と言い返す。魔女の目へ頼もしい輪郭を映して。だから魔女も動揺しない。おかげで知識を埋める時間ができた。
(……ねえドク。なんの語源になったの?)
(ナルシストだよ、イーダ。水鏡に映った自分の姿に恋をして、その場を離れられずに餓死したんだ)
事前にかけておいた青歯王の魔法をとおし、イーダは神話の物語をまたひとつ学ぶ。と同時に、自信満々の勇者へ放られたシニッカの台詞はまさしく挑発であり、両者の間にある戦意の剣がよりいっそう突き出されたのを悟った。
ふたりを見て、チュートリアルが青い瞳を燃やしながら、ゆっくり口を開く。
「素敵な宣戦布告をありがとう。戦意の水が理性の盆からこぼれ落ちる前に、宣戦をしてもよろしくて? 形式は大切にしたいのですわ」
「ええ、構わない」
大天使もすらりと剣を抜く。実際に手へ武装したのではなく、高まる緊張へ新たな言の刃を連ねたのだ。
「……仇敵を捕える機会があたえられたことを、神に感謝します。戦意の前に立っていただいたことを、魔王たちに感謝します。そしてともに戦うと決めてくれたふたりへ、我が親愛と信頼を約束します」
イーダは魔力の香りに気づいた。シナモンのような甘い香りが、大天使から流れてくる。
(はじまる!)
両手をぐっと握りしめ、魔女もその場へ白樺を香らせた。
「我らが血をもって戦火にこたえ、彼女らの血をもってそれが消されんことを。猛き剣よ我らが右手にあれ、<加速せよ>よ我らが左手にあれ!」
1年前と同じく、宣戦へ言遊魔術を1節放りこむ。そして――
「その足元の、<減速せよ>へ気づきもせずに」
1年前と同じく、それは魔王によって防がれた。
だがその行為は、理性の盆をひっくり返す。
「――<加速せよ>!<体力よあれ>!」
「――<Buff、Geschwindigkeitsverbesserung>!」
「――<ダンパーよあれ>!」
「――<Enchantment、我は空気なる元素をまとわん>!」
堰を切った戦波が戦場へ急流をなし、行使された魔術がそれに乗るための船を編む。
「そら出ろ性悪ネズミ!」
ガツンと足蹴にされた檻が宙を舞う。
「競技開始だぜ!」
赤い髪が乱暴に踊り、いよいよ戦いがはじまった。




