笑う天使たち 14
「今日は楽しい一日になる」と魔女は確信していた。昼はドクの天界案内、夜は晩餐会があるのだ。365日の中で24時間を切り取ったなら、これほどまでに天界の文化を知れる部分など他にないだろう。
もっとも晩餐会は刺激的すぎるかもしれない。知らない人が多い上、警戒すべき相手も姿をあらわすだろうから。
「ここが首都アトスポリスの市場だよ。市場っていってもたくさんあるけど、ここが一番おおきいところなんだ」
港とコロシアムをつなぐ天界一番の大通りから1本はずれた場所、そこには車道を引いたら片側3車線は確保できそうな広い道があった。茶色のタイルが敷き詰められた、たぶん2キロくらいの直線。わきと中央にはずらりと露店がならぶ。
イーダはドクとふたりで市場の人ごみを歩いていた。会議の時は「念のために」とかぶっていたペストマスクも今日はなし。ルンペルスティルツェヒェンがいい仕事をしてくれていることだろう。だから太陽をたっぷりと楽しめる。あの高さなら、学校だったらまだ1時限目の最中で、つまり今日ははじまったばかり。
(おお! おおぉ!)
楽しさのあまり気持ちは陸上選手のようなスタートダッシュ切っていて、目線は走る時の四肢と同じく左右交互に行ったりきたりしてしまう。
「うわぁ、すごい! どれだけの品物がここに集まっているんだろう。あ! 果物! 果物屋さんがあるよ!」
写真で見たことのある欧州の青果市場と同じように、斜めになった台へたくさんの果物が所狭しとならんでいる。赤、紫、緑に黄色。カラーパレットのような多様な色彩を市場の一角へ提供していた。ひとつひとつは形もおおきさもバラバラ。それぞれのフルーツにはネームプレートだってばっちり用意されていて、名札をつけた人々がそれぞれに異なった性格を主張しているようにすら感じる。
たとえば青りんごと赤りんごの勢力が折り重なっているのは、たがいに「俺が買われるんだ!」なんて陳列の前面へ出るためぶつかり合っているようだし、綺麗に箱へ入れられた高級そうなぶどうたちは「乱暴はいやねぇ」とちょっとお高くとまって見える。
その光景は見ている者をごきげんにさせるのに十分だった。ゆえに視覚をとおして果糖を大量摂取した魔女の脳が、幸福による混乱を引き起こしたのもむべなるかな。
「オレンジ! オレンジ!」
「オレンジだね」
ドラゴンフルーツなみに無味なドクターの返事を聞きもしないで、魔女はだいだい色の酸味と甘みが両立する果実へ目をくぎづけにしている。自分で「少々浮かれすぎ」なことは理解していたのだが、フルーツに対する彼女の欲求は理性のハードルを蹴り倒すほど強かった。
理由は魔界。とくに、その冬の暗さ。
北側では極夜があるほど、カールメヤルヴィの冬は日照時間が短い季節。これは人体へ「ビタミン不足」という悪影響をおよぼす。くわえてその街には豪華な青果店などない。となるとキノコ類をたくさん食べてそれを補うしかないのだ。もちろんそれもおいしいのだけれど、甘味に勝てるわけがない。だからこんな豪勢な果物屋を前にすれば、16歳になった少女が8歳児くらいの語彙へ退化するのも無理はなかった。
ちなみにとなりに立つペストマスクの天使は、日照不足で体に足りなくなるのはビタミンDであり、フルーツにあまりふくまれない栄養素であることを知っていた。けれどビタミンCなら豊富に含有しているし、それはそれで必要な栄養素なのでだまっておくことにした。
それにそうした理由はもうひとつある。目に入った物の名札を読み上げはじめた5歳児の彼女は、とある事実に気づくだろうか? と。
「オレンジ! グレープフルーツ! ネーブル! タンジェリン!……え? あれ、これは……」
さすがにするどい、ドクはペストマスクの下で微笑んだ。これはきっと「なぜなにイーダ」がはじまって、3番目くらいの『魔界の先生』と化した自分を質問攻めにするのだろう。
「ねえドク。『Satsuma』があるよ? これって日本のみかんだけど……そんなのこの世界にあったっけ?」
彼女の見なれているであろう、いわゆるSatsuma。マンダリンと呼ばれるものの一種で、魔王様いわく、原産地は日本の九州といわれるおおきな島だそうだ。つまり日本の文化――たとえば侍や日本刀なんかが日本出身の勇者のまわり以外に存在しないフォーサスにおいて、あのちいさな果物はおおきな意味を持っている。
彼女は転生以前から、温州みかんが日本のものであることや海外ではサツマと呼ばれていたことを知っていたのだろう。だからフォーサス、それも天界にそんなものがあることへ疑問をいだいたのだ。いや、この場合は「いだけた」といってもいい。なかなかの注意深さを感じさせる。それがなんとも楽しくて、天使は早口になるのを我慢しながら返答した。
「大陸では自生していないね。東側航路に行くと、たまに酒樽ひとつぶんくらい採れるんだよ。それが天界への供物にされて伝わったんだ。それと天界にはみかん農園もあるよ」
彼はあえて自身の回答へ矛盾点を残した。そして次の質問を待つ。相手を試すようでもあったが、悪意ではなく期待感がそうさせてしまった。
「でもみかんってさ、種ないよね? どうやって農園を作ったの?」
(うん、期待どおり)
快適だった。
要点の押さえられた質問を反射的に投げかけるふるまいは、王立錬金術師協会のメンバーたちを思わせる。彼らはなにを見ても「なんでそんな形なんだ」とか「なぜここにあるんだ」とか、疑問をいだかずにはいられない。端的にいえば「知りたがり癖」がついているのだ。イーダもまさにそんなタイプの人間だった。
知識のばらつき具合も興味深い。温州みかんが日本原産であることや種がないことは理解していても、育てかたという一歩踏みこんだ方法を知らないのだ。逆にいえば知識を得るためのとっかかり、登山でいえばハーケンを岩場へ打ちこんである状態でこの世にきたことになる。それは知りたがり癖ととても相性がいい。
彼女の知識は生前の学習のたまものだろう。実はこの冬サカリと一緒に、なんどか彼女について話をし、なんども盛り上がったのだ。あれだけ高度な教育を受けていれば、この先も引く手あまたに違いない、なんて。
あとは打ちこまれたハーケンどおしをつなぐロープのむすびかたを教えるだけ。独立した知識と知識をむすんで、知恵にできるように。一緒に岩場のつかみかたや登坂姿勢の取りかたをそえてやれば、きっとどんなにけわしい岩肌も乗り越えていく。
「みかんは枝を折って地面へ突き刺して育てる『刺し木』と、種をつけるから容易に増やせるカラタチへの『接ぎ木』なんかで増やすんだよ。カラタチっていうのは、みかんによく似た植物のことさ。過去に、たぶん勇者がいくつかの苗木を天界へ供物にささげたんだ。そこにはみかんの苗木と一緒に、カラタチの苗木もあったんだ」
「へぇぇ、そうなんだ。でもさ、それなら最初の『みかんの苗木』ってどうやって作られたの? まさか魔法?」
「最初の1本目は魔法だろうね。それこそ勇者の固有パークなんじゃないかな。でも刺し木に成功すると根を張るから、それを引っこ抜けば苗木として売れるよ。これって高いんだ。刺し木って成功率低いから。供物にカラタチをふくめた送り主は、その難しさを知っていたと思う。少なくとも、そうしないと安定して増やせないことをね」
「だからその供物の主は『たぶん勇者』か……」
みかんひとつとってもこれだけの知識を学んでいくのだから、この市場をとおりすぎるころにはどれくらいの学習を終えているんだろう。彼女がどれくらい高い知識の山を踏破するのかと楽しみでしかたない。もっとも、今日この市場だけに集中したとしても時間が全然足りないだろうけど。
「ありがとう、ドク。みかんでこんなに盛り上がると思わなかったよ!」
「どういたしまして」
「ところでさ、今のって『地球の知識』だよね? ドクはどうやってそれを知ったの?」
これも当然、聞かれるだろうと思っていた。ただしこの疑問への回答は、きゅうりのように味気なくエネルギーのないものになってしまう。まあ、栄養素はそこそこあるかもしれないけど。
「僕も魔王様から教わったんだ。彼女は歩く地球大百科事典だからね。サカリたちも僕と同じさ。彼らが話す地球のことは、ほとんど魔王様が発信源だ」
「やっぱりそうか。……シニッカってさ、実は転生者なんじゃないかって、私はまだ思っているよ。手にやけどあとはないんだけど、隠すことなら得意そうだし」
「僕も時々そう思う。でも彼女のいうとおり、真相は『神のみぞ知る』なのかも」
本当にね、そう答えながら、魔女はお財布を取り出して果物の購入を決めていた。あれも彼女にとって楽しい経験なのかもしれない。
ヴィヘリャ・コカーリに所属する彼女には、魔王様からちゃんと給料が支払われている。政府からではなく王宮の金庫から、当然現金で。魔界の通貨はオメナないしサタイッコ。1オメナが100サタイッコで、医者である自分が人の髪を切るのなら1オメナが相場だ。過去に髪を切った時、「別にいいよ」と言ったのに、彼女はちゃんと支払いたいといってきかなかった。
天界は通貨が違う。ドラクマとオボロスという、魔王様に言わせれば地球のギリシャで使われていた通貨だそうだ。天界にきた当日、宿で両替(正確にいえば外貨交換)をしていたから、今イーダの財布に入っているのも、ギリシャ神話の神の横顔が描かれたドラクマ銀貨とオボロス銀貨になる。
(間違えずに使えるかな?)
とは思うものの、判別は容易だ。そもそもおおきさが違う。当然、おおきいほうが価値の高いもの。イーダは財布の中から硬貨をじゃらりと手に出して、反対の手の指で仕分けをしていた。受け取った日の夜、まじめにも意匠まで覚えていたから、なおのこと間違わないだろう。
価値の高いほう、ドラクマ銀貨の表面には、富と収穫の神プルートスがしかめっ面をしている。そんな顔をしているのはきっと、ゼウスによって視力を奪われたからだろう。人の善悪をわからなくすることで、富を平等にわけるためそうされた、と伝わっているが、長く魔界にいる身としては「お金は人を盲目にする」という皮肉で視力を奪われたようにも感じられてしまう。
6分の1ドラクマであるオボロス銀貨には旅人や商人の守護者であるヘルメースが微笑んでいる。が、きっとあの好色のことだ。綺麗な女性を見つけた時の表情を切り取られたに違いない。錬金術師の身としては、偉大なるヘルメース・トリスメギトスの名前の一端をになっているこの神が、好色だったことに複雑な感情をいだいている。
ただし、姿を変えてまで求婚しに行くという人をだますための熱意は、どこか魔界のみんなを連想させるから嫌いじゃないけれど。
「ありがとうございます。おいしそう!」
思考がギリシャの神々へ引っ張られているうちに、魔女はいつの間にか買い物をすませていた。振り返った顔は満足げだったが、錬金術師はその手に持った物を見て少しだけ予想を裏切られる。
真っ赤なりんごだったから。
「イーダ、オレンジは?」
鳥顔の天使は一緒に歩きながら、小首をかしげて疑問符を頭に。さっきまでと違い、こんどは彼が質問側だ。
「シニッカがね、状況によっておいしい食べ物は変化する、みたいなことをいってたから。きっとこの青い空の下は、赤い果物が合うと思うんだよ。それにさ――」
シャクッとかじるその音は、楽器にでもできそうなくらい小気味いい。
「むぐ……。んん。おいしい! 屋台でりんごを買ってお散歩なんて、おいしくないわけないもん!」
「ふふ……イーダは雰囲気を調味料にするタイプなんだね。まあ気持ちはわかるよ」
「でしょ?」
リスのように両手でりんごを持ちかじりつく彼女は、いうとおり天界の光景にぴったりだ。とくに明るい日差しの下、その笑顔は天界に似合っていた。
……似合いすぎなくらいに。
だから魔界のドクターはくちばしをむけ、その事実を伝えることにした。
「時に楽園とたとえられる天界で、あれだけたくさんあったフルーツの中、わざわざりんごをえらぶなんてね。君は間違いなく魔界に染められてきてる」
「そう? なんで?」
「『その女が見つけたその果実は、食べやすそうで、色も鮮やかで、知恵を得るのにもよさそうだから、彼女は少しとって食べた』からさ」
「な、なんか持ってまわった言いかただね。それってなんの物語の台詞?」
「蛇がどんな果物をすすめたかって議論されるやつだよ」
「き、禁断の果実!」
「あはは。蛇の湖の国の王様も、きっと同じことしただろうね」
「だから魔界に染まっているのさ」と、ペストマスクの下で表情をゆるませる。染まったと言われたことが嬉しいみたいで、「え、えへへ」と照れ笑いする顔を両目のガラスごしに見ながら。自分の顔が彼女に見えることはないだろうけど、同じ笑いを共有したのが妙に心地いい。
天使は少女に恋心をいだいているわけではない。少なくとも彼はそう思っている。けれど知を共有する仲間としての心地よさは感じていた。同じく知を共有する協会の仲間やサカリとはちょっとだけ違う、仕事や任務を忘れさせる休日のような暖かさだ。
先ほど彼が口にした文章は、「彼女は一緒にいた夫にも少しあたえ、彼もそれを食べた」と続く。アダムとイブが楽園を追われるきっかけとなったできごとだ。彼は「もしかしたらサカリもバルテリも、魔王様から教えられているかも」と考え、少々いたずら心がくすぐられるのを感じる。
(ここで僕が彼女のりんごを手に取り、一口かじったなら、サカリやバルテリは嫉妬するのかな? それを見た時、禁断の果実は僕の口へ蜜を提供するのだろうか?)
魔界で生活しているにもかかわらず、彼はいまだに魔族になっていなかった。だから思う。あれだけ嘘をついていれば、いつなっても不思議じゃないのに、なんて。
同じく魔女もまだ魔族ではない。この先勇者を倒し続けるなら、魔族でいたほうが心は楽かもしれない。
ならば一緒に魔族への道を歩いていくのもおもしろいだろう。もしくは一緒に「魔族にはならない」という道を歩むのも、それはそれで。
「私もだいぶ蛇々してきちゃったかも」
ヘビヘビ? φίδι - φίδιとはなんとも不思議な言葉が生まれた。
「ふふふ。そう言いながらはにかむのも、たぶん魔界の住人だけじゃないかな?」
ふたりは不思議な会話をしながら、ならんで市場を歩いていく。まだここにきて10分と経過していない。なのに直後、魔女が本物のユニコーンの角を呪術具屋で発見したから、早々に次のいそがしい10分が開始される。
午前中だけと決められた3時間程度の市場探索。
まだたっぷり時間を残しているはずなのに、「今日は時の流れが速い一日になる」と魔界の天使は確信していた。




