笑うノコギリエイ 前編4
(マズイ……)
無料で提供された食事に「おいしくない」なんていう感想をいだくのは身勝手なことだ。異世界に放りこまれ右も左もわからない自分に、好意で用意してくれたものならなおさらだ。嘘でも「おいしいです、ありがとう!」なんて笑顔を浮かべて、少しがっつくくらいに食べるのが礼儀というものだろう。
しかし……しかしだ。
仮に空腹という名の調味料を振りかけたとしても、この食べ物には無駄じゃないかと思う。料理としての基礎がしっかりしていないのだから、きっと間違いではない。たとえば高層マンションの建築予定場所に泥濘地を選ぶべきではないし、テーマパークを作るのなら畳4畳半の敷地で足りるはずもない。
つまり、この料理にはおいしくなるための土台がない。ゆえにこれ以上おいしくならない。
(…………)
今できる精一杯のことは、ネガティブな感想を口に出さず、ただ口の中に入れた物を咀嚼することだけ。そう自分へ言い聞かせ、口をもぐもぐとさせる。
異世界ではじめての朝を迎え、イーダは王宮の食堂にいた。現在は朝食中。口の中の物体から心をそらそうと、彼女は昨晩のことを思い出すことにした。
昨日の夜は今までの人生で一番豪華な睡眠だったといえるだろう。おおきさが畳1ダース分ほどもある貴族のような個室。生まれてはじめて見る天蓋つきのベッド。そしておおきなアヒルの上にいるかのようなふかふかの布団。そんなところで横になったら、異世界転生初日の疲労をかかえた者なんか、泥のように眠ってしまうのだ。
朝、目覚めも少々衝撃的だった。ノックの音に目をこすり、部屋のドアをカチャリと開けた先、立っていたのはスケルトンのオートマタ。一瞬びっくりしてしまったが、すぐに彼女へ親しみのようなものを覚えた。どうやら家政婦さんらしく、フリルのついたお仕着せが妙に似合っていたからだ。
その人物、骨162号さんに着替えを渡された上、セーラー服は没収された。手渡されたのはシャツとベストとズボン。「これは男装なのでは?」といぶかしんで身にまとったが、意外と女の子していてまずは一安心。よく見るとなかなか似合っており、姿見の前で30分ほどにやにやしてしまった。
その後、アイノに呼ばれて食堂にきた。時は現在に戻る。
(…………)
文句は言わないと2度目の決意。それをあざ笑う絶望的な味の薄さ。昨日の晩御飯の時にもいぶかしく感じていたのだ。魔界という場所における、絶望的な食の乏しさについて。
オートミールと呼ばれるそれは、いわゆる麦のかゆ。ベチョっとした食感と、口に入れて5分後のガムのような味をまとう。一口食べるごとに奥歯にへばりつくから、いちいち舌ではがさないといけない。そして歯の上に戻して再度咀嚼すると、硬いなにかがガリっとつぶれ、中枢神経にビクッと電気信号を流すのだ。
(わら半紙って、こんな味するんだろうな)
文句を言うかわりに、イーダは魔界にきてはじめて皮肉を思い浮かべた。彼女の目の前においても、「なんでこんなものを入れたんだ」と言わんばかりに、木のお皿が不満げな顔をする。それに「私のせいじゃ、ないんだよ」とイーダの目は曇っていった。
ちらりととなりのアイノに目をやると、ここで暮らす彼女も意見は同じようだ。深海魚のような表情で口をモゴモゴさせているのだから。
「我慢なさい」
対面に座るシニッカが無表情で言った。
その後ろでは本日の料理を作成したコックの骨53号さんが、カタカタと耳障りな音を立て、あご骨を鳴らしていた。
◆ ① ⚓ ⑪ ◆
食事が終わりにさしかかる頃、廊下から規則正しい足音が聞こえた。イーダが顔をむけると、そこにはひとりの男性がいた。食堂に入ってくる背の高いシルエットは、転生直後の自分を見ていたひとりのように思える。
「よう、ここにいたのか」
「あ、バルテリだ。おはよう」
「おはようアイノ。さっそくだが、その表情どうにかしろよ?」
その人は長身をスーツベストで着飾っていた。姿勢よく、ランウェイを行くモデルのように歩くから、よけいすらりとして見えた。獣を思わせる青い乱れ髪で飾られているのは、これまたモデルのようにととのった顔立ち。深い彫りに切れ長の目、長い八重歯ののぞく口。
絵に描いたような好青年の登場に、イーダはまずびっくりした。異世界転生という事象において、心のどこかで「イケメンの登場」を期待していた自分へ、本当にその瞬間が訪れてしまったのだから。
彼はアイノに言葉をかけながら、長い脚でイーダへ一直線に近づいた。木の床がカツンカツンと小気味よく鳴るのは、彼の登場を演出しているかのようだった。そして机へ到達した彼が腰をかがめたから、イーダの目の前に端麗な男性の顔がくる。動揺して顔が赤くなるのを感じながら、彼女は唯一学校で習った「あいさつ」というコミュニケーションをのどの奥から絞り出した。
「お、おはよう」
「ございます」をつけたほうがよかったか否か。考える間もなく彼はニッと笑って返答してくれた。
「おはよう。はじめましてだ、イーダ。俺はバルテリ・フェンリル・ケンパイネン。昨日は大変だったなぁ」
「う、うん。……うん?」
フェンリルと言った? そうだったら聞き捨てならないミドルネーム。転生先でフェンリル? それも美形の男性? 異世界というものは、どれだけお約束という名の親切心を持ち合わせてくれているのだろう?
照れくささを隠すため、イーダは苦手な「コミュニケーション」なる行動を選択した。シニッカの横に座った彼――バルテリに声をかけてみる。「あの、フェンリル?」
「ああ、そうだぜ?」
「それって神話の狼の?」
「そうよ」、シニッカが口をはさんだ。
「北欧神話の怪物で、狼の化け物。ロキの息子にしてHróðvitnir――すなわち『悪い狼』。魔界の法に違反しないのなら、朝食はオートミールじゃなくてかわいい女の子でしょうね。イーダみたいな」
(怖いよっ!)
いきなり残酷な話をされてイーダは体を硬直させる。えぇっ? と言いたげな顔で、狼男の顔を見ながら。
「ああ、好みのタイプだ」
「ひぇっ! 許して!」
食料としての感想でなければ胸もときめいただろうに。ただ、シニッカが舌をチロチロ出しながらクスクス笑っているのを見ると、2度目の人生が終わるのは今ではなさそうだった。
「冗談よ、イーダ。たぶんね」、舌をしまいこみ(しかし「たぶん」などと含みを残し)、シニッカが話を続ける。
「バルテリは我が国の国防大臣なの。だから彼が食い殺すのは麦がゆに目を曇らせる女の子じゃないわ。勇者ののどを食いちぎるのが役目なのよ」
「そ、それはそれで怖いよ」
「そうかもしれねぇな。けれどイーダ、お前さんはそれに慣れる必要があるんだぜ? 勇者たちは俺らを殺しにくるんだから」
運ばれてきた多めの量の食事を、バルテリは不満そうに口に運ぶ。彼にとってはいつもの光景なのだろうが、さらりと発した「殺す」という言葉は、転生したての少女にとって非日常を感じるものだった。
「う……」
ぼやけた昨日の記憶を思い出す。自分が転生勇者に対抗するための召喚機で呼び出されたこと、その場所がずいぶん手ひどく破壊されていたこと。そもそも目の前にいるシニッカは『魔王』なのだ。勇者と対立する存在だと聞かされているのだから、その剣がここにむかない理由なんてどこにもない。
なんだか怖くなった。助けを求めるようにシニッカの顔を見る。しかし、そこにサウナの時にいた彼女はいない。濃紺の髪をたずさえて、深海のような青い目がこちらをむいていた。
「あまりあなたを不安がらせたくはないけれど、伝えておかなきゃならないものもあるわ。私たちは魔界の悪魔なの。バルテリだって国外では『4大魔獣の一角』って恐れられている。私たちは常に勇者と対峙しているわ。心臓を短剣の先へぶら下げるためにね。だからこの世界において、私たち悪魔は恐れられることも多いの。馬鹿か勇者でないのならね」
シニッカの声は少しずつトーンを落とし、おとぎ話が現実のものだと告げた。それは氷の入った水のように、体を凍えさせる響きだった。器に注がれた冷水が、足元から少しずつ体を覆っていく。
(心臓を……短剣に)
勇者が敵だというのなら、当たり前のように魔界へ攻めてくるのだろう。だから王宮はこんなにも穴だらけなのだ。
「そ、それは……私も?」、危惧というよりも、一種の恐怖。
「あなたもよイーダ。あなたのいた平和な国と違って――」
シニッカがいったん言葉を区切る。聞き逃してはならない言葉が続くのを、イーダは覚悟した。
「魔界では平和がタダじゃない」
ぞわり、背すじをなでられる。魔界に住む死者の魂かなにかに、服の中へ手を突っこまれた気分になる。
塾で帰りが遅くなり夜道を歩く時、命の覚悟を必要としたことなんてなかった。すれ違うおおよそすべての人が、腰に剣なんて下げていないから。怖いのはお寺の横を通る時くらい。でも飛び出してくるのはせいぜい野良猫だ。
ここでは違う。寝ている間に敵がやってきて、自分をベッドごと串刺しにするかもしれない。
(私はなんてのんきにしていたんだろう。自分が殺意の対象になるなんて、昨日の夜からわかっていたはずなのに)
少しだけ長い沈黙。それが自分を取調室にいる犯罪者のような気分にさせてくる。うかつな失敗を犯し、今から責め立てられるのだ。
察してくれたのか、バルテリがシニッカに聞いた。
「で、魔王様。イーダも仕事に連れていくのか?」
「そのうちね。この世界を知ってもらわなきゃ」
「そうだよなぁ……。なあ、イーダ」
「う、うん。なに?」
バルテリがイーダへむけたのは、少し気まずそうな顔。少々冷えてしまったこの場の空気をごまかすように、頭の後ろを手でかく。しかし彼はすぐに、目の前にいる黒髪の少女と目をあわせた。
切れ長で獣のように鋭く、けれど穏やかな目を。
「俺たちがこの世界の歩きかたってやつを教えてやるさ。石畳も土の道も、ぬかるみも荒地も雪山も。昼間に歩くと心地いい草原も、夜に身を隠すべき洞穴も。少なくともお前さんには、4大魔獣なる化け物と、魔王様が味方してくれる」
狼の目はやさしい。そんな詩的な表現が少女の脳裏に浮かぶ。
「老婆みたいに将来を心配すんな。子どもみたいに世界を走り回れよ」
ニッと笑われて、イーダは気が楽になった。味方してくれる人がいる、頼りにしていい人がいる。彼女の人生にとって、それはとても重要なことだ。正面で目を細める魔王も、となりに座る肌の温かい幽霊も。
横から白い手がのびてきて火傷あとのひどい彼女の手に重なった。アイノは無言で微笑みうなずいている。
安全だけど孤独だった、日本での一生。危険だろうけど仲間がいる、魔界での人生。今の自分が選ぶなら間違いなく後者だ。
怖がっていた少女はようやく、顔に笑顔を浮かべられた。
「いいなぁ、4大魔獣の味方かぁ……」
そしてついつい口に出してしまった。はっと照れくさくなったから、彼女はコミュニケーションの中で唯一の特技である「話をそらす」を使う。「あ、ほ、他の人は?」なんて。
「残りふたりはこんど紹介するわ。いっぺんにこられても覚えられないでしょうから。でも、どんなやつかは話しておくわね?」
(残りふたり? バルテリと……あれ? アイノって魔獣?)
自分の手をつかんでいるゴーストらしき女の子が、黒くて長い前髪の下で「にへらっ」と頬をゆるませた。
「まずは『青い毛並みのフェンリル』。バルテリね。次に『黒い翼の2羽ガラス』。2羽ってあるけど、ひとりの男よ」
シニッカが指折り数えて話す。「2羽」というのは比喩の一種なのだろうか。フェンリルが北欧神話の怪物ならば、2羽ガラスもそうなのだろうか。イーダは疑問に思いながらも、質問せずに話を聞く。
「3番目は『緑の皮のベヒーモス』。銀髪の美人で、男の夢みたいな体だからすぐにわかるわ」
この人にも会ったことはないはずだ。「でも丸太たる私はこの人とならびたくないな」と、イーダは少々勝手なことを考える。そしてふと疑問に思う。
(あれ? ベヒーモスって北欧神話じゃないよね。この世界にはいろいろな神話の生物がいるのかな?)
なかなか冴えた疑問だったのだが、それはそれ。魔王は最後の魔獣の紹介をはじめた。「最後のひとりが――」
指折りをやめ、人差し指を立て、魔王はそれをアイノへむける。そこに「フェンリル」以上に聞き逃せない、奇妙な名前をたずさえながら。
「――『黒い髪の潜水艦』」
指さす先には眉をキリっと上げ、「ふんすっ」と鼻を鳴らすアイノ。
「せ、潜水艦⁉︎」
「そうだよ!」
彼女は勢いよく立ち上がり、両腕を広げて得意げだ。そのドヤ顔の理由はよくわからないが、4大魔獣に異物が混入していることはよくわかった。
「まあ本物じゃないけれど」、シニッカは少し困り顔。
「見ればわかるよ……」、なら自分はどんな顔をすればいい?
「Attention!」、ドヤるアイノが笑顔で告げる。
得意満面とはこのことだろう。
ダークグレーのコートがエイのヒレのようにはためいて、なにやら文字や記号が浮かぶ。英字、数字、時々漢字。それに混じって鼻息を立てる牛の絵が、ぐにゃりとコートを彩った。
そして戦闘ラッパのように、彼女は高らかに宣言する。
「セン・スイ・カーン!」
地球には絶対にいない、摩訶不思議な種族名を。
「……なんなの?」
「まあ、いろいろあったんだよ。またこんど話す」
あきれ顔のバルテリは、不満げに食事を続けた。アイノの存在を認めつつも、いまだに納得できないというような顔だった。
つきあいが長い(だろう)彼ですら、そんななのだ。
じゃあ魔王様はどうなのだと、イーダは彼女へ視線を送る。
「イーダが複雑な気持ちになるのはわかるわ。4大魔獣の色彩が、青、黒、緑、黒って。かぶっているし、暖色が欲しかった」
(……そこじゃないよ)
得られたのはただの感想。潜水艦とは無関係の。
イーダは心の置きどころがわからなくなったまま、無味な食事を続けるのだった。




