笑う天使たち 6
調停会議が行われる天界へは特別な手段でむかう必要がある。イーダはシニッカとドクと3人、王宮の玄関口でその迎えを待っていた。「お土産とか持ってかないの?」と魔女は少々浮かれ気味。対して魔王は「そうするくらいなら教会へ行って供物をささげてね、というのが天界の方針よ」と手ぶらの理由を解説していた。横でペストマスクの天使が言った「気圧差でたいていのおみやげは爆発する」なんてもっともらしい嘘を聞き流しながら。
太陽が昇ってしばらくし、空気が温かくなってきたころ。少し早めに冬眠を終えたネコヘビをあやしながら待っていると、突如天から「ごぉぉ」と飛行機のような音がした。よせばいいのに魔界のドクターが「あ、空襲だ」などとまた嘘をついたせいで、イーダはネコヘビを抱えて「うぉぉ!」と身を伏せた。
しばしの後、「嘘だよ」との天使の自白へジト目をむけながら立ち上がったイーダの目の前に、荷車を引く黄金色の1頭の獣。
黄金の毛の猪だ。シニッカいわく、その名前は俗称のようなもので、地球では本来の名前である『グッリンブルスティ』のほうが一般的らしい。
正体はというと北欧神話に出てくるおおきな猪。豊穣の神フレイの乗り物でもある。それが今、目の前にいるのだ。
イーダは最初にこの猪の名前を聞いた時、「スリー……タニ?」と発音に困ったのを思い出す。カールメヤルヴィもそうだが、なんでそんな呼びにくい名前なのだと少々驚いたほどだ。とはいえ「カールメ」「ヤルヴィ」とわけて自分の国をおぼえたように、「スリー」「ズルグ」「タンニ」とわけることで、案外すんなりおぼえられた。
しかし名前を呼べるようになったからといって、それが目の前にあらわれれば、また別の驚きがある。
(予想よりおおきい!)
実際の猪を見たことがないのでわからないが、全長3メートルの個体なんかいないはず。それが黄金色に輝く体毛を持っているのだから目立たないわけがない。ごつごつした顔面にはこぶしサイズのおおきな目。それがぎょろっと自分の顔を見たので、イーダはとりあえず目をそらした。
「誰かと一緒に行くのってひさしぶりかも」
シニッカが巨獣に手をのばし、頭をさわさわなでる。猪はそうされるのが好きなのか、「ブルルッ」と鳴いて額を手にこすりつけた。待ち針にでもできそうなほど硬そうな毛で怪我でもしなきゃいいけれど、イーダはそう思う反面、これは触っておくべきなのではとの欲求に駆られてしまう。この経験値を得る機会は、1年に1度しかないのだ。だから機を逃せば、きっと後悔する。森のヘラジカや街の猪の獣人、もしかしたらヘアブラシを見るたびに、「触っておけばよかった……」などという後悔をちょくちょく思い出す羽目になるかもしれない。
(……ええい、ままよ)
ハードボイルドなセリフを頭にうかべ、両手を黄金の茂みの上へ。スリーズルグタンニはなんの拒否もしめさず受け入れてくれた。手でもしゃもしゃとしてみると、予想通り硬いけれどしなやかに曲がるし弾力もある。なによりすべすべしていて手に気持ちいい。きっと天界のシャンプーはオリーブオイルがたっぷり入っていて、この猪の毛皮へ圧倒的なキューティクルを提供しているのだろう。
断言できるほどに「よいもの」だとイーダの脳内にいる鑑定士(おそらく知識も浅く思慮も浅い者)が告げた。抜け毛があったのならそれを集めて、ヘアブラシを作り愛用したい。きっと自分の黒髪も黄金の光を放ちはじめるだろうし。
「……ゴールデンキューティクルブラシ」
「え? スリーズルグタンニだよ?」
いや名前をつぶやいたわけではなくて。
ともあれ猪が嬉しそうに「もっと触ってもいいのだぞ?」と目を細めたから、イーダは思い切って体をうずめ、全身をブラッシングした。その奇妙な行動は、鼻腔に侵入した1本の体毛によって『妖怪無差別グルーミング』が軽度のダメージを受けるまで続いた。
「痛い」
「そろそろ行くわよ」
あきれ顔の魔王へ続き、魔女と天使も荷車へ。2輪の荷車は、高い手すりと広い荷台――4つの席を設けられる程度――を持っていた。あちこちが金でふち取られているから、黄金の猪と合わせて過剰な高級感をかもしだしている。絹で覆われた座席の乗り心地も極上で、荷物を入れるチェストまでちゃんと用意されているのだから、なんと配慮の行き届いた1台だろうか。
魔腺へほんのり白樺が香るのは、この荷車になんらかの魔法がかけられているのからだ。たぶん乗り心地をよくするための衝撃緩和魔法や温度の調整魔法。これがないととんでもなく危険な目に遭うだろうから必須装備なのだろうけど、そんなものが当然のごとく付与されていることについては、やはり特別感というか高級感があった。
生前見た高級車の鼻先には、決まってメーカーの高級そうなエンブレムがついていた。あれは製造社のブランド力を前面に押し出した紋章みたいな意味があるのだろう。けれど、この猪の額にだって「ᛝ」のルーンが誇り高く青い光を放っている。その文字があらわすのは北欧神話の英雄ユングヴィ。スリーズルグタンニの持ち主、豊穣神フレイと同一人物とされる人だ。そのブランド力は、地球で国賓の乗るVIPカーに対しても負けることなんてない。
生前買い物をする時は「安さこそ唯一無二の正義なのだ」と貧乏癖のついていたイーダは、突如あらわれたリッチなあれこれへ心を躍らせた。席に座って、はじめて遊園地のコーヒーカップへ入った子どものようにきょろきょろし、あちらこちらをぺたぺた触る。
「おぉ……おおぉ……。お?」
そんな少女が見つけたのは、なにか棒状の物を何本も指しておく形状の器具。それとあちこちにある、なにかをマウントするために設けられた張り出しや取っ手。
「ねえシニッカ、これなに?」
「ああ、それは武器用のラックよ」
「え、武器⁉︎」
「だってこれ戦車だもの。投げ槍とか弓とか矢筒とか、そういうものを置いておくの」
(戦車だったんだ)
履帯をキュラキュラいわせて走る大砲のついたやつではなく、社会科資料集の古代のページに載っているような戦闘用馬車の一種。すなわちTankではなくChariot。自分の足元にあるのがこの世界の一般的な戦車だとは思わないけれど、今後「私、戦車に乗ったことあるよ」と堂々と口にできる事実に鼻息が荒くなる。
「<旗よあれ>」
それはシニッカが戦車の一番後ろに国旗を立てたことで、ますます強さを増した。国旗を掲げた戦車なんて、とびっきりの1台に間違いないのだ。
テンションの上がった魔女があまりにむふんむふんと鼻息を放つものだから、スリーズルグタンニは「あれは人型の猪なのだ」と間違った確信をいだいた。ついでに、ここが悪魔の住む国なのに彼女は悪魔に見えないから、実は魔界におけるセーフリームニル――戦死者の国にいるいくら肉を取っても死なない食用猪の一種だと結論づけてもいた。悪魔は人を食うらしいから、人型の猪であれば説明がつくのだ。
獣の冴えた誤解をよそに、乗客たちはベルトを締めて出発にそなえていた。
「他の国の代表は、たいがい戦士を引き連れていくんだ。勇者とかね。その時に便利だって言っていた」
「そうだったんだ。ちなみにどこの勇者?」
「バグパイプを固定するのにも便利だってさ」
(アールか!)
ベルトの締まり具合を確認しながら、魔女は遠く南東の方角へ思いをはせる。きっとあの赤いドラゴニュートも、女王に続いて馬車へ乗っていることだろうと。今の自分と同じよう、彼が異界の生物に心を躍らせているのかなと、同郷の友人を懐かしむ気持ちにもなった。
(そういえばあの時はドラゴンだったっけ)
彼を思い出すと、ふたりで乗った『The Red Dragon』のことも頭に浮かぶ。あの時の堂々としたはばたきは物理方程式を笑い飛ばしているようだったし、容赦のない急降下は異世界からきたふたりへ力を見せつけるようでもあったけれど、そんなこともふくめて定冠詞「The」のよく似合う竜だった。
じゃあ今日目の前にいる黄金の獣も、きっと期待を裏切ることなんかない。
「出発するわ。よろしくね、猪さん」
魔王の呼びかけに、スリーズルグタンニは地面へザッザッと足をかく。姿を見たら100人中100人が「突進する直前の獣」だと理解できてしまうやつだ。太い首の内側からは低いうなり声が聞こえてきて、出発の時がきたことを乗客へ告げた。
――ズドンッ!
「ぐひゅっ!」
重力加速度が魔女の体を押し付けて、「お前なぞ椅子の背もたれと同義だ」などと乱暴な言葉を吐く。イーダはそれに言い返すこともできない。大切な帽子を片手で押さえながら、梅干しのような顔をしてなんとか耐えるのに精一杯。まかり間違って頭を背もたれから乗り出したりなんかしたら、不良品の人形のように首がポロリとこぼれ落ち、帽子のつばが生む揚力によって遠くへ飛んでいくだろう。
打ち上げロケットの先端にしばられるのは、拷問になりうる、そう確信した。当たり前だけど。
でもがんばって薄目を開けると――
(ああ! すごい絶景!)
風圧なんか忘れさり、ぱぁっとおおきく目を開く。瞳に映るのは、地面に対して垂直近くなった視界と、遠ざかるカールメヤルヴィ。王宮も街並みも、もう砂粒のようにちいさくなっていて、でもかわりにせまる空は青色をどんどん濃くさせていた。そこには無限の大海が広がっているみたいで……。海への旅立ちの出発点が港なら、空への旅立ちの出発点も「宇宙港」なんて表現されるわけだ。
戦猪はハイレートクライム――急激な上昇機動で高空を目指す。矢のように雲へ突っこむと、ふと、全身が溶ける感覚が。悪魔召喚魔法陣でよく味わう、水へ落ちたラムネ玉になった気分になるあれだ。
(うほほぅ!)
そんな感触と、強い加速度と、天界の光景への期待。それらがいっぺんに襲ってきたから、喜びと楽しさでお腹の底がひくひく笑ってしまう。
直後、猪は雲を抜けた。急角度の上昇は静流のようななめらかさで水平飛行へ切り替わり、ずいぶん近くなった太陽が旅行者たちへ「こんにちは」を告げる。
眼下の雲海はモコモコと波打って、頭上にはシニッカの髪みたいに黒みを帯びた青色があって。
ここは高度1万メートルより上で、つまり成層圏にいるのだ。
「うわぁ! すごい! すっごいよ!」
宇宙を見渡せるんじゃないかと思うくらい奥行きの深い空。視覚が手を持ったなら、このまま月までつかめそう。それと雲の白から空の水色が濃紺を経て黒につながるグラデーションも美しい。地球儀は固い表面を持っているけれど、実際の星というものは宇宙とやわらかい境界線を持つのだと知れた、そう言い切れるくらいに。
「ねえシニッカ! ドク! さっきまでが絶景なら、今の景色は極景かな⁉︎」
「あはは! 天界の住人が聞いたら喜ぶでしょうね」
「喜ばしいよ」
「あなたは地上の住人でしょう?」
そんなやりとりの最後、「あっ」という声を出して3人はしばらく口をつぐんだ。黄金色の毛並みのむこう、ディープブルーを背景に、緑の世界樹が近づいてきたからだ。その存在感があまりに圧倒的過ぎて、3人そろって目が釘付けに。猪が進むにつれて、ぐんぐん濃さも増してくる。いつもは空に半透明の姿を映している世界樹が、今は目の前で実体を持ちはじめているのだ。
視界を覆う範囲が増えるほどに、巨大な物体にいだく支配されるような感覚が。少々の恐怖、といってもよかったが、視野が完全に世界樹へ覆われたところで、魔女はその感情にふさわしいラベルをつけた。
畏敬だ。怖さと敬意が胸を圧迫するから、耐え切れずに胸の前で手を組みたくなる感情なのだ。
(神様もここにいらっしゃるのかな?)
もしそうなら、普段よりも近い距離でお祈りができるのかも。それも天界での楽しみのひとつになる。
巨大な枝葉をすり抜けながら天を駆ける、輝く戦猪が引く戦車に乗って、魔女と魔王と天使は、間もなく天界へおり立つのだった。




