笑う魔女 32
シニッカやマルコが枢機卿へことの顛末を話す横、イーダもまた今回の事件の裏側を思い出している。
戦いが終わった翌々日の夕方、つまり3月17日。石造りの壁のむこうからお祭り騒ぎになった街の喧騒を聞きながら、冒険者ギルドの一室では尋問が行われていた。裏切りの冒険者トランピジャスこと、ヒルベルトに対するものだ。血気盛んな冒険者たちを部屋に入れないよう扉は固く施錠され、ヴィヘリャ・コカーリの4名とマルコとロペだけがヒルベルトを囲んでいた。
「トランピジャスなんて大層なあだ名を持っているのね。まあ愛称なのだから、あなたの憎めない一面や、いたずらをしても許される立ち位置ってことをあらわしているんでしょうけれど」
「…………」
「でももうその名でお前を呼ぶ者はいないわ。お前は誰の手先だったの?」
シニッカの質問は端的で、そのうえ残酷だ。武骨な短剣のようでもある。ひとたびそれが突き出されたのなら、相手は答えを言いよどむことすら許さず、両腕を上げて降参するか心臓を差し出すかの選択を強要されてしまう。
そうでなくてもヒルベルトは魔王の所有物なのだから、嘘など許される立場ではなかった。
「ええ……。それは……」、罪の告白に言いよどむ裏切りの冒険者。それを前にして、イーダはどの名前が出てくるかを予想していた。
(枢機卿ではない、かな)
任務を受けた最初のうちは、その答えが一番有力なのではないかと思っていた。実は依頼主が黒幕だった、なんていうギジエードラゴンの時と同じパターンだと。だがよく考えれば、あまりに割に合わない賭けだといえる。魔王は勇者を倒す専門家がゆえ、依頼へ嘘を混ぜても露見する公算が高い。それに悪魔の前で嘘をつくことなど、この世界では死と同義だなんてこと、彼が知らないはずもない。
そもそも実際に会ったかぎりでは、枢機卿は嘘というものが好きではなさそうだ。そうでなければ勇者レージと亜人の結婚に対し、相手を怒らせるとわかっていながらはっきり「No」と言えないだろう。
(じゃあドミンゴ大司教?)
なにも知らない者からしたら最有力候補だったのかも。大司教にとって勇者は非常に都合がいい。ライバルと敵対的な関係にある勇者は、駒としてとても手ごろだっただろう。「枢機卿は亜人を認めませんでしたが、私の考えは違います」と麻薬のように甘い言葉で誘えばいい。
ただ、違和感があった。イーダたちはレージに魔石を飲ませるため、トランピジャスことヒルベルトをだまそうと教会の力を借りたのだが、そこで会話をした聖職者たちから大司教の悪いうわさなど聞かなかったからだ。会ったことはないけれど、悪人なら少しくらい悪意が周囲へ漏れ出すだろうに。
イーダは次の選択肢を探す。
(もしかしてモンタナス・リカスのヴァランタン辺境伯?)
そしてその娘のフローレンス? もしそうだとしたらとんでもない行動力だ。プラドリコの不利益は彼の利益、動機もはっきりしている。兵士を用意した速さも黒幕だったのなら納得できる。
とはいえ悪辣すぎるかもしれない。かつあまりにも恐れ知らずだ。自分を見逃してくれた魔王に仇を返すこととなるのだから。
(誰だろう……)
結局答えはわからなくて、ヒルベルトの口が開くのを待つ。そして出てきたのが、「天秤天使教会系の冒険者ギルドです」という予想外の言葉だった。
「あら、意外な連中の名前が出てきたわね」
イーダにとっても、それは予想外だった。というよりもあまり身近でない組織だったから、「冒険者ギルド同士が敵対するの?」なんていう疑問すらいだいた。ただ、マルコとロペの反応は、本気の舌打ち――彼らふたりにしては非常に珍しい殺意のこもったもの――だったので、ギルド同士の対立も不自然ではないとわかったのだ。
(同じ冒険者でも、組織が違えば敵対するんだ)
思ったのは至極当然のこと。傭兵同士で起こりうることならば、冒険者同士でも起こりうる。ヒルベルトを追及するマルコとロペの口調が強かったことで、「それが現実なんだな」と納得せざるをえなかった。
そんなふうに半月前を回想するイーダの前で、シニッカが枢機卿への説明を終わらせる。
「――ということで、あなたも危害を加えられる危険性があった。ゆえにカルロス王へ使者を出したの。『クルス枢機卿を保護するべきでは?』ってね。すぐに彼ら――近衛騎士団をよこしてくれた。まあ正直なところ、ちょっとおおげさだし、あなたは王へ貸しを作る形になっちゃったけれど、しばらくは厚意に甘えておきなさい」
「はい、ご配慮感謝いたします」
クルス枢機卿はそう言って頭を下げた。深々と、まるで不祥事を謝罪する日本人の記者会見のように。イーダはその所作に少し驚く。こちらの世界でそんなふうにする人なんて見たことがなかったからだ。
「それに……」、頭を下げたまま、枢機卿は顔を上げない。よく見ると手を両ひざにつけたまま、ふるふると体をふるわせているのがわかった。
しばらくそうしていた彼は、ふぅっと息を吐くとゆっくり顔を上げる。そしてイーダはふたたび驚いた。いつも威厳をたもち眉間へしわをよせている彼が、自分へ腹をむける猫でも見つけたかのような表情をしていたから。
「いえ、失礼しました」
「いいのよ」
(なんだろう?)
なんでそんな顔をしているのか、イーダは理由がわからない。こっそりまわりを見てみても、みんな同様に疑問符を浮かべている。つきあいが長いだろう枢機卿の護衛たちすらそうなのだ。意味を知っているのは本人とシニッカだけだろう。
「では、最後に取引の終了を」
肩から力を抜いたクルスは晴れやかな表情をして話を進めていく。取引、というのはもちろん今回の依頼の「代償」だ。「代償の話をするのにこの表情?」、そういぶかしく思ったイーダは、しばらくしてはっとする。やっと彼の表情の意味を理解したから。
(そうか。「代償に命を奪わない」って気づいたんだ。そうじゃなきゃシニッカが近衛騎士団の護衛なんて用意しないもんね)
だとしたら、クルス枢機卿のさっきの表情は「安堵」なのだ。つまり1か月半もの間、ずっと不安に思っていたのだ。「命を奪われるかもしれない」という恐怖を、我慢してすごしていたに違いない。
その感情を、誰にもわからないようふるまって。
(ああ、この人は、すごい人だ……)
そこまでして今回の勇者災害を止めたかったのだ。尊敬の念をいだかずにはいられない。
「ええ、それじゃあ依頼を完了させましょうか。ゲッシュ・ペーパーを」
ふたりはおのおのゲッシュ・ペーパーを出し、机の上に置いた。契約の完了を待ついじわるな2枚の紙も、今日はどこか笑っているようにたき火色の光を淡く放つ。
「魔王シニッカ、代償をうかがいたい」
「ええ。でもその前に、調べることがある。クルス枢機卿、腕を片方前にのばして、親指だけを立てなさい」
「わかりました。……こうでしょうか?」
「いいわ。じゃあ両目を開いたまま、そこにあるろうそくの火に親指を重ねなさい。あなたから見えなくなるように」
不思議な儀式がはじまって、一同はまた疑問符を浮かべる。
「左右の目を交互に閉じると、どちらかはろうそくの火が見えるんじゃない?」
「左目を開いていると見えます。これは?」
「利き目は右目ね。こちらへきなさい」、魔王は枢機卿を呼び寄せる。そしてためらいもなく代償を要求した。
「お前の左目をもらおう」
それをゲッシュ・ペーパーが聞き逃すわけもない。赤い光が枢機卿の顔をなめると、1滴の血も流さずに左目がコロリとこぼれ、魔王の白い手の上へ落ちる。
彼女はそれを手のひらの上で転がした。
「枢機卿ホスエ・クルス・グラキア。片目だけでものを見てはいけないわ。逆の側に死角が生まれ、重要なものを見落とすかもしれない。たとえばドミンゴ大司教のこととかね」
「それは……返す言葉もありません。今回の件で彼を疑っていたのは、私の心の弱さゆえですから」
「もしかしたら、勇者レージのことも。彼は未熟だったかもしれないけれど、この教会へ訪れる人はみんな大なり小なりそういう部分をかかえているわ。人なら、誰しもね」
「彼は……彼が暴走した一因は……。いえ、認めなければなりませんね」
「そうね。だからこの目は湖に投げこんでおく。故事よろしく、あなたが叡智をさずかるよう」
かたわらで聞く者は、それが知恵を得るため湖へ片目を放ったオージンのことだと理解した。それは命を奪うよりも魔王らしいふるまいだとも感じていた。
「……感謝の言葉もありません」
「感謝の言葉は神様へ。あなたがいつもやっているように」
満足そうに魔王は笑い、きびすを返して歩きはじめる。ヴィヘリャ・コカーリもそれに続いた。メンバーのひとりである黒髪の少女は、魔王から「保存袋へ入れておいて」と目を渡されて、「い、意外とちいさいんだね」と素直すぎる感想をもらす。
そんな後ろ姿を見送りながら、クルスは口元をゆるめ片方だけになった目を閉じ、両手を胸の前で組んだ。
「神よ、慈悲に感謝いたします。日々いただいている清き水と、愛に感謝いたします。願わくは、彼女らにも祝福の水をもたらしたまえ……」
典雅な言葉を使わずに、気持ちを伝えるためやわらかく祈る。そのまま余韻をたっぷりとって、安堵という水で満たされた心臓へ精神を横たえさせた。禁欲生活を送る彼がもっとも好むその行為を、彼自身は「心の沐浴」などと呼んでいた。
穏やかな沈黙ののち、彼は目を開ける。もう彼女らは入口から消えているだろうと思いながら。
「こら、行くわよ」
「あ、待って!」
遠くで天井画を見上げていた少女が、魔王にせかされていた。思わずふふふ、と笑ってしまう。
「彼女はなんという名前なのですか?」、冒険者に問う。
「イーダです。イーダ・ハルコ。ああ見えて強いんすよ、彼女」、ちいさな狼は少々誇らしげに答えた。
「そうですか。ヴィルヘルミーナ・オジャ殿は魔界の辺境伯でしたね。イーダ殿もなにか重要な立ち位置にいるのでしょうか」
「本人から聞いた話では『ただの従者』だと。でももしかしたら――」
ロペはイーダを見た。そして「もしかしたら」の言葉に似合わない確信を持って、続きを口にする。
「『魔女』かもしれないっすね。青い羊皮紙に出てきた、白樺の木がよく似合うあの」
「『白樺の魔女』ですか……」
魔王の率いるヴィヘリャ・コカーリには4大魔獣と錬金術師がいる。しかし魔女という名を冠する者などいなかったはずだ。それをふまえた上でホスエはイーダの存在を知った。
彼女は魔界へ新たに加わった魔王の仲間なのだ。魔界以外の世界を物珍しそうに観察し、楽しんでいる最中の、しかして頼りになる魔女なのだ、と。
「またきてください。こんどはゆっくり天井画を見るために」
つぶやく彼の顔のやさしさ――普段は眉間の谷を消すことのない男のやわらかい表情に、護衛たちも騎士も冒険者も目を丸くした。
ただ常日頃から彼のやさしさを知っていた水瓶のレリーフだけは、清らかな水をたたえながら微笑んでいた。




