笑う魔女 25
周囲の熱気がリズムを刻んで、イーダのみぞおちのあたりをドンドンと叩く。闘気と熱気にゆられながら、彼女はアイドリングするエンジンの中にいたらこんな気分なのだろう、もしくは以前テレビで見たラグビーの試合の直前なのかも、と感じていた。
思い出すのは、ラグビー強豪国のいくつかが競技開始前に対戦相手へお見舞いする勇壮なダンス。自分たちは強く、そして勝つのだという宣言を声と体で表現するものだ。もし今がそうだとすると、自分はその列の中にいて、キャプテンであるマルコさんの合図を待っているのだ。
戦場の空気に身を包まれながら、彼女が位置するのは戦列の中央だった。となりにはシニッカ、ヘルミ、サカリの半分、そしてマルコ。マルコが少し曇った表情なのは、指揮官であるため突撃には参加できないから。そのことを「苦々しく思う」という吐露へ、魔王が「指揮はあなたにしかできないことよ」とはげましの言葉を送っていた。
イーダは視線を自分に戻す。
(準備は……よし、できてる)
何回目か知れないが、袖の下に仕込んだ白樺の小枝と、胸元にしまった赤いベルベットの袋を、手でさわり確認した。白樺の枝へ「ᚦ」のかけ声とともに魔力を流しこめば、魔術が小枝を鞭のようにのばしてくれる。赤いベルベットの袋には秘密兵器がたくさん。最初にこれを受け取った時よりいくぶんかしぼんでいるのは、中身をいくつか仲間へわけたため、そして悪事に使ったためだ。残りもこの戦いで有効活用できるだろう。
「魔王様、そろそろ頃合いです。はじめようと思います」、マルコさんが決意の表情を浮かべた。
「そうね。みんな弓につがえられた矢みたいになっているもの。大声を上げ、引き絞ってあげなさい。威勢のいい吶喊をね」
彼は「承知しました」と答え、みなへ顔をむける。そして戦列の中央で、統率者にふさわしい声を張り上げた。
「盾を鳴らせ仲間たち! 俺たちの戦いのドラムを鳴らせ!」
「オオオオォッ!」
戦士たちは地鳴りのような声と、武器を打ち鳴らす音で応える。
「戦果を得たくば剣を持て! 勝利の名前を2度叫べ!」
——テュール! テュール!
地鳴りは続き、空気を震わせる。視界までもが上下にゆさぶられているのは、大気中のちりまでもが激しく振動したからなのか。
腹が打ち震え、鼓膜がどうにかなりそうなほどやかましいのに、イーダは不思議と安心感を得た。400人、今までこれほど多くの仲間と一緒に戦うことなんてなかったから頼もしく思えたのかもしれない。もちろん200体という多くの敵に対峙することもなかったのだけれど。
はじめてづくし、なのだ。この人数もそうだし、勇者に対抗するため1か月間も準備をしたのも、作戦の概要を自分が用意したのもそうだ。戦いの中核を担うのもはじめてだし、これほど強い戦意をいだくのもはじめてだった。
——そして、自分で敵を殺めると決めたことも。
「シニッカ、ヘルミ、サカリ。私、なんとかやってみるから、だから、力を貸して」
「まかせなさい。魔王たる私がしっかり導いてあげるわ」
「おまかせを。戦乙女たる私が、道をこじ開けますから」
「期待に応えよう。カラスなりに、こざかしくな」
イーダはそう応じられて、目線をシニッカに、ヘルミに、そして肩の上のムニンにうつした。フギンのほうは、上空に円を描いて両勢力の動向を偵察中。事前の取り決めどおりだ。
ついで彼女はアイドリング状態にあった心臓へ、ゆっくりと魔力を流しこむ。
魔腺の蛇口を一気に開けなかったのは冷静でいたかったからだった。魔力が流れれば、それに応じて心がたぎってしまう。でも今日の戦いで必要なのは冷静さ。戦意でじわじわと熱くなった体を冷ますように、イーダは口から強く空気を取りこんで胸を冷やし、言葉を乗せながらゆっくりと吐いた。
「ありがとう。じゃあよろしく、ヘルミ」
「承知しました。<ᛒ,ᚩᛁᛖ:ᛣᛁᛚᛈᛁ>」
戦乙女はまず魔法の盾を張った。勇者の力を除けば、この世で最強の防御手段だ。この盾を重ねられれば便利だろうけど、彼女自身が展開できるのは1枚だけ。他にはスクロールにしたものがシニッカの懐に、やっぱり1枚だけ。
私も事前準備をすませてしまおうと、イーダは胸に指でルーンを2つ描く。
「<ᚼ、ᛒ、魔導線をつなげ>」
いつものアングロ・サクソンルーンと違うもの、北欧ルーンを使った理由は、魔術の由来がデンマークの王様だから。魔法でできた導線を任意の味方とつないで、1対1の精神対話ができるようにする。生前の世界でも、多分十億人じゃきかない人たちがこの技術の恩恵を受けていただろう。
なにせ『青い歯』なのだ。
「イーダさんも準備はできましたか?」
「うん、大丈夫」
「では、お運びしますね」
白い甲冑で覆われたヘルミの腕がイーダの肩を抱えた。逆の腕ではシニッカも抱えられている。
「——<獣化せよ>」、言遊魔術が1節唱えられた直後、ぐんっと体を押し上げられた。視界は戦場のすべてが見える高さへ。平原でここより高い位置にあるのは、遠くに見える木々の梢だけだろう。
カバの化け物『ベヒーモス』。暗緑色の硬い皮を持つ巨大な獣で、一般的な民家よりもおおきな魔獣。額に2重の盾をくくりつけ、その下で緑の瞳を輝かせている。
(結構高い。落ちる、なんてまぬけなこと、今日は許されないかな)
全高5メートルもあるその首の後ろ、背中に横ならびでつけられた座席へ、イーダは体を固定した。シニッカは横に立ったまま、衝撃吸収のために「<ダンパーよあれ>!」と言遊魔術を放る。
戦場へ戦端の矢がいっぱいに引き絞られる音がした。そしてそれはすぐに宙へ放たれる。
「――突撃ぃ!」
号令と同時に、冒険者たちから歓声が上がった。見かけよりずっと速いゴーレムを先頭に、各パーティーが追いすがって敵へ走る。ある者は呪文を詠唱して魔術を行使しながら、ある者は両手剣の柄をしっかり握り直しながら。ゴーレムと冒険者たちが5体の獣になって、やわらかい草を巻き上げ突進する。
まるで5本の槍が敵を貫かんとしているみたいだ。あんなにおおきな穂先なら、ドラゴンだって倒せるのかも。とすると、彼らは穂先で自分たちはそれをささえる柄の部分になる。両手でしっかり握り、敵の胸元へ突き出さなければならない。
「私たちも続きます! つかまっていて!」
ドシン! ドシン! 人型の時のヘルミからは想像もつかない音がした。柱のように太い脚が、大地を蹴って土を巻き上げる。地面がそれに必死で応え、背中を押してくれているよう。
(ここからならよく見える。勇者は……いた!)
先頭集団のむこう側、勇者が数名の亜人を率いて突撃してくるのが見えた。敵は主力を分散させた。5つの集団に対し、強力な個体各々が迎撃する戦法に出たのだろう。
相手は各々の戦線で時間をかせぎ、勇者の到着を待つ算段だ。魔王を打ち倒した勇者が凱旋するかのように、各集団へ加勢に行くのだ。
(なら、中央の私たちの戦いで、全部決まる!)
そこにいる自分が戦場の趨勢を決める。重圧が両肩を押しつぶす予感に、イーダは戦意を新たに湧き立たせてそれを払った。
——が。
「――<狼の激流>!」
黒い筋を残して、光が一閃。ロペの率いる中央集団で、ゴーレムが空にはねるのが見えた。
(っ⁉︎)
いや違う。正確にはゴーレムの上半身だけが宙をくるくるまわっている。そのまわりを彩るのは、なんらかの赤いかけらたち。各々がそれぞれの弧を描き、打ち上げ花火の残滓のように広がって地面へ落ちた。
(……嘘でしょ?)
イーダは理解した。ああ、あれは人だったものだ。人ひとりが数ダースのかけらとなり、戦場に散っていったのだ。
勇者とはあれほどまでに強いのだ。
「シニッカ様! どれくらいやられましたか⁉︎」、突進しながらヘルミが聞く。
「30人弱と1体ね。お祈りする暇もないわ」
(そんなに……)
イーダは反応することもできなかった。あまりの事態に心がいっぱいになったのもある。けれども、はじめて勇者と戦った時や黒竜と戦った時のように意識を朦朧とさせたわけではない。むしろずっと冷静に目の前の惨状を見ていたから、人の命など木の葉のようにもろいことを実感してしまったのだ。
「……敵は強いんだね」、そのひとりごとにつき合ってくれる人はいない。ここは戦場で、敵は勇者なのだ。だからちゃんと戦局へ応じなければならないと、指示を飛ばす。「サカリ、中央集団を援護して! ロペさん、無事だといいけれど……」
「承知した」
もう1羽のカラスも空に上げ、蹴散らされてしまった冒険者集団の援護にむかわせた。放っておくなんてできない、という安易な理由が、戦場で許されるのかはわからなかった。でも心は自分で静めなくてはならない。だからサカリをむかわせたのだ。今のうちに不安を払しょくするために。
勇者という最大戦力と剣を交えている最中、仲間のことを気にしたら負けるだろうから。
カラスを追う視線を戦場へ戻すと、両目がこちらをむいている勇者レージをとらえた。50メートルくらいだろうか。彼の前では距離がないのと同じ。
「きます!」、刺さるようなヘルミの警告。
歯を食いしばったイーダの目に映るのは、両足で大地を噛むように姿勢を低くした勇者。剣などの武器を手に持っているわけではない。しかしかわりに両手から生えた長い爪は、何本もの短剣を持っているようだった。脚は地面を噛むような獣の形。両方合わせると、ちょうど青い毛の亜人と同じシルエットになる。
それがわずかに動いたかと思うと、彼のいた場所には土ぼこりが立ちこめ、黒い尾を引いてなにかが飛んできた。両目から入った映像を脳が知覚する時間はない。だが、飛んできたのが勇者自身であることと、その行為が攻撃のためだということを体が教えてくれる。脳が発生させた警告の電気信号が背骨から流れ四肢をこわばらせた。
砲弾を正面から見たらこんなふうだったろう。あっと思うがそれを口にする間もない。先ほどまでは表情がうかがえないほど離れていた敵が今は10メートルにも満たない場所にいて、彼の急停止で巻き上げられた土や草が視界を覆うより早く、爆発した殺意が衝撃となって敵対者すべてを殴りつけた。
「<狼の激流>!」
ガグシャァッ! と激しい音。
魔力でできた肉厚の両手剣が、巨獣の頭めがけて無遠慮に振りおろされた。鉄骨を破砕するような音が鼓膜を痛めつけて、頭蓋をゆさぶって、強い衝撃になって姿をあらわす。目の前にあった緑の魔法盾はそれに耐えられない。一瞬ゆがんで見えたかと思うと、真ん中から千切れて消える。
勢いの残る勇者の斬撃は、ヘルミのが兜がわりに額へ装備していた盾をも吹き飛ばし、深い切れこみを入れた。重量のある一撃が、巨獣の四肢をいくぶんか地面へめりこませる。
そして搭乗者ごと押しつぶすのではないかと思われたところで、ようやく破壊の刃は姿を消した。
「速いっ!」、イーダがやっと口にできたのは、驚嘆の声だけ。
「っ! 硬い!」、一方の勇者もヘルミの硬さに面食らったか、悪態のような響きを携えた驚きの声を上げる。ゴーレムを切り裂いた攻撃も、世界で最も固い生物を一撃で殺せなかったのだ。
そうやって驚く勇者の前で、緑のベヒーモスは血まみれで笑う。
「歓迎します」
ヘルミの声がしたのと同時、イーダは乱暴に座席で背を打った。短距離の力強い加速、そして渾身の体当たり。
ドスン! と鈍い音がして、数トンもあるだろう質量が勇者の全身を殴りつけた。
「ぐっ!」
勇者は両腕をクロスさせ防御したように見えた。しかし質量差でピンボールのように吹き飛ばされる。先ほど彼自身が踏み荒らした土と草のえぐれた場所に背中から落ち、さらに多くの地面をえぐった。
(きっとあれは効いてない!)
体当たりの動揺を抑え、イーダが感じたのは追い打ちの必要。それはとなりにいる魔王も同じだったようだ。右目の端に、シニッカの腕が勇者へ突き出されるのが見えた。
「——<ᛁ、矢となれ>!」、空中に引き絞られた氷の矢。
ガガガン! 氷矢が勇者に吸いこまれ、彼の表面で砕かれる。ガードする両腕の間から、金色の瞳が魔王をねめた。
(反撃のすきを狙ってる? なら!)
手番を相手に渡さないため、イーダは魔腺を加熱する。
「のびろ<ᚦ>!」
「クソッ!」
バシン! 敵の胴体を鞭が叩く。指先に伝わるのは、鉄板でも叩いたかのような感覚。これじゃ悲鳴を上げるのは鞭のほうだ。連続して殴りつければ、あまりの硬さに先端がほつれてしまいそう。
でも他に手はなくて、いちど手元に引き寄せた魔力のいばらを、再び蛇のように襲い掛からせた。
「たぁぁっ!」
「ちぃっ! 次から次に!」
勇者はたまらず距離を取る。ダメージがあるようには見えないが、少なくとも痛みはあたえているようだ。
(なんとかなるかな?)
まだわからない。しかし手ごたえはあった。
「<ᛒ,ᚩᛁᛖ:ᛣᛁᛚᛈᛁ>!」、すきを突いてヘルミが防御魔法を張り直す。
「イーダ! 続けるわよ! <ᛥ、矢となれ>!」
「わかった! <ᛉ、棘罠よあれ>!」
魔王の石のルーンが弾丸となって勇者を打ち、イーダはその合間にヘラジカスゲのルーンを放る。勇者と自分たちの間を鋭利な茂みで区切り、容易に接近できないように。有刺鉄線のような目に見える罠だが、相手の行動は制限できる。次に飛びこんできたら、相手を弾いてそこに落とそうという算段だ。
棘の園のむこう側、勇者が敵意をあらわにした。「時間稼ぎか魔王! そんなもんで俺を止める気か⁉︎」
「ええ、こんなものであなたを止める気よ」
「俺のヴァナルガンドは、お前らの防御魔法1枚じゃ防ぎ切れない! 今のでわかった! 切り裂かれたいならそこにいろ!」
「防御魔法がひとつだけだなんて誰から聞いたのかしら? でも切り裂きたいなら、いらっしゃい」
挑発を繰り返し、勇者の攻撃を誘引する。
少しだけ、少しだけでいいのだ。
相手の動きさえ止まれば、策はあるのだから。
(集中しよう。絶対に機を逃さないように)
かくして勇者と魔王は戦場で対峙した。
ベヒーモスの盾といばらの剣が、魔王の側にならんで立っていた。




