笑う魔女 22
街道沿いにある起伏の少ない草原で、ふたつの勢力は戦列を作った。片方は亜人と勇者のスタンピード200名、もう片方はそれを鎮圧すべく集められた冒険者たち400名とゴーレム5体。くわえて魔王と戦乙女と転生者がひとりずつ、カラスが2羽1組。
各々の集団は300メートルくらいの距離を取って対峙していた。最も足の速い冒険者で30秒、ゴーレムで45秒、それだけあれば届く距離。
その戦場の真ん中に、イーダはペストマスクをかぶり、魔王とふたりで立つ。懐には『ᛒ』の防御用スクロール。今回戦いに持ちこめた2枚のうちの片方だ。万が一相手が自分たちに危害をくわえようとしたのなら、これを使って一撃しのぎ、そして逃げる。足元には騎乗や旅を意味する『ᚱ』のルーンを描いておいた。もともと木や石に刻むため直線で構成されるルーン文字は、足の先で描くにも適している。転移先は仲間のところ。これに触れて発動させれば、150メートル後方にいるヘルミのもとへ逃げ帰られる。
そんな緊急事態への準備を終えたイーダたちに対するのは、勇者礼二とフェンリル狼の亜人フェフェ。この世に亜人の人権を主張するため、勇者の仇敵である魔王へ倫理の剣をぶつけるため、彼らはそこに立っている。
勇者はまず、その剣の柄へ手をかけて相手の様子を見ることにした。道具袋から音声伝達魔法が付与された魔法具を取り出し起動させる。
「俺が礼二だ、魔王。お前の悪行は知っている。だが、お前と戦う前にどうしても話さなきゃならないことがある」
戦場へ声が響き、双方の戦士たちはそろって驚いた顔をした。見おろす空の太陽すら注目したか、日を覆っていた雲が風に吹かれて消える。
「魔王シニッカよ、レージ。私もあなたの行いを知っているわ。主義主張なら聞いてあげる」
魔王も口を開いた。礼二の望む「精神的な戦い」の火蓋が切って落とされたのだ。
「『聞いてあげる』ね。なるほど、上から目線ってわけか。そんなだからお前らは、人が生まれながらに持つ『人権』ってやつを軽視しているんだろうさ」
ゆっくり相手に見せつけるように、礼二は会話の剣を抜いた。刃を相手にむけながら、キッとにらみつけて言葉を続ける。
「お前らが基本的人権をどれだけ知っているかわからないが、人ってやつはな、生まれたら無条件に『生存する権利』や『誰にもしばられない権利』を持つんだ。どんな弱者でもだ。わかるか?」
会話の戦いにおける、勇者の先制攻撃。しかし魔王はそれに難しそうな顔を返した。
「そのお話、きっと平行線になるわ。それでも答えなければならないかしら?」
敵が剣を振りかぶった直後に「本当にこの場所で戦うの?」と言わんばかりの返答。それは勇者レージをいらだたせ、強い口調で「当たり前だ!」と叫ばせた。
魔王は威圧されるでもなく、ふぅっと息を吐いて相手の攻撃に応じる。
「基本的人権ね。人が生まれながらに持つ自由かつ平等な権利であり、不可侵で不可譲のものでしょ? 生存権、自由権、社会権に参政権。幸福の追求をそこにふくめたっていい。あなたの生まれた世界と同じく、そういう概念ならこの世にもあるわ。あなたほど声高に叫ぶ人は少ないかもしれないけれど」
「わかっているなら話は早いさ。きっとお前は『亜人は人にふくまれない』って言うんだろう? 言葉が通じないんだからな」
礼二はこの世界特有の現象、つまり「どうやら言葉が翻訳されていること」が、亜人たちとそれ以外の間に立ちはだかっていると感じていた。だから言葉が通じない相手を害獣と呼ぶのだ。
だが、日本ですごした時に外国人を害獣扱いするやつはいない。いたとしてもそいつは差別主義者で、まったくもって「くだらない連中」だ。今の自分はそれを許さないし、罰があたえられるべきとすら思う。
ならば翻訳者である自分がいる以上、亜人たちにも人権は認められるべきだ。そして抑圧された状態から解放されるべきだ。
確固たる論理で磨いた剣。礼二はそれで魔王の精神を両断するつもりだった。しかし——
「そんなこと言わないけれど、続きを聞かせて?」
切っ先を前に、魔王は動じない。青い両目をまっすぐ、生徒から相談を受ける教師かカウンセラーのように礼二へむける。そこに敵意すら感じられなくて、礼二は少々とまどった。
「……俺の生まれ故郷では、言葉の通じない相手から人権を取り上げることなんてしなかった。意志疎通の有無にかかわらず、人格のある生物が相手だったからだ。それは動物も同じ。むやみに動物を殺したり傷つけたりすることは法律で禁止されてもいた」
剣を握り直し、敵へ主張を押しとおす。
「倫理観として当たり前ね。地球の話を持ち出さなくたって、ここでもたいがいの人がそうよ? 法律までは整備していないところもあるけれど」
勇者の胸に「むけられた刃が武器だと気づいていないのか?」と疑問が浮かんだ。あまりに手ごたえがなく、のれんに腕を押す気分になった。百メートル以上も離れている冒険者たちからは、自分が話すたびに殺気が伝わってくるというのに。
だが相手がそこまで認めるのであれば、次の言葉は決まっていた。
「つまり、言葉が通じない亜人たちにも人権はある。お前もそれを認めざるをえないだろ。それにくわえ、俺がいれば彼女らとコミュニケーションが取れるんだから」
「異論はないわ。今は未熟な種族だけれど、時がたてばこの世にもなじんでくるでしょうね。レージ、あなたが言いたいことはそれだけ?」
「認めたな。だったらつまり『お前らはわかってて彼女らの人権を踏みにじった』ってことさ! 正義は俺たちにある! そうだろうが!」
声高に叫ぶ。勇者の主張を後押しするような亜人たちの歓声を乗せて。魔王のむこう側からは怒声。冒険者たちが怒りの声で迎撃をしている。
しばらく続いた喧騒の中、礼二は精神的な戦いの勝利を手にしたと思っていた。冒険者たちは怒っているものの、それは倫理観にもとづくものではなく、ただただ感情に支配されているのだと感じていた。
次は肉体的な戦いだ。それにむけた締めの台詞は、もう少し場が静まってから。しかし、会話の剣をおさめかけた勇者へ魔王の舌がのびる。
「あなたたちに正義が必要なら、根拠にはなりうるのかもね。でもねレージ、あなたが語ったのはあなたたちの理由だけ。こちらにはこちらの理由がある。双方がその理由――倫理観の剣と言いかえてもいいけれど、それを持って戦う以上、片方の刃が一方的にもう片方を貫くことはないわ」
勇者の思い描いていた現代倫理観による攻撃は、至極当然の盾をもって受け止められた。魔王が会話の前から「きっと平行線になるわ」と、この議論の展開を予想していたかのような言いまわしをしていたのは、それが理由だった。
つまり、精神的な勝利など、最初から存在しえなかったのだ。
(口だけは達者だな)
礼二は心で舌打ちをする。しかし魔王の言は続く。「それにひとつ、あなたは勘違いをしているの」と、地面の穴の住処から、蛇が頭をゆっくりもたげるように。
「勘違い? そんなもんがあると思わないな」
「あなたは私たちが『わかってて彼女らを踏みにじった』と言ったけれど、冒険者たちも街や村の人々も、みんな彼女たちのことをわかってなんかいないわ。何者かわからないから警戒していたし、怖がってもいた。対話が不足していたのよ。でもすでに、判明しているだけで37人の命が消えた。このままなら、私たちはあなたと戦わなくてはならない」
「対話を拒んだのがお前らな以上、俺たちに正義がある。お前が悪のままで戦うなら好きにしろ。こっちもやる気が出る」
「理由があるのは私たちも同じ、と言いたいの。お話を聞いてもらえないかしら?」
「なにを言うつもりかわからないが、『主義主張があるなら聞いてやろう』か」
「嬉しいわ。レージ、あなたはなんで冒険者たちを殺したの?」
「それは俺たち自身を守るためだ。そんなことも言わなきゃならないのか?」
「だってあなたは、モンスターと人間の両方と会話できるんでしょう? そんな力があるのなら、もっと上手に使えばよかったのに。いつの世も殺害より脅迫が、脅迫より警告がすぐれた手段なのだから」
「警告にしたがわなかったのはお前らだろ」
平行線の会話に、聞いている者たちはいらだちを覚えはじめていた。両陣営の戦士たちは、双方戦いにきているのだ。もちろんひとりひとりが戦場へ立つ理由を納得ずくで。今さら対話など不要だと感じてもいた。
そんな状況へ、魔王はふぅっとひとつため息を落とす。
「レージ、あなたが相手をしているのは倫理や道徳なんかじゃなくて、この世界の『常識』なの。2度や3度の警告だけじゃ変えることのできないたぐいのものよ」、そう言って蛇は鎌首を相手の顔と同じ高さにし、勇者が再び抜いた剣ごしにその顔を見つめた。
「それじゃ手遅れになる。フェフェはそれで殺されかけたんだぞ⁉︎」
「その結果あなたが殺した相手も、それはもう必死だったと思うわ。通常、害獣を生かして逃がせば復讐されてしまうからね。でもあなたなら相手から武器を取り上げて、対話することもできた。圧倒的に強いんだから」
「その場を見てないくせによく言えるな」
「あなたのことはよく調べたもの。一緒に冒険した仲間から、時々短絡的に行動することや、短気だってことは聞いている」
「…………」
礼二が黙ったのは怒りをおさめるためだ。短気だと言われて怒るなどお粗末すぎると、短絡的な思考を巡らせたからだ。だがその感情はドアのすきまから漏れる煙のように地を這い、となりに立つ狼の亜人へ伝わった。それが体の表面にある毛を逆立てさせ、瞳の表面に殺意の色を反射させる。
「レージ様を、悪くいうな」
彼女が出したことのある声の中で、最も低く殺意のこもったもの。それはガラガラという鳴き声になって冒険者たちに届く。だが当の魔王はそれが存在しないかのように、礼二だけを見て話を続ける。
「まあ、そういう理由で、私たちも戦いをやめられない。予想どおり、会話は平行線になったわね。けれど、このままではみんな心の置き場所が見つからないわ。だからレージ、少し話題を変えて彼女からの質問に答えてほしい」
シニッカは横に立つペストマスクの少女へ顔をむけた。さっきから身じろぎもせず、銅像のようにじっと立っていた従者だ。
「……好きにしろ」
「ありがとう。イーダ、聞きたいことがあったんでしょう?」
従者は「うん」とうなずくと、顔からゆっくりマスクを外す。黒髪がさらりとゆれて、黒目が勇者をまっすぐ見ていた。
「な⁉︎ 君は日本人か⁉︎」
「そうだよ、レージさん。私はイーダ・ハルコ。日本で育ち、日本で死に、魔界で生きる、そんな立場」
「…………」
礼二の口からなんの言葉も出なかったのは、彼が強く動揺したからだ。転生を果たした時に置いてきたはずの過去が、いきなり目の前にあらわれたように感じてしまったのだ。
「レージさん、あなたにどうしても確認しなきゃいけないことがあるんだ。とても、とても大切なことを」
「……なんだ?」
礼二は嫌な予感がした。魔王などといういくらでも悪意をぶつけていい相手とは違う。同郷の、つまり自分と同じ環境で育った彼女は、当然自分と同じ倫理観を持つだろう。
それがこんなにもまっすぐな目で見てくることに、転生後一番強い不気味さを感じた。
そして、それは間違いではなかった。
「あなたの固有パーク、使役じゃなくて、創造?」
――礼二の最も恐れていた質問。
彼の仲間、トランピジャスはおろかフェフェたちですら知らないであろう事実であり、彼がずっと隠していた固有パークの真実。
「そ、それは……」
言いよどむ勇者は、とある日の記憶を脳の奥から引きずり出されていた。




