笑う魔女 9
大陸西部には、陸地に囲まれた海がある。『ロス海』ないし『ロス地中海』と呼ばれているところだ。地球のヨーロッパ地中海と同じく、南北と東側を陸地に囲まれて、西側におおきく口を開けている。気候も似ていて、温暖で乾燥しており非常に暮らしやすい。
その東側沿岸に広い版図を広げているのが、大陸2大大国のひとつ『三首犬王国』。ロス海の交易や東側航路での外洋冒険で利益を上げている経済大国で、国王カルロス6世の治める絶対王政の国だ。
イーダたちは今、ロス海沿岸の大都市『エル・サントバコロ』にある大教会堂の中にいた。アイノとバルテリが害獣駆除に旅立った2日後、悪魔召喚の要請が入り、それに応じたためだ。メンバーは彼女とシニッカ、それからサカリとヘルミ。今までになかった取り合わせかもしれないと思った。シニッカ以外はみんな(自分をふくめて)ペストマスクで顔が見えないから、他者からすれば誰が誰だかわからないだろうけれど、とも。
狭い視界の中、上を見上げる。
(……すごい。これ、人が造ったものなんだよね?)
大都市と同じ名前を冠する『エル・サントバコロ大教会堂』は、おそらくこの星の人類史上に名を遺す建物だった。高さ150メートル以上もある天を衝く3本の尖塔の横に、その半分くらいの高さの立派な礼拝堂部分がならんでいる。これが三つ首で空に咆えるケルベロスなのだと言われたら、誰しもが納得するだろう。側面に設けられたいくつもの巨大な窓には、これまた巨大な人が作ったとしか思えないほどのおおきなステンドグラスがはめこまれていて、繊細な彫刻でふちどりされている。
(天井高いなぁ……)
礼拝堂の内部(正しくは身廊と呼ばれる部分)から天井を見上げると、圧巻という言葉しか出てこない。時間はすっかり夜だというのに、魔法の燭台が壁に数百個もならび、広い窓から夜闇が侵入するのを防いでいるのだ。唯一、ずいぶん遠くにあるドーム型の天窓から、控えめに星のまたたく夜空が見えるだけ。
そして目を奪われるのは壮大な天井画。広い空間へところせましと描かれているのは、世界の創生から50年くらい前までの歴史だった。細かくはわからないけれど、ひとつひとつの絵にちゃんとしたモチーフがあるだろうことは容易に想像できる。なぜなら、先日読んだばかりの「悪王を倒す英雄たちの話」が克明に描かれているのだから。
(フレスコ画っていうのかな? 油絵と……違うやつ? わかんないけどすごい)
それが橙色の光を受けて、幻想的に浮かび上がっている。ペストマスクのガラスごしに見ると、美術館でショーウィンドウに入れられた芸術品を鑑賞している気分になる。いつもどおり口は開きっぱなしだ。……潜水艦の不在をいいことに。
この大教会堂を外から見たら、漏れる光がどれだけ美しいだろうか。『神様のランタン』なんて愛称がついているらしいけれど、大仰な名前をつけたくなる理由もわかる。
「人類は発展し、ゆえに夜を拒むことすら可能となった」なんて具合に、堂々と主張する大教会堂の中。夜だから通常は人がほとんどいないだろうその広い空間に、今日はいくばくかのひとがいた。
聖職者と冒険者たち、そして自分たちヴィヘリャ・コカーリだ。
数人いる聖職者の中で最重要なひとり、ホスエ・クルス・グラキア枢機卿が口を開く。
「お久しぶりでございます、魔王様。お元気になされておいででしたでしょうか?」
天井から目線を戻したイーダの目に映った聖職者は、品のよい所作をしていた。でもそれとともに、神聖で近づきがたいオーラをたずさえてもいた。彼と自分の間はガラス戸でへだてられ、彼は屋内に、自分は屋外にいるようだ。中に入ろうとガラス戸に手をかけたのなら、神罰かなにかに身を撃たれそうな雰囲気すらあった。
『枢機卿――Cardinal』という役職は、エァセン教Thekla教会の中でかなり上位の存在だ。序列は上から順に、預言天使の声を賜る『教皇』、その補佐をする『教皇代理』と『枢機卿』となる。地球のカトリックと同じだ。教皇は世界にひとりだけで、教皇代理も同じくひとり。テクラ教会での枢機卿は世界で12人しかいない。
つまり彼は、テクラ教会の聖職者の中ではほとんど最上位にあるといえた。彼がこの場にいることで発生する緊張感は、街頭に立つ警察官や教壇に立つ生活指導の先生とは比べものにならないのだ。
「おかげさまで、クルス枢機卿。あなたの名前が悪魔召喚の魔法陣に出たから、最初は目を疑ったわ。勇者がらみなんでしょう?」
もちろんシニッカがそれを気にすることなんてない。おかげでイーダも過度な緊張をせずにすんでいる。
「はい……。我々の力ではいかんともしがたい状況になっておりまして」
あくまで落ち着いたクルス枢機卿の口調を、イーダは不思議に思った。悪魔召喚の魔法陣に彼の名前が浮かび出たなら、今回代償を支払うのは彼なのだ。なのに彼は冷静な態度で「仕事の話」を進めようとしているのだ。
魔王だろうともテクラ教会の重要なポジションにいる自分には手を出せない、そんなことでも思っているのだろうか。それとも逆に、シニッカのことを信頼しているからこその態度なのだろうか。
「彼らがいるということは、冒険者ギルドも巻きこまれているわけね?」
シニッカが冒険者たちに目線をむける。見るからに普通じゃない装備を身に着けた、おそらくただ者じゃない彼らも、魔王と枢機卿の前では居心地が悪そうだ。
先頭にいたひとり――おそらくリーダーで、身に着けた服から魔力を感じる男性が、緊張した面持ちをして一歩前に出る。
「冒険者マルコ・ゴメス・セルダと申します。遠路はるばるご足労、感謝いたします」
日焼けした立派な体格に、岩のようなゴツゴツした顔。定規を使って書いただろう四角い輪郭のあごの上、これまた定規を使って直線を引いたように口元をきゅっとむすんでいた。もじゃもじゃの腕毛と髪の毛が、緊張した空気にふるふるしている。
そんな彼にシニッカは顔をむけて、いたずらっぽい表情をした。
「存じております、マルコ殿。セルベリアのAクラス冒険者だもの」、わざわざかしこまった言いかたで、両手を体の前で開いたりなんかして、魔王は冒険者に微笑みをむける。
「き、恐縮です」
「毛が濃いわね。もしかして、あだ名はもじゃもじゃの毛?」
(――ちょっ、失礼だよ!)
イーダは頭の中でツッコミを入れるも、当のマルコはわき腹でもつつかれたようにピクンとはね、意外そうな顔をした。
「よ、よくご存じで! よろしければ、そうお呼びください」
(え⁉︎ いいの⁉︎)
「そうさせてもらうわ」
クスリ、と口に手をやるシニッカと同時に、こらえきれなかったか、ナンバー2だろう冒険者のひとりが軽く噴き出す。そのおかげもあって、ようやく大教会堂の中にあった肌を刺すような空気――過度な緊張感がやわらいでいく。
(シニッカみたいに身分の高い人に、あだ名で呼ばれたから嬉しいのかな?)
「緊張しないで、冒険者たち。私たちヴィヘリャ・コカーリが欲しいのは正確な情報よ? 緊張するあなたたち――まるで熊の前へ裸で立っているようなあなたたちから、それが聞けるとは思っていないわ」
「ご配慮、感謝します。なんとも、こういう役割は苦手でして」
輪郭と表情が直線定規から解放された冒険者マルコ(ニックネームの意味は「モジャ君」?)が、自然な笑顔を取り戻す。
「ああ、クルス枢機卿には失礼のないようにね?」
「いえ、私も構いません。過度な緊張は非効率を生みますから」
権威の象徴みたいな人の意外な言葉。しかし全員の同意を得たことで、話は先に進みそうだ。
(よかった……。さて)
イーダは自分もふくめた全員が用意された席に座り、会話がはじまるまでのちいさなすきを見逃さない。
(天井画……)
ふたたび口を開け、真上を見る。いたくお気に入りとなった荘厳な光景を、ペストマスクごしに両目へ刻むためだ。
(すごいなぁ)
仕事に慣れてきたのか、ヴィヘリャ・コカーリの中で一番のずうずうしさを見せる彼女は、サカリが頬をかくのにも、ヘルミが苦笑するのにも気づかない。
会話がはじまるまでの30秒間、イーダは荘厳な天井画をおおいに楽しんだ。そして会話がはじまると、名残惜しそうに目線を戻すのであった。




