7.未来
「良かったなぁ~」
自分がお祝いのりんごを剝きながら声をかけると、相槌をうつようなタイミングでぶふんと鳴いた。
いや、今のは相槌ではなく、はやくりんごを寄越せという催促かもしれない。
あの後、とんとん拍子に契約が進んで、小早川ご夫妻はお帰りになった。唯一手間取ったのが売却金額だった。自分としては引き取ってくれるのならいくらでも!って思っていたから、350万を提示されたときはちょっと以上に驚いてしまった。もちろん、予想よりもずっと良い金額を提示してもらえたからだ。
うちの馬を高く買ってもらえるのは純粋に嬉しい。零細牧場なんだから。
でも、それはどこに出しても恥ずかしくない馬を売りに出すときだ。嫌、あの子が出来損ないというわけではなくて、世間の評価という意味でだなぁ。なんなら二束三文で売りに出そうと思っていた過去がある自分としては、もう足元見られた金額を提示されてもいいかなとさえ思っていた。もちろん、この夫婦がそういうことをしそうには全く見えなかったけれど。ただ、350万は完全に想像の上すぎて。
安く買い叩こうとするのが人というものだ。だからこそ、そこを交渉で高く値を釣り上げるのも牧場経営者としての手腕が試される場面だし、妻もいるおかげで今までいい値段で売ってきた。だから、一瞬この夫婦にはなにか裏があるのか?と穿った見方をしようとしたけれど、ただの仔馬一頭でしかもこっちは地方の零細牧場。裏があるわけないんだわ。純粋にこの子が欲しいらしい。
350万を提示してきたということは、たぶん事前に八戸の馬のセールの平均金額を調べてきていたんだろう。そういう意味では、思いつきで馬を探しに来たわけではなくて、本当にあの子を探してここまできたんだという本気度が伺える。アポロジュウハチ号にどんな因縁があるんだろう?
まぁそれは今はおいておいて。
来年以降の取引の芽があるのかはわからないけれど、ここでお近づきになれたのも何かの縁。その縁を大切にしなければと思って、懇切丁寧に、そんな高い金額では売るわけにはいかないということを説明させていただいた。後々の禍根になるような真似は絶対にしないほうがいいのだ。
それでも、なんやかんやあってやっとお互いに(というかこちらが一方的に納得できる内容で)売買契約は成立した。引き渡しは入厩可能になる来年の2月。それまではうちの牧場で預かることになった。ということはこちらで馴致をしないといけない。まぁ少しずつ始めていたし、賢い子だから問題ないだろう。できるだけのことはやってあげようと思う。
そこまで考えてぼーっと動かなくなった自分に、次のりんごを早く寄越せとユキが催促してきた。
ずっと手に持ったままだったりんごを思い出して、馬の目の前に差し出す。そのりんごが馬の口に吸い込まれる前に、ふっと思いついてまて!と声をかけてみた。ただの思いつきだった。
そしたらなんと、ユキがとまったのだ。
おお……。
ヨシ!というと、顔が近づいてきて、自分の手に合ったりんごが口に吸い込まれて消えた。
だれか教えたのだろうか?
じっとユキの顔を見る。普通の馬とは違う知性をうかがわせる目。いや勘違いだ。
でも、と今日の様子を思い出す。小早川の奥さんの言っていたことも。一人レース……。昨日の一人持久走……。そんな話は聞いたことない。けれど、考えれば考えるほどそうとしか思えなかった。あの人は、ユキがウィニングランをしている姿に見えると言った。奇しくも、自分もあの場面がそのように見えた。
以前から感じていた違和感。
「なぁ、お前って実はめちゃめちゃ頭いいのか?」
口に出して、あまりの馬鹿さ加減につい周囲を見渡す。大丈夫。もうみんな帰った後だ。誰もいない。
自分の発言が恥ずかしくて、急いでもう一切れ差し出すと、ユキの視線とぶつかった。
「待て」
そう言うと、ユキは食べる素振りすら見せない。
「良し」
そう言うと、こっちを窺うそぶりをみせてぱくり。
うーん賢い。愛犬のタロウの顔が思い浮かんだ。
「うまいか」
ユキがぶひひんと鳴いた。
「お前は本当にりんご好きだよな」
もう一声、ぶひんと返事があったので、最後の一切れを渡した。あっという間にこの世からりんごが丸々一個なくなってしまった。
そう言えば。
「みかんもあったわ。食うか?」
とポケットから取り出すと、ユキが目に見えてテンションが上がった風に前足を動かした。
普通馬は見たことのない物は警戒するのに、かわったヤツだと思いながら丸々差し出すと、ユキが不満そうにぶももと鳴いた。
「なんだ、うまいぞ。食ってみ」
目の前に差し出すが、何が不満なのかぶももぶももと言い続けている。
「まさか皮を剥けってか?お前よく知ってるな」
そう言って皮をむいていると興味深そうに手元を覗き込んでくる。
そうして綺麗に皮を剝いたみかんを半分に割って、片方を差し出す。すぐに首が伸びてきて口の中に消えていった。そして嬉しそうに一声鳴いた。
「お前は本当に賢いな。時々、こっちの言っていることが分かっているように見えることがあるよ。人間なんじゃないかと錯覚するくらいに」
そう言ったとたん、ユキがぶひひんぶひひんとひどく興奮したように鳴き始めた。
おいおい突然急にどうしたー?
「どうしたどうした。落ち着け~。ほらほら。な?なんだどうした?今までこんなに暴れたこと無かっただろ。何か気に食わないことあったか?」
珍しく興奮したように馬房内でユキが暴れたが、しばらくするとなんとか収まった。ちょっと去年のことを思い出して背筋がぞっとした。
「どうした~?みかんがそんなにうまかったか?また今度持って来てやるよ。あんまり食べるとよくないから時々だけどな」
どうやらまた気絶するなんてことにはならなくて、ほっとすると同時に、ユキの不満そうな声がなんだかおかしかった。
うーん。春と言っても夜は冷える。体がすっかり冷えてしまった……。
しょんべんがしたくなったので帰ろうと立ち上がると、じっとユキがこっちを見ていた。
「お前は不思議なヤツだよ。ほんと。けど、買い手が見つかって良かったな」
そういって顔を優しく撫でてやった。本当に良かった。
「うちの牧場に生まれてきたのも何かの縁だよな。だから、どうしても買い手を見つけてやりたかったんだ。本当に良かったよ。なぁわかってんのかー?まぁお前頭いいから分かってそうだよなー」
一声返事をするように鳴いた。
良かったな、ともう一撫で。
「お前の未来が今日、開かれたんだ」
そう言うと、白い仔馬が小さく同意するように声を上げた。それはほんとうに微かな声だったけれど、なんとなく、ありがとう、と言っているような気がした。